アランフェス協奏曲・第一楽章
再びステージでギターを弾く。村治薫にとって、それがどんな意味を持つのかはわからない。電車で大原ミチル先輩と別れたあと、車窓を流れる街並みを見つめながら、薫は考えた。
ステージに立って弾けないのは、完全に、100パーセント、精神的な問題だ。小学生の頃出場したコンクールで負けた事ではなく、自分に負けた少女が悔しさで号泣していたのを目撃した事が、薫に衝撃をもたらしたのだ。
音楽が人を敗者にし、絶望させる。それは音楽のあるべき姿なのか、という問いに、薫は小学校3年生にして苛まれてしまった。それからは、クラシックギターの神様と呼ばれた祖父、村治幸之介の勧めさえも無視して、ステージに立つ事を拒んだ。だが、祖父にギターを習った手前、その腕前を錆び付かせる事もしたくないので、人知れず練習は続けてきた。それを祖父は知っているので、薫に無理強いはしなくなった。
もし仮にステージに立つ事ができるようになって、音楽の道を進む事になったのなら、祖父は喜んでくれるだろうか。そんな事を考えながら自宅の門をくぐると、その祖父が庭に出て、趣味のカメラで夕暮れの庭を撮影していた。
「ただいま」
「おお、帰ったか。おかえり」
祖父は、撮ったデータを再生して満足げに頷くと、暗くなってきたのか、自分も庭石を踏んで玄関に戻ってきた。
「薫、お前の書いた記事を読んだぞ。なかなか、面白いじゃないか」
祖父は、得意そうに白いひげの顔で笑った。
「ミュージシャンが意外にオーディオに無頓着だ、というのはなかなか鋭いというか、耳が痛い指摘だな!」
「爺ちゃんは、いいシステム持ってるじゃない。だいぶ古いけど」
「高かったからな。それに、まだ若い頃に奮発して買ったから、思い入れもある」
薫は祖父の部屋にある、30数年前の相場で総額250万円くらいの、オーディオコンポーネントのセットを思い浮かべていた。プレイヤーやアンプ類はヤマハなど日本製だが、スピーカーはソナス・ファベールというイタリアのメーカー製だ。祖父は若い頃スペインでギターを学んでおり、修行の土地での凱旋コンサートでヨーロッパを回った際に、今使っているスピーカーに出会ったのだ。
このスピーカーとオーディオシステムが、薫の興味を引き付ける事になる。祖父に連れられて色んなクラシックコンサートを聴きに行ったが、祖父の高価なシステムで再生したレコードでさえ、生のステージの迫力は伝わって来ない。これが500万、あるいは1,000万を超えるシステムであろうと、生の音には匹敵できないのではないのか。
だが逆に、その不完全性が薫にとっては面白かった。オーディオはどこまで行っても不完全なものであって、逆に言えば追求の楽しさが無限に続く。そこから独自にオーディオにのめり込み、様々な文献を読み漁るうちに、ついに自作スピーカーの楽しさに行き着いたのだ。音楽にせよオーディオにせよ、薫にとってその出発点は祖父だった。
「爺ちゃん、もしもだよ」
薫は、靴箱に学校指定のローファーを仕舞って、スリッパを履いた祖父に訊ねた。
「もし、僕がまたステージに立ったら、ちゃんと弾けると思う?」
その問いに、祖父は一瞬だけ厳しい表情をのぞかせ、すぐに元の柔和な顔に戻った。
「ふむ」
「学校の先輩から今度の文化祭で、僕ともう一人の女の子…昔、爺ちゃんの教室で習った事がある、戸田リアナって子と一緒に、ステージで弾いてみろって勧められてるんだ」
「なるほど」
祖父は、ひげを触りながら思案した。これは何か考えるときの仕草である。
「お前がステージに立てない事を知っているうえで、勧めてくれたんだな」
「うん」
「お前は幸せ者だな。本当に、いい先輩に恵まれたようだ」
祖父は目を細めてそう言った。いい先輩。確かにそうだ。たまに人使いが荒いと思わないでもないが、それは先輩たち自身が率先して突っ走るからだ。特に、ミチル先輩はそうだ。あの人が、みんなに指針を示してくれている。
「薫。私は、お前にギタリストの道を、必ずしも強いようとは思わない。音楽は、強いられてやるものではないからね」
「…うん」
「ただ、人生にはね。それをしなくてはならない時、というのが確かにあるんだ。不思議だが、それは確かに訪れる。私が学生の頃、ガットギターと出会った時のようにね」
祖父は、わずかに遠い目で若かりし日を思い出しているようだった。祖父が初めてギターに触れたのは、中学生の時だったと聞いている。どこかの楽器工房を、理由は忘れたがたまたま訪れて、ガットギターというものを知ったのだ。
「それがどんな意味を持つのかは、わからない。だが、お前がどんな道を辿るにせよ、心の枷を外す事ができれば、ひとつお前は自由になれる。そうじゃないかな」
自由になる。それでは、今の薫は心に不自由さを抱えているのだろうか。自分では、好きなようにやっているつもりだ。だが、実はそうではないとしたら。
その夜、薫は自問した。自分はどう在りたいのか。どういう存在なのか。その答えが、ステージに立つ事で見えて来るのだろうか。頭は悪くないつもりだが、しょせん15歳の少年である。物事の答えなんか、そう簡単には出てこない。ただ、先輩たちのレコーディングや、ミキシング、マスタリングを手掛けているときは、自分に疑問を抱く事がない。それが、自分の道なのだろうか。
◇
戸田リアナがジュナ先輩にエレキギターを習い始めて、そこそこ経った。クラシックギターとはだいぶ勝手が違うので、最初はなかなか上手くコツが掴めなかった。先輩はアコースティックギターもエレキも両方こなせる。一体どうすればそんな風にできるのか、とストレートにたずねた時の、先輩のアドバイスは絶妙だった。
「クラシックギターとエレキを、兄弟だと思うからダメなんじゃないのか。同じ哺乳類でも、ラクダとイルカじゃ住んでる所も生態もまるで違うだろ」
その一言が、リアナの「どっちも同じギター」という固定観念を吹き飛ばした。あえて、違う楽器として捉えるべきだったのだ。エレキにはエレキの鳴らし方がある。そう認識した瞬間に、リアナはエレキの弾き方を掴む事ができた。リアナなりの答えは、「アンプから出る音に任せる」という感覚だった。躾けるのではなく、鳴りたいように鳴らさせておく。
「おっ、上手くなったじゃん」
マーコ先輩が、感心したように腕組みしている。この人はウソをつかないというか、つけない人だ。この人がそう言うなら、自信を持って良さそうだとリアナは思った。だんだん、ジュナ先輩から預かっている青いアイバニーズが、手になじんできている。いつか返却しなくてはならないのだと思うと、なんだか今から名残惜しい。
そう思っていると、意外な光景がリアナの目に飛び込んできた。
「あれっ、村治君?」
そう、いつもならパソコンのレコーディングソフトとにらめっこしている村治薫くんが、クラシックギターを手にしているのだ。
「どうしたの?珍しい」
「うん、…ちょっとね」
相変わらず村治くんはおとなしい。オーディオの事を訊ねたら最後、選挙前の街頭演説みたいにエンドレスで語り始めるのに。するとそこへ、学科が同じミチル先輩とマヤ先輩がぞろぞろと入ってきた。
「ひっひっひっ」
マヤ先輩が、なんだか涙目で笑いながらミチル先輩の背中をバンバンと叩いている。
「ひーっひっひっ」
「いつまで笑ってんのよ!」
ミチル先輩が目をむいて、マヤ先輩に抗議する。何かあったのだろうか。クレハ先輩達は「またか」みたいな視線をミチル先輩に向けているので、たまにある事らしい。マーコ先輩が、もう呆れるのも飽きた、といった風にドラムのセッティングを調整しながら訊ねる。
「今度は何?」
「みっ、ミチルがね、授業中にね…ひっひっひ」
もう、マヤ先輩は笑って話ができない。もはや先輩たちは、何があったのか訊こうともしない。そのうちマヤ先輩が落ち着いたら話してくれるだろう、という調子である。ただ一人ミチル先輩だけが、憮然としてEWIの準備を始めた。
「リアナ、こんな風に人の事笑う人間にならないようにね」
どう反応すればいいのだろう。とりあえず無言で頷いておいたが、先輩は思い出したようにポンと手を叩いてリアナを向いた。
「あっそうだ、リアナ。ちょっと文化祭の事で話がある」
「えっ」
なんだろう。部室前で学年交替でやるストリートライブなら、もう打ち合わせ済みである。ところが、返って来たのはまったく予想外の答えだった。
「フリーのステージパフォーマンスに、あんたと薫の二人で、ギターの二重奏をやってほしい」
「はあ、なるほど…」
そう生返事をしかけて、リアナは驚いてミチル先輩と村治くんを交互に見た。
「はい!?」
リアナは、正気かと問い詰めるようにミチル先輩を見る。当たり前だ。村治くんはメンタル的な理由から、大勢のオーディエンスがいるステージでは演奏できないと言っているのだ。それを、ステージに立たせるとはどういうつもりなのか。
「ふっ、フリーのステージパフォーマンスって」
「ああそうか、1年だから知らないんだね。うん、なんかステージでやりたい人は文化祭の実行委員会に登録して、最大15分まで好きなようにパフォーマンスできるの。去年も濃い人出てたなあ、なんかよくわかんないお話を延々朗読してる女の子とかさ」
すると、マーコ先輩が食い付いてきた。
「落語研究会の大喜利、あれ面白かったよね。途中で座布団崩れちゃったりしてさ」
「漫才やってる人達もいたよね。全然面白くなかったけど」
さんざんな言われようである。リアナは恐る恐る確認した。
「そっ、それって、お客さんはどれくらいいるんですか」
「客?去年はもう体育館の奥まで、満員御礼だったよ。毎年そんな感じだって、ユメ先輩が言ってた」
それがどうした、ぐらいのノリで言われると返す言葉もない。先輩たちだって、薫くんがステージに立てない事くらい知っているだろう。正直に言うとリアナ自身も緊張はあるが、市民音楽祭で2千人の前で1曲やったので、そこそこ耐性はついている。だが村治くんは大丈夫なのか。
だが、ミチル先輩に対して、他の先輩は誰一人として意見をしない。もう、言わなくてもミチル先輩の意図をわかっているような様子だ。そして、当の村治くんはというと、無言でギターのチューニングをしている。表情は硬いが、なんとなく覚悟しているようにも見える。そこでリアナもさすがに何となく察した。そこへ、ガチャリとドアが開いてジュナ先輩がやってくる。
「あのくそ先公、面倒な仕事押し付けやがって…おっ、どうした薫、そんなギターどっから持ってきた」
さすがジュナ先輩はストレートだ。いちいち察しているヒマがあったら訊く。自他ともに認める「レスポールを割ったような性格」である。
「うん、文化祭でフリーステージに出る事になった。リアナと」
「うへー、大丈夫なのかお前!コチコチになって、F#m押さえたまんま動けなくなってるんじゃないだろうな」
もう、一切の遠慮会釈なしである。誰もが直接言及するのをためらっている事を、迷う事なく指摘する。さすがだ。こういう人間に、なれるものならなってみたい。こういう人がいるおかげで、進む話というものが確かにある。
「あっそうか、さてはミチルだな。ステージに立てないのを克服するために、いい機会だからやってみろ、ってとこか。そうだろ、ミチル」
「あのねえジュナ、あんた察しがいいのなら、もうちょいオブラートに包むって事を覚えなさいよ。何でもかんでもストレートに言えばいいってもんじゃないでしょ」
「言わなきゃわかんねーだろ。なっ、リアナもそう思うよな」
なんでこっちに振るかな、とリアナは思う。どっちの先輩の味方をすればいいのか。すると、村治くんは涼しい顔をして言った。
「頑張ってみますよ」
この子もこの子だ。顔立ちは天使みたいに可愛いのに、態度は石膏像である。本当に大丈夫かどうかは知らないが、リアナももう腹をくくるしかなさそうだ。
「それで、二重奏って何をやればいいんですか」
「え?ああ、それは好きに決めていいよ。でもせっかくだから、たまにはクラシックギターのデュエットも落ち着いてていいんじゃない?格調高く、ほら、あの…ロドリゲスのなんとか協奏曲」
「ロドリーゴのアランフェス協奏曲」
「そうそう、それ。ああいう格調高いやつも、たまにはいいんじゃないの」
聞いていたマヤ先輩たちが呆れて溜息をついている。ロドリゲスのなんとか協奏曲。ギリギリ通じたのでまあ良しとしよう。これがつい先月、あの世界のステファニー・カールソンのオープニングアクトを務めたバンドのリーダーである。ますます尊敬の念が深まった気がしないでもない。
「村治くん、アランフェス協奏曲は?」
「しばらくやってないけど、まあ名曲だからね。すぐ弾けると思うよ」
「じゃあ、私ギターパートやってみるから、弾けたら伴奏してみて」
いいですか、とミチル先輩たちに目線で確認すると、先輩たちは無言でうなずく。そこでリアナは、エフェクターを全部カットした状態のアイバニーズで”アランフェス協奏曲・第一楽章”の独奏ギターパートを演奏し始めた。本来は協奏曲なのでファゴットなどの伴奏パートもあるが、ここでは村治くんがギターで担当する。
実を言うとリアナも久々に弾くので不安だったが、弾いているうちに思い出してきた。村治くんも天才肌というか、即興で伴奏のキーをギター用に落としてうまく演奏してくれる。さすがに演奏は行き当たりばったりになってしまうが、それでもなんとかそれらしい音にはなった。
途中、メロディーを忘れかけていた箇所で数秒間沈黙してしまったが、どうにか思い出しながら、6分程度の第一楽章を7分以上かけて演奏した。先輩たちからささやかな拍手が送られる。
「うん、いいね。アレンジが即興だからあれだけど。どう、やれる?二人とも」
ミチル先輩はそう訊ねるが、リアナには何とも言えない。演奏能力という点では問題ない。村治くんは祖父ゆずりの腕前だ。だが、ステージで体育館いっぱいのオーディエンスを前にして、弾けるのかどうか。ところが、リアナが答えに困っていると、村治くんが言ってのけた。
「大丈夫です」
なに!?
「リアナもいけるよね」
ちょっと待ってくれ、とリアナは言いたかった。あなたの方こそ大丈夫なのか。そんな事を言って、ジュナ先輩が言ったとおり、ステージで固まってしまうのではないのか。リアナは、自分ひとりでギターソロパートを演奏するのを想像してしまった。
だが、村治くんの何か決意したような表情に、リアナはこれ以上こちらが悩むのは、村治くんに対する侮辱かも知れない、と思い始めた。村治くんは、過去の自分を乗り越えようとしているのではないのか。そうであるなら、友達として自分もできる事をやるべきではないのか。
「…大丈夫です。問題ありません」
リアナは、きっぱりとそう言った。もう、大丈夫だという事にしよう。文化祭のステージで、村治くんとアランフェス協奏曲の第一楽章をギター二重奏でやる。本人がやれると言っているのだから、リアナもそれに全力で応えるだけだ。
こうして、かつて同じギター教室で練習していた二人が、奇しくも再会した高校の文化祭で共演することになったのだった。




