HUMAN
ミチルたちフュージョン部に夏休みらしい日々が戻ってきたのは、残り10日ほどという頃だった。ステファニー・カールソンの発言によって発生したミチル達への集団ストーカーは、ステファニーによる働きかけと、ネット内でさらに発生した、ストーカーの情報を晒す事による「ストーカー狩り」に恐怖した人々によって、一応の収束を見る。
ミチルたちの個人情報を晒した何人かについては、法的に対処する事になる。これについては、学校や保護者側が動いてくれる事になった。小鳥遊さんも協力してくれるらしい。まだ問題が解決したわけではないが、とりあえず解決までのロードマップは見えたようだった。
周りの状況はとりあえず落ち着きを見せ、残り10日ばかりの夏休み、ようやくミチルたちはゆっくりできるように思えた。だが、フュージョン部3年の佐々木ユメは何気なくミチルに電話をかけた時、その「異変」に気が付いた。
それは、ミチルたちがあのステファニー・カールソンと直接会った事について話した時だ。
「すごいじゃない、あのステファニーと直接会ったなんて!」
『うん』
「サイン貰ったの!?」
『貰うタイミングがなかった』
その、ミチルの声色で、ユメは何かおかしい事に気が付いた。いつものミチルなら、有名人に会った事を嬉々として自慢するはずだ。エスカレーターでアイドルの中西くんとすれ違ったのを、誰もいないエスカレーターの写真を添えて送ってきた事もある。それなのに、なんだか元気がない。
その後も、なんだか気の抜けたような会話を交わして、電話は終わった。
なんとなく気になったユメは、同じ3年生のキーボード担当、山石カリナに訊ねたところ、彼女もマヤと電話して、同じような印象を受けたらしい。後輩の二人が二人とも、同じように気落ちしているのは何か変だ。
そう思ったユメは3年生の男子、ギターの田宮ソウヘイにも念のためメッセージを入れておいた。ところが、ソウヘイからの返信で、事態が只事でない事をユメは悟ったのだった。
『マジか。なるほど…俺もジュナのやつが妙に重いトーンで電話してきたもんで、なんか変だと思ってたけど』
ソウヘイの報告で、即座にユメはベースの磐城ショータ、ドラムスの高岡ジュンイチにも連絡を取ってみた。その結果2年生の5人は、自分の担当パートの直接の先輩に連絡を取っており、いずれも何か気落ちしている様子が見られた事が判明したのだった。
ミチルに、ユメ先輩から連絡があったのは、その日の午後だった。
『明日ヒマだったら、フュージョン部全員で出かけない?』
はい?
ミチルは、ベッドの上でスマホを仰向けに眺めて面食らった。ヒマではあるが、なかなかに唐突だ。しかも、フュージョン部全員とは。総勢15人だぞ。
だが、ミチルは先輩達の気持ちもわかった。全員で集まれる機会など、この先いつあるかわからない。みんなが一緒にいた記憶を残しておきたいのだ。
『私はOKです。みんなに確認してみます』
念のため、2年生、1年生全員に外出できるか確認を取る。すると、奇跡的に全員がOKだった。そうなると心配なのは天気だが、いちおう晴れと曇りで、降水確率は20パーセントとなっている。まあ大丈夫だろう。
ミチルは、予期せず全員と一斉にコンタクトを取る事になり、ほんの少しだけ元気が出るのを感じた。
翌日午前9時半ごろ、南條科学技術工業高校フュージョン部の総勢15人が、郊外のショッピングモールに集合した。天気は、やや雲はあるが晴れである。
この場所のチョイスは絶妙というほかない、とミチルは思った。広いし、お店も豊富なので、ここにいるだけでも飽きないし、フードコートならランチも15人ていど、どうという事はない。加えて、近くには南條交通公園がある。本格的カートなどアトラクションも豊富なので、遊ぶのに時間が足りなくなるくらいだ。
集合した全員のスタイルを見て、ミチルはつい吹き出した。
「あんた達、ブレないわね」
ミチルの目線の先にいるのは、ソウヘイ先輩とジュナのギター師弟である。先輩は黒地のジャパハリネットのTシャツにジーパン、背中にはアコースティックギター。ジュナはブラック・サバスのTシャツにハーフパンツ。背負ったバッグには、大きなBluetoothスピーカーが入っていた。
「人間、いつどこで歌いたくなるかわからないからな」
「そうだぞ」
ジュナはバッグのポケットから、ブルースハープを取り出してみせた。他には何が入っているのだろう。
マヤは白いTシャツの上に薄いデニムシャツ、ボトムスは珍しくショートパンツである。久々に見た生足は細い。モバイルバッテリーを3つも持って来る念の入れようだ。さすがデジタルジャンキー、抜かりがない。ひとつあれば間に合いそうな気もするが。
ギター師弟を上回る勢いでブレないのは、1年生の動画配信組だ。録画用のデジカメに、自撮り棒と三脚まで用意している。準備万端というか、すでに撮影を始めている。
「うぇーいキリカでーす」
「アオイでーす」
「サトルでーす。こりあんだーでーす」
自撮り棒で自分たちを撮影しながら、キリカが他のメンツの前に次々と移動して自己紹介を強要する。1年違うだけだが、これが若さか。同じ1年生でも、薫とリアナは若干ノリが違う。そう思っていると、カメラがミチルの前に来た。
「いえーい我らが部長のミチル先輩でーす。ついこの間、あのステファニー・カールソンとレストランでお茶してきた、何気に凄い人でーす」
「やめて!」
「そして握手までしたのに、サインを貰い損ねたというお間抜けさんでーす」
「やめろ!後悔してんだから!」
1年生は容赦ない。ミチル達2年生はここ数日気落ちしていたのだが、こうやって後輩に絡まれるだけで、なんとなく救われてゆくような気がしてきた。それは他の4人も同じようで、表情が少しだけ和らいでいる。
モール正面で騒いでいると警備が飛んできそうなので、とりあえずみんな、ランチまでモールを好き勝手に歩こう、ということになった。
「あたしギター見て来る!リアナ、お前も来い!」
「え?あっ」
「ギター組全員で行くぞ!」
ジュナはソウヘイ先輩とリアナを連れて、2階西側にある楽器店を目指し歩き去ってしまう。楽器から離れる気はないらしい。
「私達、本屋さんのあたりにいるから」
クレハとマヤのオタクコンビに、アオイを加えた3人組が移動を始めた。クレハは相変わらず大人っぽい詰め襟のブラウスを、フレアスカート風の柔らかいパンツにインしている。何を着て、どう歩いても様になる少女だ。
いつの間にか、薫とサトルは磐城、高岡の両先輩とともにどこかに歩いて行ってしまった。現在フュージョン部は15人中10人が女子の女所帯なので、男子だけで親睦を深めようというのだろう。
「じゃあ、あたし達もどっか行こうか。あなたキリカちゃんだっけ」
3年生のキーボード担当、ポニーテールがトレードマークの山石カリナが、同じキーボード担当のキリカに声をかける。
「はっ、はい」
キリカは、あまり話した事がない先輩に多少ドギマギしているようだった。そこへ、気を利かせたのかマーコが加わる。
「あたしもそっち行くー」
「んじゃ、とりあえずゲーセン行こうか」
「さんせー」
なんだなんだ。ユメ先輩と二人残されたミチルは、とたんにガランとした空間を見渡した。先輩はミチルの肩をポンと叩く。
「んじゃ久々に、サックス師弟で歩くとするか」
3年生が受験勉強で忙しくなる前は、時々こうしてユメ先輩と出かける機会はあった。その頃はまだ、先輩の髪は長かった。
「先輩がショートにしたのって、1年くらい前でしたっけ」
「そうだね。夏休み中にバッサリやった」
「休み明け、衝撃でしたよ。知らない人いる!って」
1年前を思い返して、二人は笑う。ミチルにとっては文字通り衝撃だったのだ。
「あんたは切る予定ないの」
「うーん。あまり考えたことないですね。もう、この長さで馴染んでますし」
「うん。あんたがショートになるのは想像つかない」
真顔で言われると、本当にそうなんだろうなと思う。たぶん一生、短くする事はないだろう。
二人は何の気なしに、コスメショップに立ち寄った。基本フュージョン部の女子はプライベートでも、あまりコスメ関連に力を入れないイメージがある。
「メイクアップも勉強中なんだけど、なかなかね」
受験を控えて、メイクアップ等も考えているのだろうな、とミチルは少し壁みたいなものを感じてしまう。お試しコーナーでリップを見ていると、若い美人の店員さんが寄ってきた。
「よろしければ、お試しになりますか」
「えっ」
ユメ先輩はミチルを見た。
「やってみよっか、ミチル」
「えっ」
ミチルたちサックス奏者は、唇には一般女性と違う意味で神経を使う。ステージに立つ時は華やかなリップを塗りたい気持ちもあるのだが、楽器への色落ちだとか、色々と問題があって結局なにも塗らないパターンになる。落ちにくいリップを上手に処理しているプレイヤーもいるらしいが、そこまでするくらいならスッピンでいいや、となってしまうのだ。
店員さんの指導で、ナチュラル寄りのピンクのリップを塗り、グロスで仕上げてもらった。ミチルもユメも、互いの顔と鏡を交互に見て、悪くないな、といったふうに頷いた。リップは600円とそう高くもなく、二人で同じものを買う。ミチルにとっては、先輩と同じものを同じ店で買った、という事が嬉しかった。
ゲームコーナーに行くと、カリナが巨大クッキーのクレーンゲームに挑戦している。それを横から見ているキリカとマーコに、二人はさっき塗ったリップを見せびらかした。
「おお、似合ってる」
「お揃いじゃん」
「撮らせてください!」
キリカがスマホでなくデジカメを即座に構えたので、二人はモデルよろしくポーズを決める。ようやくわかったが、キリカが彼女たちの中では撮影担当らしい。ミチルとユメはふふん、と腕を組んでその場を歩き去る。後ろで、取れた景品が落ちる音がした。
そのあとファッションコーナーでいろいろと試着して、互いのファッションについてああだこうだ、と言い合った。ちなみにミチルは七分袖のゆったりした白いシャツにグレーのハーフパンツ、黒のミュール。ユメ先輩は白黒のボーダーのノースリーブに、ゆったりしたカーゴパンツ、ライムグリーンのハットという独特のファッションだが、先輩らしく似合ってはいる。先輩いわく、ミチルはスラッとした美人なのだから、もっとレディっぽいファッションが似合うはずだ、という事だった。クレハにコーディネートを習うか。
やがて歩き疲れた二人は、コーヒーショップで一息つく事にした。窓際の席に座り、濃いめのアイスコーヒーを飲みながら、外の景色を眺める。
「ねえ、ミチル」
独特の優しいハスキーボイスで、ユメ先輩は訊ねる。
「あなた達5人、なんだか元気がないって、みんな心配してるわ」
先輩はオブラートに包むということを知らない。それが今はむしろ助かった。半端に話を誘導されるよりはいい。どうやらこのお出かけも、先輩たちが気を利かせてくれたものだったようだ。
「もし相談に乗れるなら、言ってみなさいよ。たまには先輩らしいこと、したいから」
何を言っているのだろう。今まで、どれほど先輩たちは「先輩」であったことか。だがミチルは、先輩を頼ることにした。そうしないと、心の安定が保てなさそうだからだ。小さく頷いて、ミチルは心の内を吐露した。
「正確に言えば、落ち込んでいるというわけではないんです」
ミチルは、少しだけ自嘲気味に笑みを浮かべた。
「ここ2か月ばかり、私たち、まるで駆け抜けるような日々でした。部活の存続から始まって、ストリートライブをして、部員を入れて、学校と交渉して。そのあとの市民音楽祭での出来事は、説明するまでもありません。そこから、雑誌の取材、さらには映画の出演打診」
ユメ先輩はストローを口に当てながら、黙って聞いていた。
「疲れたけど、楽しい日々でした。先輩たちにもお世話になったし、みんなの意外な一面も知れたし、きっと、この夏の事、忘れないと思います。楽しかった。それは本当の事です」
「うん。私も楽しかったよ」
先輩は、微笑んで頷いてくれた。だが、ミチルの表情はそこで強張った。
「でも私たちその間に、”人間の負の側面”も、目にする事になりました」
ユメの表情も、それを聞いて固くなる。ミチルは続けた。
「清水美弥子先生は後からきちんと頭を下げてくれたけど、そういう人だけじゃない…ひたすらに、私たちの足を引っ張ろうとする子たちや、機材に火を放ってまで邪魔をしようとする生徒…根も葉もないデマを流された事もあったし、楽曲の権利を奪おうとする大人も現れた。しまいには集団でストーカーまがいの事までされて」
一気に話して息が切れたミチルは、呼吸してからアイスコーヒーを飲んで、再び話を始めた。
「楽しかった事が曇って見えるくらい、嫌な思いもして。こういう事に耐えないと、好きな事ってできないのかな、って。みんな、言葉には出さないけど、そういう気持ちに縛られてしまっているんです。次は何が襲ってくるんだろう、って」
「なるほど」
ユメ先輩の表情は、柔らかくも切なかった。
「先輩なら、どういう風に乗り越えますか。私は…わからない。お母さんは、良い面に目を向けて欲しいって言ってくれて、それは正しいと思うんだけど、そんな簡単に気持ちを切り替えられない自分もいて」
ミチルは、目を閉じて下を向いた。喜ばしい出来事がたくさんあったのに、なぜ、こんな嫌な思いをしなくてはならないのか。好きな事をするのが、そんなに悪い事なのか。自分が自分でいてはいけないのか。思考は、どんどん深みにはまっていく。ユメ先輩は、静かな声で言った。
「私に、即座に完璧なアドバイスはできない」
それは、突き放した言葉だったろうか。少なくとも、ミチルにはそうは聞こえなかった。
「そうだね。あなた達は、必要以上に嫌な思いをしたと思う。その、あなた達の気持ちに対して、なんて言ってあげればいいのか、私にもわからない。けどね」
ユメ先輩は、ミチルの手を握って言った。
「どんな嫌な奴が現れても、私たちは、ミチルたちの味方だよ。それだけは、絶対だから」
ユメ先輩は、まっすぐにミチルの目を見る。
「だから辛い時は、私たちを心の置き場所にしなさい」
「心の、置き場所」
「そう。私たちが、いつもあなた達と一緒にいる。目の前にどんな醜い相手がいようと、私たちも絶対に、あなた達の隣にいる」
それは、アドバイスと言えるものではなかった。いや、ちがう。アドバイスなんか存在し得ない、と先輩はわかっているのだ。無責任に、ああすればいい、こうすればいい、と言ったところで、辛い体験が無くなるわけではない。
「…ソウヘイ先輩も、しょっちゅう側にいるってことですか」
つい、ミチルはジョークを口にした。ユメ先輩が笑う。
「そうよ。あのうるさいソウヘイの奴が、隣や後ろにいるって想像してごらんなさい。腹黒いレコード会社のオッサンなんか、可愛く思えてくるわよ」
さんざんな言われようである。ソウヘイ先輩はユメ先輩たちにとって、一生そういうポジションなんだなと思うと、ミチルは可笑しくなってきた。
「ふふふ」
ミチルが笑い始めたのを見て、ユメ先輩は少しだけ安心してくれたようだった。そうだ。私たちはいつも一緒だ。先輩たちは私たちの側にいてくれるし、私たちもまた、先輩たちと共にいよう。怖いもの、嫌なものがこの世から無くなるわけではないけれど、怖さを半減させる事は、できるかも知れない。
この人たちが先輩でいてくれて良かった、とミチルは心の底から思った。