明日への扉
二学期はまず、始業式で1年生の獅子王サトルが表彰される所から幕を開けた。海辺で男性の投身自殺を防いだ事により警察から感謝状が贈られる事になっていたのだが、校長が調子に乗って賞状を用意したのだ。ミチル達も現場にいたが、直接男性を救ったわけではない。ただ、サトルはミチル達が男性の気をそらしてくれたお陰で、救出の隙が出来たとフォローしていた。
余談ではあるが、この事件をきっかけにサトルとキリカが今さら急接近したとかしてないとかいう話が、同じ1年生のアオイによって言い触らされていた。どうやら、二人がその気なら応援してやるという事らしい。なんていい奴だ、とミチルは思った。
そのミチル達はというと、当初から予定されていた通信社のTV取材を予定どおり始業式のあとに受けた。これは過去にラジオ、雑誌と2度にわたって取材を受け、場慣れしていたミチル達には抵抗はなかった。もっとも、その模様が各局のTV放送や、新聞紙面に公開されたあとの反響はそこそこ大きく、ワンダリング・レコードとの契約についても公開されたため、否応なしにミチルたちザ・ライトイヤーズの名は知られる事となる。
ミチル達の独占取材記事が掲載された「月刊レコードファイル」誌は、出るなり完売とまではいかないが、やや年配向けの雑誌としては異例の売れ行きを見せた。同時に掲載された薫によるオーディオ関連のコラム記事も、ミチル達ほどではないがコアなオーディオファンに好評で、自作スピーカーを見たいという一般人の見学申し込みが何度かあった。
ここまで話題になると、ある意味では諦めがついたのか、メンバー達も周囲の人間も、もう慣れたという雰囲気である。ただ、話題ばかりが先行してしまうのと、音源を聴きたいという声に応えるため、2曲だけ先行してPVを公開する事になる。また、話題に対してストリーミング配信される曲が5曲だけというのはいかにも少なく、未発表の曲を仕上げてリリースに備える事になり、話題に対してよりも、実務的なプレッシャーが高まった。
それでもひとまず主要な仕事は片付き、ミチルたち5人は、夏休み中よりもむしろリラックスして過ごせていた。ようやく1年生に楽曲を教える事ができるようになり、T-SQUAREなどの定番ナンバーを久々に演奏するなど、ようやく元のフュージョン部らしいスタイルが戻って来る。そんなこんなで、だんだんと文化祭が近付いてきた。
秋の入りは好きな時期だ。市橋菜緒は、渡り廊下を吹き抜ける冷たい風を受け、澄み渡る空を見上げた。夏のコンクールが終わって、すでに吹奏楽部は引退したも同然の身だが、菜緒はここ最近、時間を見付けてはフュージョン部に顔を出すようになっていた。
「だいぶ賑やかになってきたわね」
すでに部室の住人であるかのような様子で、菜緒はフュージョン部の部室のドアをくぐった。手には愛用のアルトサックスのケースが提げている。菜緒はミチルと文化祭のステージで共演すると約束していたため、演奏の練習に来ているのだ。
「ミチル、見て。ようやく探し当てたわ、中古で」
「え?」
「じゃーん」
菜緒は黒革製のマウスピースケースを開け、渋い金色の4つのメタルピースが輝く、シルバースタインのリガチャーを見せつけた。ミチルと、新入部員のサックス担当アンジェリーカの目が輝く。
「おー、すごい!Q07A!?」
「ふふふ。聴きたい?」
「聴かせてください!」
ミチルとアンジェリーカが、子供のようにリガチャーを締める動作を眺めている。ジュナ達は何の話をしているのかわからない。
「ねえ、リガチャー変えるだけでそんな音って変わるの?」
そのマヤの問いに、サックス3人組は「何をバカな事を」みたいな顔を向けた。
「それ、エレキのピックアップ換えて音が変わるのか、って言ってるのと同じよ」
というミチルの意見に、マヤと薫くんが「なるほど」と頷いた。楽器は色々なパーツの交換で音が変わる。リガチャーはサックスやクラリネットの音の入り口、源となるマウスピースとリードを固定するパーツで、車でいえばサスペンションみたいなものだ。音が変わって当然である。
菜緒は定番のジャズナンバー、”Take that "A" Train(A列車で行こう)”を吹いてみせた。部員が増えた部室に、厚みと芯のあるサックスの音が充満する。ミチルの持っているサックスと似て輝きと伸びがあるが、さらに重厚というか、重心の安定感が加わった音だ。
「おお…いいなあ」
すでに立派なサックス奏者のミチルが、子供みたいに目をキラキラさせる様子は面白かった。
「あの、動画配信の3人組は?」
菜緒はアオイ、キリカ、サトルの3人がいない事に気付いた。
「あの子達は学校のパソコンを借りて、PV動画編集作業です。レーベルに高画質の動画ファイルを送らないといけないので、手持ちのパソコンだと限界がある、って」
「なるほど。もう、部活全体がひとつのチームなのね」
菜緒にとっては、吹奏楽部とはまるで違う活動内容が何もかも新鮮だった。もし自分が、3年の佐々木ユメと一緒にフュージョン部に入部していたら、どうなっていたのだろう、と考えてみる。
「さて、さっそく合わせてみましょうか」
菜緒の合図でミチルがEWI、アンジェリーカがサックスを手に立ち上がる。当初はミチルと2人の予定だったが、どうせなら三重奏でゴージャスにやろう、という事になったのだ。
「じゃあとりあえずルパンやるよー」
ドラムスのマーコに、全員が「ハーイ」と返す。薫くんは相変わらずパソコンの前に陣取っているが、今日は珍しくヘッドホンをしていた。
マーコがスティックでリズムを取り、演奏が始まった。ドラムスのフィルインとキーボードから入り、ベースとバスドラムの重厚なイントロが始まる。大野雄二"ルパン三世'89"だ。ルパン三世のテーマはバージョンが何種類も存在するが、一番有名な78はベタだし、79はちょっと軽い、80は文化祭でやるには派手さが欠ける。97その他は少々マイナー、ということで89に決定した。
問題はギターのジュナの出番がないことだったが、完コピも面白くないので、マヤのアレンジでジャズっぽいギターのリフが入る事になった。
ルパンは吹奏楽でも定番のナンバーだが、こうしてフュージョン形式で演奏するとやはり楽しい。それに、どうせ3人でやるならトランペットのパートも欲しいので、ミチルがEWIで対応する事になった。全体としては非常に重厚かつ、華麗なサウンドである。
定番中の定番曲なので、演奏については何の問題もなく、今すぐステージに上がってやれと言われても大丈夫だった。練習だが楽しい。ちなみに今回は珍しく、クレハとマヤによるコーラスが入っている。クレハはボーカルが得意というわけでもないのだが、声質はセクシーで、ちょっと鍛えればいいジャズボーカルができそうな感じだ。フュージョン部はボーカルが弱いのが勿体ない、とナオは思う。
ちなみに”ルパン三世'89”はフルサイズとTVバージョンで終わり方が違う。今回の演奏はフルサイズで演奏しつつも、締めはTVバージョンと同じアレンジでいく事になった。どうやらそれがフュージョン部の伝統らしい。
「うん、いいわね。何だったらミチル、私がトランペットを調達してきてもいいけど」
菜緒先輩がそう申し出たので、ミチルは断固として丁重にお断りした。
「先輩はアルトが似合うからそのままでお願いします!」
ミチルの迫力に気圧されたのか、若干引きつつも菜緒先輩は頷いた。生のトランペットの音は確かに欲しいのだが、菜緒先輩がアルトサックスを手にした姿は、たぶんこの学校で一番格好いい。そのヴィジュアルをステージで観られないのは損失である。それと同時にミチルは、トランペットも練習するべきだろうか、と考えた。実は、以前のフュージョン部にはトランペット担当者がいたのだ。ミチルも吹けないわけではないが、あまり慣れてもいない。どのみちフュージョン部はEWIのお世話になりっぱなしなので、ここはEWIで行く。
文化祭ではステージで3曲やる予定なので、ルパンに続いてT-SQUAREから”宝島”に”TRUTH”と、これも定番曲をやる。ちなみに、部室前のストリートライブも1日限定で復活する事に決まったが、1年生と3年生が交替で担当、2年生すなわちザ・ライトイヤーズはトリを務める予定である。
3曲通してやってみたが、やはり定番曲は楽しい。定番には定番の理由があり、そこは「ベタ」でいいのだな、とミチルは思った。変にマニアックな曲で客を引かせるよりは、これでいいのだ。「ベタな選曲を大事にする」というのは、フュージョン部の伝統である。
「大丈夫ね、それじゃミチル、悪いけど私はこの辺で失礼するわ」
菜緒先輩も演奏に満足できたようで、黒革張りのハードケースに手入れしたアルトサックスを仕舞い始めた。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「何言ってるの、これはもともと私のワガママで参加させてもらってるのよ。お礼を言うのはこっちよ、参加させてくれてありがとう」
菜緒先輩は、所作のひとつひとつが凛としている。クレハが百合だとすれば、こちらは剣弁高芯咲きのバラという感じだ。
「それじゃ、ごきげんよう」
先輩は、これでひととおり練習を終えたので、あとは文化祭直前にもう一度だけ復習しに来る、と言って帰って行った。実際のところ、もう復習さえ必要ないくらいなのだが、きちっとしないと気が済まないのだろう。先輩が帰ったあとで、ミチルはアンジェリーカにサックスを、ジュナはリアナにエレキギターを教えるなどしつつ、キリカたちが帰って来たタイミングでお開きとなった。
「僕、あっちの部室の整頓と戸締りして帰るから」
薫はそう言って、一人”第二部室”である、もとオーディオ同好会部室に向かった。あっちも時々レコーディングに使用しているので、放っておくとケーブルやエフェクターだとかが散らかってしまうのだ。
ミチルが戸締りをして、薫を除いた10人が夕焼けの中を帰ろうとした時だった。ミチルはマヤに部室の鍵を手渡した。
「マヤ、悪い。鍵、返しといてくれる」
「え?どうしたの」
「私、薫くんの整頓手伝ってくるわ。最近、あっちも何かと使ってるからね」
「あんた一人でいいの?」
「そこまで散らかってるわけでもないでしょ。それじゃ、また明日ね」
ミチルはそう言うと、マヤ達とは反対方向に向かって歩いて行った。
「薫くーん、手伝うよ」
まだ”オーディオ同好会”の札が残る部室のドアを開けて、ミチルはスピーカーが林立する部室に足を踏み入れた。薫は相変わらず、スピーカーから音楽を流しつつ片づけをしている。
「僕一人でいいのに」
「あんたって素直じゃないわよね。ありがとって言っておきなさいよ。ほら」
ミチルは薫が手にしていた長いシールドケーブルを受け取ると、いつもやっているように手早く丸めた。薫は少しだけ呆気にとられた様子を見せたが、すぐにもとの表情に戻った。
「薫の記事、読んだよ。オーディオの事、難しいって思ってたけど、文章にしてもらうとすごくわかりやすかった」
「そう」
「スピーカーは置き台、土台が肝心なんだね。ベコベコのカラーボックスとか本棚に置いてちゃダメなんだ」
ミチルは、薫が雑誌に寄稿した記事の中の、スピーカーの設置方法について思い出していた。スピーカーは固く高密度な床に、がっちりと揺るがないよう設置するべきで、最終的には大地、地盤の固さまでも考えなくてはならない、という理屈は薫らしい。
ところが、薫は必ずしも自分の理屈に固執するわけでもない。
「別に、どこにどう置いたっていいんだよ。音楽を聴く分には、サイドボードの上にCDラジオを載せれば十分だし」
「でも、それだけじゃない、って言いたいんでしょ」
ミチルの言葉に、薫は手を止めて言った。
「まず、基準を誰かが提示するのって、大事だと思うんだ。先輩たちが、高い演奏能力を示してみせるみたいに」
「おっ、褒めても何も出ないぞ」
ミチルは冗談めかして言ったが、薫は真面目だった。
「冗談じゃないさ。大舞台で堂々と演奏してみせる先輩たちって、すごいと思った。自分じゃ、3万のオーディエンスの前に立った瞬間に、ビビッて立ちすくんでしまうかも知れない」
薫はそう言うが、ミチルには少し違和感があった。薫がステージに立てなくなったのは、あがり症だからというわけではない。彼自身の説明によれば小さい頃、コンクールでどこかの女の子を負かしてしまった事がトラウマになり、ステージに立つとそれを思い出してしまう事が、問題の根本のはずだ。そこでミチルは、思い切って訊ねてみた。
「ねえ、薫。あなた、もう一度ステージに立ってみる気はある?」
その質問に、薫は無言だった。
「あなたの録音、音響に関する能力はそれだけで大きな戦力だけど、あなた自身としては、どう?自分で、昔の出来事を乗り越えてみたい、とは思わない?」
夕陽が差し込む部室の中で、ふいに音楽の演奏が止まり、静寂が訪れた。薫もまた無言だった。あの日、泣かせてしまった女の子のことを思い出しているのだろうか。やがて薫は、呟くように言った。
「…無理だよ。きっと、たかだか500人くらいの人数でさえ、前にしたとたん、立てなくなる」
「立ちたい、とは思わない?」
ミチルは、一歩踏み込んで訊ねた。
「薫、私あなたにとても感謝してるわ。あの日、偶然この部室に入ったことで、全然知らない世界がある事を知った」
ミチルは立ち上がると、あの日初めて見た不思議なスピーカー、スワンに手をふれる。焼却炉みたいな姿だが、スワンと呼べば不思議と白鳥に見えてしまう。
「そして、部活がなくなる事を平然と受け容れるあなたの事が、とても潔いな、とも思ったの。けどそれが逆に、私は私の道を行くべきだ、という決意にもなった。あなたがいなければ、今ごろフュージョン部はもう、活動していないか、少なくとも今のような所までは来られなかったと思う」
「買いかぶりすぎじゃないかな」
「それを言うなら、あなたはあなたを過小評価しすぎね」
ミチルの指摘に、薫はわずかに目を開いた。
「この間の、飛び降りようとしてたおじさんを私たちの演奏で引き留めさせるっていう提案。あれがなかったら、あのおじさん、今ごろあの世だったかも知れないわ」
「そうかな。先輩たちの演奏能力があったからだと思うよ」
「能力があったって、それを活かせなければ何にもならない。あなたには、人の力を引き出す能力がある。今まで、あなたが私達にしてくれた事、全てがそうよ。レコーディングも、機材の準備も、セットリストも。ザ・ライトイヤーズは、あなた無しでは誕生できなかったの」
薫は、ミチルの言葉に表面的には何も見せないが、わずかに動揺しているのがミチルにはわかった。薫の中で、何かが変わりつつある。いや、そうではない。変わろうとしているのではない。
「薫、あなたはもう一度ステージに立ってみせるべきよ。誰のためでもない、あなた自身のために」
ミチルは、薫の両肩に手を置いてその透き通った目を見た。
「今度は、私が――いえ、私達があなたに力を貸す番。大丈夫、あなたならできる」
その時ミチルは一瞬、薫の目の奥に、本当の薫が見えたような気がした。風が吹いて、半開きのドアが揺れる。もう、扉を開ける時が来たよ、と薫に呼びかけるように。




