宝島
ステファニー・カールソン、現在26歳のオーストリア出身シンガーソングライター。13歳の時にギターの弾き語りを始める。初期は北欧系の女性シンガーソングライターのコピーがメインだったが、やがてベテランシンガーソングライター、シェリル・クロウのサウンドに傾倒する。
18歳で渡米するも、しばらくはガソリンスタンドで働きつつ、細々と作ったオリジナル曲でライブを行う、無名の貧しい時代が続く。一度、あるレーベルからデビュー直前まで話が進みかけたが、音楽業界の”きわめてダーティーな”側面を知ってしまい、ノイローゼを患って1年近く音楽活動から離れる。
オーストリアへの帰国も考えたが、数少なかった友人たちの薦めもあり、音楽活動を再開。そのころ欧米で流行し始めた日本のシティ・ポップの影響を受け、かつコンテンポラリー・ジャズのエッセンスも加えた独自のジャジー・ポップ・サウンドを生み出した。23歳の時に、ある女性ジャズシンガーの耳に留まり、オープニングアクトに招かれる。その独特のサウンドとクラシカルなボーカルが注目を集め、翌年アメリカのインディーレーベルからリリースしたシングル"Night Owl"がヒット。少しずつファンを獲得し、25歳にしてようやくメジャーレーベルからのデビューを果たす。それが、ステファニー・カールソンが表舞台に登場するまでの活動の軌跡だった。
いま、そのステファニーが初めて日本のステージに立つ。歌姫は、日本の無名の少女5人にオープニング・アクトの白羽の矢を立てた。それが成功するのかどうか、まだ誰にもわからない。
◇
デート、というのは半分シャレなのはわかっている。もう半分はどうだかわからないが。ともかく大原ミチルにとって、市橋菜緒先輩と二人で出かけるというのは、ステファニー・カールソンからOAを任されたのと同じ位予想外の事だった。
先輩は、明後日の準備があるなら断ってくれていいと言ったものの、実のところバンドメンバー全員が先走りすぎて、とっくに準備は終わっており、むしろ時間を持て余しているのだ。ステージでのメイクアップも心配していたのだが、向こうのスタッフさんがやってくれるという。
そんなわけで三奈と真悠子の謝罪を受けた翌日の午前9時半、ミチルはセーラー服ふうのワンピースに黒のパンプス、ライムグリーンのハットにサングラスというファッションで、市内駅前にて市橋菜緒を待っていた。
「お待たせ。ごきげんよう」
いつになく朗らかな調子で現れた市橋先輩は、暑いのか普段どおりのポニーテールだった。白いTシャツにレースのベスト、スリムパンツにミュールというスタイルだ。
「おっ、おはようございます」
この人も、何を着ても様になる。それを褒めようと思った矢先、先輩から先制された。
「相変わらず何を着ても似合うわね」
「えっ」
「羨ましいわ」
それこっちのセリフです。なんですか、謙遜ですか。気遣いですか。と返すわけにもいかず、ミチルは「せっ、先輩も素敵です」と無難に返すに留まった。
とりあえず挨拶は済んだものの、ここからどこへ行けばいいのか。ジュナと出かける時はだいたい決まっているので、悩む事はない。だが、先輩と自分の接点って何だろう。そう思っていると、またしても先輩がリードしてきた。
「ミチル、あなたは普段どういう所にお出かけしてるの?知りたいわ」
「えっ」
ちょうどジュナの顔が浮かんだので、ミチルはそのインスピレーションに従う事にした。
市橋先輩とミチルは、大型リサイクルショップ「マルヨシ」の入り口前にいた。先輩は腹を抱えて笑いを堪えている。そこまで笑うかな。
「くっくっくっ」
「ジュナと出かける時はここが定番なんです」
やや憮然としつつ、ミチルは先輩と店内に入った。いつもジュナとそうするように、楽器コーナーに進む。どうやら先輩はこの店は初めてだったらしい。
「へえ、こんな品ぞろえがあるのね。予想外だわ」
「どっちかっていうと、ロックバンド関係の機材メインですからね。ジュナならともかく、先輩にはあんまり関係ないかも」
「ジュナ、ってあのギターの子よね」
あいつ以外にいない。休日もギターをいじくるのがルーチンワークの、ある意味ワーカホリックだ。
「あなたはギターやらないの?」
「うっ」
訊かれたくない質問がヤブヘビで飛んで来た。市橋先輩は、ジュナが欲しがっている17万のジャズマスターを見ている。
「…練習はしているんですけど」
「覚えられない?」
「はい」
あっさりとミチルは答える。嘘を言っても仕方ない。もっとも、まるっきり覚えていないというわけでもなく、「ある程度」までは弾けるのだ。それが本当に「ある程度」の域を、いつまでも出ないのである。そして、そんなレベルではステージで何の役にも立たない。
「そういえば、清水美弥子先生が言ってたわよ。あなたにヴァイオリンを教えるためのテキストを作ってるって」
「げっ」
そうだ。いま思い出した。ミチルはものの弾みで、清水先生にヴァイオリンを教えてくれと言ったのだ。七割くらいはその場のノリだったが、向こうは本気だったようだ。そういえば、まず理論を覚えてもらうと言っていた。さすが理工科教師。
「いいんじゃないの、たぶんあなたにヴァイオリンは似合うと思うわ」
「先輩って、サックス以外に何かできるんですか」
愚問だっただろうか。そう思っていると、先輩はニヤリと笑って展示されているエレクトーンに手をかけた。まさか。
「あの、お団子の子ほどではないけれど」
そう謙遜しつつ、その美しい指でクラシックの名曲を次々と弾いてみせた。バッハ”主よ、人の望みの喜びよ”。エルガー”愛の挨拶”。ドビュッシー”亜麻色の髪の乙女”。サティ”ジムノペディ第1番”。誰もがどこかで聴いたことのある曲ばかりだ。それが全部、頭に入っているのだから恐ろしい。
ひととおり弾き終えると、たまたま聴いていた客や店員から拍手が贈られ、市橋先輩は優雅に会釈をしてエレクトーンから離れる。ミチルも手を合わせて感心していた。
「…なんでも出来るんですね」
「なんでも、って事はないわよ。音楽への入り口がピアノだったから」
店内を見て回りながら、先輩は色々と話をしてくれた。4歳くらいの時に、ピアノに興味を持った事。小学校に上がってから、縦笛やハーモニカなどが好きになり、その延長でトランペット、サックスに興味を持った事。当然、中学では吹奏楽部に入ったという。
「あなたの事、中学校の時にコンクールで見てたのよ。覚えてないでしょうけど」
「えっ」
店を出て、並木道の木陰を歩きながら、先輩はミチルを初めて見た時の事を語ってくれた。
「今でも覚えてるわ。あなたの中学、自由曲でスクェアの”宝島”をやったでしょう」
「…はい」
「もう、鮮明に思いだせるわ。面白くなさそうな表情で、アルトのソロを完璧に吹いてた美少女。あれだけ吹けるのに、何が面白くないんだろう、って思ったわ」
「…申し訳ありませんでした」
誰にともなく、ミチルは謝った。あのコンクールで、ミチルは自由曲にキャンディ・ダルファーの”Saxy mood”を推したのだが、そんなのコンクールでやる曲じゃない、と言われて、結局スクェアの”宝島”になったのだ。それを話すと、また先輩は爆笑した。
「あははは!」
「だって、おかしいじゃないですか!吹奏楽でルパンもコナンも当たり前にやるのに、なんでキャンディは駄目なんですか!」
当時の憤りを思い出し、ミチルは今さら腹が立ってきた。思えばそれが、高校ではもう吹奏楽部なんか入らない、と決めた原因のひとつだったと思う。だから、半ばヤケでフュージョン部がある今の学校を選んだのだ。廃部騒動が起きるとは知らずに。
「そっ、それが面白くなかったわけね」
先輩はまだ笑っている。そこまで笑わなくてもいいではないか。当人にとっては大問題だったのだ。
「宝島は名曲ですよ。私も好きですし、フュージョン部でも定番ナンバーに入ってます。けど、キャンディをバカにされたのがあの時は許せなくて」
「それで、仏頂面であの見事なソロを吹いてたっていうの」
「だって仕事ですから。私がアルト担当だったんですから」
またしても先輩は笑う。仕事、というのがツボだったらしい。
「さすがね。参ったわ」
「何がです」
「宝島のソロを、仕事感覚で吹いちゃう中学生なんて、あなただけって事よ!」
先輩は笑い過ぎて喉が渇いたのか、自販機に駆け寄ってミネラルウォーターを買った。ミチルも釈然としないまま、レモネードのボタンを押す。
「…なるほど、数年来の謎が解けたわ。なんであんなに不機嫌そうだったのか」
「そんな印象に残りましたか」
「ええ。言っては申し訳ないけれど、あなたの学校の演奏は、そこまでのレベルではなかった。けれど、そんな中で1人だけ、審査員も他の学校も驚くような、アルトサックスの演奏者がいるのだもの。一体何者だ、ってなるのは当たり前でしょう。その子が、まさか私と同じ高校に入学してくるなんて、信じられなかったわ」
一瞬、先輩の顔が切なくなった。そうだ。今でも覚えている。先輩はポニーテールを振り回して、ミチルにアプローチをかけてきた。あなたは吹奏楽部に入るべきよ、と。最初は光栄だったが、だんだん怖くなってきた(これは先輩には伏せておく)。これは早いうちにフュージョン部に入部して、既成事実を作ってしまわなくては、と佐々木ユメ先輩のもとに駆け込んだのだ。
「あのときは申し訳ありませんでした」
以前にも下げた頭を、もう一度下げる。すると先輩は手を振って笑った。
「もういいわよ。あのまま吹奏楽部に入っていたら、今のあなた達はなかったと思うから」
先輩は、ふと遠い目をして空を見上げる。
「私の音楽活動は、高校で終わるかも知れないけど」
「えっ」
ミチルは、驚いたように市橋先輩を見る。どういう意味だろう。先輩は、切ない笑顔を向けた。
「あなたの気持ちに水を差す気はないわ。だから、ああそうなんだ、って聞き流しておいて」
「…はい」
「終わるといっても、まるっきり楽器に触れる事がなくなる、という事ではないわよ。本格的に、集団的に取り組む事は、たぶんなくなるだろう、という事。吹奏楽部に所属するという大義名分があったから、家族もそれなりに納得してくれたの」
家族。ミチルはそれを聞いて、いたたまれない気持ちになってしまった。市橋先輩の家は、大きな家だというのは聞いている。マヤの話によると、情報工学関係の企業らしい。ひょっとしたら、”家業を継ぐ”みたいな話が決まっているのかも知れない。だから、科技高の理工科に入学したのだ。大学もおそらく、その延長になるのだろう。
人にはそれぞれ事情がある。必ずしも、お金がない、あるいは才能がない、という理由だけで道が閉ざされるわけではない。抜き差しならぬ理由で、望む道に進めない人だって沢山いるのだ。
そんなミチルの気持ちを察したのか、先輩は突然、ミチルの手をぎゅっと握った。
「ミチル。人を慮るのは結構だけど、今のあなたはそんな事を思い煩う必要はないわ」
「……」
「遠慮をしてはだめ。ひょっとしたら、同じ事をユメにも言われたかも知れないけれど。あなた達は、進もうと決めた道を往きなさい。いいわね」
「…はい」
ミチルは、気持ちを強く持たなくては、と思い、先輩の目を見据えた。先輩の目は、どこまでも澄んでいる。
「頑張ります。市橋先輩、勝手なお願いですが、明日のステージをきちんと終えられるよう、祈ってください」
「お安い御用よ。頑張りなさい」
「はい」
ミチルが力強く頷くと、先輩も同じように頷いてくれた。そこで、ふいに先輩の表情が変わる。
「ねえ、ミチル。話は変わるけど、二つばかりお願いがあるの。いいかしら」
「…何でしょう」
「まず、ひとつ。いい加減、”市橋先輩”って呼ぶの、やめてもらえるかしら」
わずかに眉間にシワを寄せて、先輩は言った。ミチルは当然の質問をする。
「…なんて呼べばいいんですか」
「決まってるでしょう?菜緒、って呼んで。ユメのことはユメって呼んでるのに、不公平だわ」
「マジですか」
その返しもだいぶフランクではあるが、ともかく今までずっと、ある程度の距離感で”市橋先輩”と呼んできたのを、いきなり”菜緒先輩”に切り替えるのは難しい。だが、先輩は構わず話を進めた。
「さん、はい」
「…菜緒先輩」
「ほら、言えたじゃない」
いったい自分は何を言わされているのか。ミチルは妙な照れくささを覚えながら、小さく咳払いした。
「そっ、それで、もうひとつのお願いって何ですか」
「ええ。別に難しい話ではないわ。2学期、文化祭があるでしょう」
そうだ。すっかり忘れていた。
「フュージョン部の恒例のステージ演奏、あなたと一緒に演奏したいの。いいでしょう?」
「演奏って、サックス二重奏ってことですか」
「そう。選曲はあなた達にお任せするわ。デュエットが活かせて、かつ誰もが知っているような曲がいいわね」
任せると言いながら、だいぶ要求が多い。だが、この2カ月は毎日のように”選曲”という作業に明け暮れていたような気がする。もう、あれこれみんなで意見を出し合うのが楽しくなってきた感もある。マヤに持ち掛ければ、表面では面倒そうに言いながら、あれはどうだ、この曲は、と提案してくることだろう。
「わかりました。何曲か選んでみます」
「楽しみにしているわ」
「あの。どうして菜緒先輩が」
そう訊ねると、先輩は意地悪く「野暮ね」と言った。
「一度もあなたと一緒にステージに立たないまま卒業したら、きっと後悔すると思うから」
それは、どういう意味なのだろう。それを訊ねる事もまた、”野暮”なのだろうなとミチルは思い、それ以上は何も言わない事にした。