Minute By Minute
ミチルの返答に、しばしグロリアス・レコードの平田氏は無言だった。笑顔は後退し、かわりに苛立ちと困惑が見てとれる。
「メジャーデビューの機会を断る、という事ですか」
そこには、理解しがたい、という気持ちが含まれているように、ミチルには見えた。他のメンバー4人は、ミチルと平田氏のやり取りを見守っている。
「今のようなインディーレーベルでは、事務所のバックアップは期待できませんよ。ハッキリ言えば、資本力がないのですから」
「わかっています」
「私達には、あなた達をヒットさせてやれるリソースの全てがある。なぜ、それを拒むのですか。他のみなさんは?」
平田氏は、ジュナ、マーコ、クレハ、マヤを見た。一様に難しい表情はしているが、ミチルに異を唱える様子はなく、理知的で気丈なマヤでさえ、ミチルに頼るような目をしていた。ミチルは、全員の気持ちを代弁しなければと思い、平田氏に向き合った。
「私達は、確かに少しばかり話題にはなっていますが、自分たちはまだ先を模索している状態だと思っています。それに、メジャーとかヒットとか言われても、まだそこまでの現実感もありません」
ミチルはいったん言葉を途切れさせる。平田氏の表情は変わらず、口を開く様子はない。
「正直な気持ちを言います。私達は、自由に音楽をやりたいんです。メジャーとか、インディーとか、関係なく。そして、この夏以来ずっとオリジナル曲を作ってきて、自分の作品で勝負したい、と思うようになりました。……ベテランのプロデューサーさんからすれば、女子高校生の夢想だと思われるでしょうし、実際そのとおりだと思います。けれど、夢想でも何でも、それが私の…いえ、私達のやりたい事なんです」
ミチルは一気に並べ立てたあとで、ついマヤの目を見た。マヤは、ミチルの目を見て微かに頷いてくれた。
少しの沈黙ののち、クレハが口を開いた。
「平田さん、ひとつ質問させてください。その資料には、ガールズフュージョンプロジェクト、とあります。仮に私達がプロジェクトの中でオリジナル楽曲を発表したとして、その権利は誰に委ねられるのでしょうか」
すると、またしても平田氏は、どこかで見た、誰かと同じ表情を見せた。それは、豊国エンターテインメントの営業の人物がみせたものと同じだった。クレハは畳み掛けるように追求した。
「プロジェクトの下で活動する以上、それは職務著作扱いになり、著作者人格権もプロジェクト、つまり会社のものになる。違いますか」
「…なるほど。どうやら君達は、こちらが思っている以上に、場数を踏んでいるらしい」
平田氏は深いため息をつくと、おもむろに広げた資料をケースに戻し始めた。
「そんな質問をするということは、以前にどこかのプロダクションと、同じやり取りがあったということだね」
資料を収めた書類ケースを鞄にしまい込むと、平田氏は力無い笑みを浮かべた。その笑みにはそれまでの険が引いて、代わりになんとも言えない切なさが混じっていた。
「いいだろう、話は終わりだ。もとより、こうも意志が固い子達は従えようとしても上手く行かない。それは、私の経験で知っている事だ」
「…言い過ぎたかも知れません。それについてはお詫びします」
ミチルは再び席につくと、小さく頭を下げた。
「なに、気にする事はない。そう、私は君達の価値観からすれば、悪党かも知れない。確かベースの千住さんだったね。君の言うとおり、プロジェクト内で君達が制作した楽曲は、我々レーベルのものになる。通常は個人のものになるはずの、著作者人格権までもね。なぜなら、活動の主体がプロジェクトにあるからだ」
悪びれもせず平田氏は言った。
「そうだな、もし私に対して礼を失したと思っているなら、あまり早く会社に戻って何か言われるのも嫌だし、時間つぶしの世間話に付き合ってもらうとしよう」
氏はネクタイを緩めると、脚を組んでフランクな姿勢をとった。何となく、こちらがこの人物の"素"のようにも思える。
「この世界で成功した人間やグループは、大雑把に分けて2種類いる。ひとつは、流行やシステム、組織に従順な者だ。まあ言ってみれば”職業軍人”のように活動する事を、受け容れられるタイプだ。実力の有無を問わずね」
もう最初の目的を放り出した平田氏は、ただの説教臭いオジサンと化していた。
「もうひとつは、わかるかい」
ある意味ではリラックスし始めたミチルは、話が終わったのなら雑談くらい構わないと、私見を答えることにした。
「実力がある者、ということですか」
「それだけでは、解答としては未熟だな」
くせのある笑みを浮かべて、平田氏は答えた。
「実力があり、かつ揺るがないビジョンを自分で描く事ができて、さらに何者にも、どんな事があろうと、テコでも絶対に服従しない覚悟と信念を持った者だ。それを貫ける者は、百万人に一人もいない。そういう人間は目を見ればわかる」
平田氏は、ミチルの目を真っすぐに見て言った。
「そういう人間は、概して苦難の道を歩く事になる。当然だ、世界は我々に従え、と要求するんだからね。映画"マトリックス"に出て来る、"エージェント"みたいなものだよ。プログラムに従わない者、プログラムの正体を知ってしまった者を、排除するか同化させようとする。自我を殺してシステムに忠実な存在になれ、とね」
平田氏は一瞬目を閉じると、何か考え込むように俯いて、また顔を上げた。
「才能と意志を持った者のほとんどが、どこかの時点で望みを捨てて、凡庸な道を静かな絶望と共に生きるか、失敗して惨めな人生を送る。家族にさえ白い目で見られる人生をね。才能がある事は、ある意味では不幸だとも言える。たいていは味方も理解者もいない。発狂せずに生涯を終えられれば、幸せなほうだろう」
その話を聞きながら、ミチル達は困惑していた。一体なぜこの人は、そんな話をわざわざするのだろう。まるで、そんなふうに生きた人間を知っているかのようだ。
「だが、その苦難の全てに打ち克った時、その人は目を瞠るような偉業を達成し、誰も到達できないような世界に旗を立てる事ができる。何万光年も彼方の、誰も見たことがないような世界にね」
そう言って、平田氏は静かに立ち上がった。
「私は名プロデューサーなどと言われる事もあるが、中身は"エージェント・スミス"のようなものだ。間違っても、私が案外いい人だ、などと思わないで欲しい」
平田氏は、ミチルが突き返した名刺を無造作にポケットに仕舞った。まるで、名刺の肩書きを嫌悪するかのような表情を一瞬見せながら。
「嫌な大人らしく、あまり楽しくない事を言って、帰る事にしよう。歳を取った時に、追っていた夢が叶っていないというのは、何よりも辛いことなんだ。その覚悟があるのなら、君達は君達の道を貫きなさい」
グロリアス・レコードの平田氏が帰ったあと、ミチルはとりあえず顧問の竹内先生に、話は何もまとまらず終わった事を報告した。先生は、いつものようにはにかんで「そうか、わかった」と答えた。黙っていると鈴木雅之っぽいが、笑うと具志堅用高になる、不思議な顔立ちである。
「それじゃ、失礼します。取り次いでいただいて、ありがとうございました」
「大原」
竹内顧問は、職員室を去ろうとするミチルを引き留めた。
「まあ、なんだ。お前達は納得できなかった事があるんだろう、それはそれでいい。お前達の選択だからな」
だが、と先生は言った。
「大人になると人間ってのはたいがい、自分を曲げなきゃいけなくなる時がくる。みんな、生きなきゃならない。家族、仲間を守らなきゃならない。そして人間は、曲げた考え方こそ正しいんだ、と思い込むようになる」
先生は、デスクの上のコーヒーカップを見つめながら、呟くように言った。
「誰も、理想を曲げた自分を認めたくないからだ。だから、自分の尊厳と精神を守るために、理想そのものを書き換える。今はわからないかも知れないが、大人になると、どうしてあの人がこうも変わってしまったのか、と思う事があるものだ。人間ってのはそれぐらい、弱い生き物だ。お前のように、強い人間は滅多にいない」
そう言われて、ミチルは首を傾げた。
「…私、ストレスで難聴やらかした人間ですよ」
「そういうのじゃないんだ。お前は、どれくらい自分が強い人間か、わからないかも知れん。だからまあ、人間ってのはみんな弱いんだ、って事だけ、理解してやってくれ。そして、弱いことを受け入れるのも、人間としてのひとつの強さなんだと」
まるで、他の人とは違うような言われ方に、ミチルは少々憮然としたが、自分の3倍近く生きている人間の言う事なので、いちおう聞いておく事にした。
職員室を出たあと、ミチルは思い悩んだ。あの平田という人のオファーを、受けるべきだったのだろうか。「大人」になるべきだったのだろうか。
竹内先生は、ミチルを強い人間だと言った。自分がそんな人間だとは、ミチルは思えない。ジュナからはしょっちゅう泣き虫とからかわれているし、ふとした事ですぐ落ち込んでしまう。マヤの方がよっぽど強い人間に思える。だが、マヤは答えが出せない時、ミチルを頼るような態度を見せる事もある。
自分は強い人間なのか。そして、強かったらどうだというのか。答えは出ないまま、昇降口を出ると夕暮れの中部室に向かった。
「おっ、先輩おつかれっすー」
部室のドアを開けると相変わらず、サトルの軽い声が出迎える。こいつは一種のムードメーカーだな、とミチルは思った。こういう種類の人間は貴重だ。部室では、2年生の指導で1年生がフュージョン部の定番ナンバーを練習している所だった。
「いいとこに来た、ミチル。とりあえず、スクェアから何曲か覚えたっていうから、厳しく採点してやってくれ。厳しく」
ジュナがわざとらしく強調すると、薫以外の1年生はとたんに緊張した。ミチルがフュージョンというジャンルに一番造詣が深い事は、全員が知っている。
「ふーん。何ができるの?」
「最初だから、演奏しやすい所で”OMENS OF LOVE”でいいんじゃないか」
ジュナの提案に、1年生は少し安心したように頷いた。確かにスクェアの中では、難易度低めで人気がある、定番のナンバーだ。全員がポジションにつく。そのとき、ミチルはアンジェリーカが見慣れないものを手にしている事に気付いた。AKAIのウインドシンセサイザー、EWIである。
「アンジェ、あなたそのEWIどうしたの」
「アオイが、ネットオークションで激安で見つけてくれたんです。型がだいぶ古いんですけど」
いちおう完動品で、1万4千だという。安い。ちゃんと鳴るのだろうか。
「んじゃ、いくよー」
キリカが合図すると、全員が頷く。おなじみのキーボードから始まるイントロが流れた。”OMENS OF LOVE”。THE SQUARE時代の1985年のアルバム”R・E・S・O・R・T”に収録の、スクェアのライブでは最も盛り上がる曲のひとつだ。スピード感と温かみがあり、比較的演奏しやすい事もあって、フュージョン部では新入部員がまず最初に覚えるナンバーでもあった。
「おっ」
ミチルは、アオイのドラムがいよいよサマになってきた事に気付いた。今までは恐る恐る叩いている感じがあったのだが、今は慣れてきたのか、普段のデジタルパーカッションと変わらない調子で叩いている。
アンジェリーカもサックスだけだった所にEWIはどうなのかと思っていたが、なかなかどうしてきちんと操作できている。EWIはウインドシンセサイザーの中では最も有名でありながら、運指の感覚が違うため”サックスの代わり”としては多少クセがあり、全く別の楽器として捉えた方が良い。アンジェリーカはそれをミチルに教わるでもなく理解しているようだった。
サトルのベースはきちんと弾けている。特に面白味はないが、そつなく弾けるだけでも上出来だ。そして、青のアイバニーズがだいぶ板についてきたリアナのエレキギターは、ジュナの指導もあってか、いよいよエレキの何たるかを理解し始めたようだ。ジュナみたいな野性的なエネルギー感はまだまだだが、逆にクラシックギター出身だけあって、音程の正確さは上回っているかも知れない。演奏が終わると、ミチルは拍手で応えた。
「お見事。私の知らない間に、みんな頑張ってたんだね。ちゃんとフュージョンの音になってる」
ミチルの言葉に、5人はホッとしたように肩を下げた。そこまで緊張しなくてもいいのに、と思う。
「良かったな。あたしらなんて最初の頃は、演奏間違えるとアルトサックスのケースで殴ってくるんだぞ、ミチルは」
「何デタラメ吹き込んでんのよ!ミスると横目で睨んで来てたのは、あんたでしょ!」
「なんだそれ。知らねー」
ミチルとジュナの漫才に、1日1回はやらないと気が済まないんだろうか、とメンバーが視線を向けた。リアナは何となく羨ましそうな表情を見せる。
「こほん。他には何か覚えたの?」
「とりあえず”TRUTH”と、”It's Magic”と、今の曲だけは覚えろ、ってマヤ先輩が言うので覚えました」
アンジェリーカの言葉には自信が感じられる。たぶんもう、いつでも弾けるのだろう。
「定番中の定番だね。よーし、それじゃ今度は洋楽も演奏してみようか」
ミチルの提案に、1年生は再び緊張の色を見せた。やっと3曲覚えたところで、さっそく次の課題を出してきたのだ。ミチルはすでにレパートリーを考え始めていた。
「イントロのリズムが難しいけど、ラリー・カールトン版の”Minute by Minute”なんてどうかな」
「無理でしょ!あのイントロ、あたしだって未だにきちんと弾ける自信ないもの!」
突然マヤが横から口をはさんだので、キリカが焦る。するとマーコが「やってみせりゃいいじゃん、先輩として」と適当に言ってみせた。もともとはドゥ―ビー・ブラザーズの曲で、ラリー・カールトンが1986年のアルバム”Discovery”でカヴァーした、アコースティックギター主体でスローテンポの軽快なナンバーだ。1年生の「やってみせろ」という視線が痛いので、2年生は仕方なく久々に演奏する事になったのだった。
「んじゃクレハ、いくよ」
「いいわよ」
「ワン、ツー」
マヤとクレハのキーボードとベースによる、独特のリズムのイントロが始まった。しかもその厄介なリズムから、普通の拍子に移行しなくてはならないのだ。曲調じたいはのんびりした曲なのだが、演奏してみて難曲だと気付くパターンである。
導入はどうにか問題なく弾けたものの、やはり拍子の切り替えでマヤもクレハもほんの僅かに崩れを見せたが、ドラムスの音で多少誤魔化せた。そこからのギターとサックスは楽なものである。マヤは楽しそうにアコギを弾くジュナを恨めしそうに見た。
それでも久々にコピーナンバーを演奏するのは楽しく、2年生は笑顔でラストまで演奏し終えた。1年生から拍手が送られる。
「メインのパートは普通の曲なんで出来そうっすけど」
ベース担当のサトルが渋い顔をする。やはりイントロが引っかかったようだ。
「どう弾くんすか」
「こう。説明は難しいから、まずは耳と腕で覚えて」
クレハがもう一度マヤに合図して、一緒にイントロだけを弾いてみせた。
「タンタンタンタンタン、タンタンタンタンタン」
「わかる?このリズムに合わせてキーボードを弾くの。理屈がわかればどうって事ない」
マヤはキリカと連弾をするように立って指導した。キリカは眉間にシワを寄せている。
「よし、決まったね。課題曲だ」
「えーっ!」
1年生の演奏組から、不満と不安の声が一気に上がる。さっき”無理”と言っていた張本人が、ものの数分で手のひらをひっくり返したのだ。まあ、ムチャブリをするのもたまにはいいだろう、とミチルは笑った。
だが、1年生に課題を出した自分達にこそ試練が待ち受けているとは、その時のミチル達は知りようもなかった。