第9話 崩れた秤
朝もやが白く立ち込める王城の敷地を、小さな影がひとつ、静かに離れていく。
空色のローブを羽織り、右手に一本の使い古した牧杖を握りしめた少年――カルカだった。
研究塔の遥か高みにある窓から、ロピアーナはその背中をただ黙って見下ろしていた。自らの炎魔術の灯りが、彼女の切ない横顔を薄暗い室内に浮かび上がらせている。
(引き止めることすら、できなかったな……)
二年前、山出しの素朴な少年として訪ねてきたカルカ。風の才能を瞬く間に開花させ、不平ひとつ口にせず鍛錬に励んでいた少年は、いつしかロピアーナにとって、単なる弟子を超えた存在になっていた。
亡き友ゼニカの面影を残す、生意気で可愛い甥っ子のような――本当の家族のような温もり。
だが、冷酷な現実と世界の過酷さを突きつけられ、傷つき、アンダ村へ帰ると静かに告げたカルカを、彼女は追いかけることができなかった。自分にできるのは、ただ無事を祈り、背中を見送ることだけだった。
「……カルカ。……元気でやるんだよ」
ぽつりと漏れた呟きは、誰に届くこともなく朝もやの中に消えていった。
アンダ村行きの馬車が出るまで、まだ時間がある。
カルカは王都の大通りを抜け、冒険者協会へと足を向けていた。村へ帰る前に、昨日戦いを共にした仲間――『ロポリーズ』の三人にきちんと別れと感謝を告げておきたかったからだ。
だが、重々しい木造の扉を押し開けた瞬間、カルカは違和感に足を止めた。
いつもなら朝から酒と怒号、熱気に満ちあふれているはずの協会内が、不気味なほどにしんと静まり返っていたのだ。
酒場に座る冒険者たちはみな顔を伏せ、低く深刻な声でささやき合っている。ロポリーズの明るい笑顔を探して周囲を見渡したが、ジョウたちの姿はどこにもなかった。
カルカは胸に嫌な予感を抱えながら、受付カウンターへと歩み寄った。
「あの……すみません。ジョウたちの姿が見えないのですが……」
カウンターの奥にいたのは、昨日カルカにD級プレートを手渡してくれたあの男性職員だった。彼はカルカの顔を見るなり、露骨に困惑した表情を浮かべ、さっと視線を下に落とした。
「あ、ああ……ちびっこか。あいつらなら、今日は……その、別の仕事に行っていてな」
「別の仕事? 昨日の今日で、ですか……?」
「いや、その……急な話でな」
言葉を濁し、気まずそうに書類を弄ぶ職員。明らかに何かを隠している態度だった。
「言いにくそうだなあ、おい」
背後から、酒と強い煙草の匂いを撒き散らしながら、だみ声が響いた。
カルカが振り返ると、そこに一人の男が立っていた。ボサボサの黒髪に、落ち窪んだ目元には濃い隈。無精髭を生やし、ボロボロの革鎧を斜めに着崩した男だ。
男はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながらカルカを見下ろしている。
「教えてやれよ職員さんよお。『三本の矢』様の大ポカに巻き込まれて、あの威勢のいいガキどもが死地に向かったってよ」
「おい『ペディ』、余計なことを吐くな!」
職員が青筋を立てて怒鳴りつけるが、ペディと呼ばれた男は煙草の煙をくゆらせ、フンと鼻を鳴らしただけだった。
カルカは男に向かって一歩踏み出した。青い瞳が激しく揺れている。
「……どういうことですか? 詳しく教えてください」
「ハッ、話してやってもいいぜ。今は気分が良い」
ペディが語った状況は、想像を絶するものだった。
事の始まりは、冒険者協会で登録をし、「ロポリーズ」と出会った日に遡る。コンフィ王国唯一のS級大型パーティ『三本の矢』。その若手班の一つが、団長マタヤの制止を無視し、功名心から「北西の洞窟」へC級「フリーカパンサー」の討伐に向かったのだという。
だが、洞窟にいたのはフリーカパンサーではなかった。
「洞窟の中に居座っていたのは、見たこともねえ『竜』だったそうだ。お前らが倒したフリーカパンサーが西の森にまで逃げ出してきたのは、そいつに巣を追われたからってのが協会の見解らしい」
ペディの言葉に、カルカの脳裏で点と点が繋がった。
初陣で遭遇したあのC級大型種が錯乱し傷を負っていた理由。あれは、さらに凶暴な暴君から逃げてきた結果だったのだ。推定ランクは最低でもB級以上。
「マタヤは後を追い、バカな若手どもを逃がすことには成功した。だがな……あいつはデバフと治癒の専門家。単体じゃ雑魚だ。洞窟の崩落に巻き込まれ、中で孤立しちまった」
「そんな……! S級の人が……!?」
「『三本の矢』としては面の皮がひん剥かれる大不祥事だ。だから奴らは本部ギルドに公表せず、自分たちのB級メンバーだけを集めて救援隊を編成した。……そこへ運悪く居合わせたのが、お前の仲間たちさ」
ペディは嘲笑うように肩をすくめた。
「救援隊の連中に持ち上げられて、調子に乗って付いて行っちまったんだよ」
カルカは息をのんだ。
昨日、自分と別れた後のジョウたちの顔が浮かぶ。
殆どカルカ一人の力で格上を倒してD級に上がったことへの、誇らしさと、どこか拭いきれない引け目。彼らはきっと、「カルカに追いつきたい」「自分たちも一人前の冒険者だと証明したい」という一心で、救援隊に志願してしまったのだ。
(僕のせいだ……)
激しい自責と焦燥が、カルカの胸を押し潰す。
「ロポリーズが行った北西の洞窟へは、どう行けばいいんですか!?」
「ハッ、羊飼いのガキ一人で何ができるんだよ」
ペディは冷たく切り捨てると、壁際に腰掛けていた三人の仲間たちへ視線を向けた。
酒瓶を煽る大男、薬品の小瓶を弄ぶ痩せ男、目隠しをしてぼーっとしている不気味な男。しかし、彼ら三人の胸元にはB級冒険者の証である金のプレートが光っていた。
「お願いです、僕を北西の洞窟へ連れて行ってください!」
カルカは深々と頭を下げた。 ペディたちは一瞬呆気にとられた後、ゲラゲラと下品な大笑いを上げた。
「おい、ちびっこ! いくらなんでも相手を選べよ!」
話を聞いていた男性職員が慌てて割って入る。
「いいか、こいつらはな、酒、煙草、女、薬、大体全部の中毒者だぞ? ろくでなしどもでうちのギルドの嫌われ者だ。実力は確かだが……やめとけ!」
「そう言ってくれるなよ」
ペディが制する。一通り笑った後、彼はカルカの顔をまじまじと見つめた。
「言っておくがな。俺たちは『三本の矢』の気取り屋どもが大嫌いだ! お前の気持ちも分かるがーー」
嘲笑する男に対し、カルカはゆっくりと顔を上げた。その青い瞳からは、怯えも焦りも綺麗に消え去り、静かで冷静な「計算」の光が宿っていた。
「……『三本の矢』が嫌いだからこそ、行く価値があるんじゃないですか?」
「……ほう?」
ペディが眉をひそめる。カルカはまっすぐに男の濁った瞳を見つめ返し、静かな声で言葉を紡いだ。
「マタヤ様を救い出し、洞窟の竜を倒せば……『三本の矢』は、あなたたちに一生返せないほどの巨大な貸しを作ることになります。協会でのあなたたちの立場も、少しは変わるはずです」
静まり返る酒場。 ペディは煙草を指で摘み、じっとカルカの顔を見つめた。
(ただの正義感に駆られたガキかと思えば……なんて目をしてやがる)
仲間を救いたいという必死な感情の裏で、自分たちならず者の利害を計算し、明確な利益を持ちかけてきている。
ペディはゆっくりと煙を吐き出すと、ニヤリと悪魔のような下品な笑みを浮かべた。
「……悪くねえ。ただ、やはり危険だ。割りに合わねえな」
「そんな……」
ペディは腰の長剣の柄をポンと叩くと、仲間たちに向かって顎をしゃくった。
「あそこに目隠ししてキマってる奴がいるだろ?」
「は、はい?」
指さした先にいたのは、布で目を覆い、座ったまま上の空になっている仲間の一人だった。ペディはニヤニヤとした笑みを浮かべながら、ポケットから白く細かな顆粒が入った小瓶を取り出す。
「今からこのジクインをあいつの前に引く」
「ジ、ジクイン?」
「鼻から吸うタイプのヤツだ。あいつが左の鼻穴で吸ったら、付いて行って手伝ってやる。……右の鼻穴だったらボツだ。他を当たれ」
「え、えぇ!?」
困惑するカルカをよそに、ペディは仲間のいるテーブルに向かった。目隠しの男の前に、ジクインの粉末を慣れた手つきで一直線に並べる。準備ができると、男の目隠しを乱暴にはぎ取った。
「おぉい! 起きろぉ! ジクインが来たぞぉぉ!」
おどけて大声を出すペディに、目隠しを取られた男はハッと目を覚ました。
「う、あ……ああ……」
薬の残効か、呻き声を上げながら狼狽える男。カルカは息を呑んで様子を見守った。
「お、おおぉ……お!」
「よぉし! そうだ! ジクインだぞぉぉ!」
男の充血した目が、テーブルの上の白い線をとらえた。周囲の仲間たちが「いけいけ!」と下品に盛り上がる。
「よし! いけ!」
四人の冒険者の異常な歓声にカルカは若干引きつつも、男が「左鼻」で吸い込むことを祈った。
「う、うぅ……あ」
呻きながら、男は顔を右側に傾けた。そして――左手の親指で、左の小鼻をギュッと塞いだ。
カルカは顔を青くした。
(ま、まずい! このままだと右の鼻で吸われちゃう……!)
賭けは失敗。他を当たれと突っぱねられる未来が目前に迫る。
けれど、カルカは諦めなかった。絶対に「ロポリーズ」を助ける。そのためには、この非常識な男たちの力が必要不可欠だ。
カルカは素早くテーブルへと一歩踏み出すと、右手の牧杖を構え、密かに魔力を練り上げた。
(『ウィンド』でジクインを巻き上げて、あの人の左鼻に直接叩き込む……! それしかない……!)
ほんの数センチの粉末の線を風で巻き取り、狙った鼻穴へと正確に誘導する。羊飼いとして培い、ロピアーナの下で極めた、超精密な風の操作。
目隠しをしていた男が、左鼻を塞ぐ指の力をほんの一瞬、緩めた。
(今だ……!)
カルカの風の魔力が一閃した。
テーブルの上に並べられていたジクインがフワッと舞い上がり、極小の竜巻となって、男の左鼻へ一直線に吸い込まれていく。
「ふがっ……!? あ……おおおぉ……」
男は鼻をゴシゴシと揉むと、満足そうにそのままテーブルへ突っ伏した。
一部始終を目撃していたペディたちの動きが止まる。直後、ペディは腹を抱えて大爆笑した。
「ハッハッハ! いやぁ……良いもん見せてくれるじゃねえか、羊飼いのガキ……!」
「……ズルをしてしまいました」
「ズル? いや、手段はどうあれ結果は左だ。ルールはルール、手を貸してやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
下品で非常識な男たちだったが、カルカの見せた度胸と、圧倒的な技術の「ズル」を痛烈に気に入ってくれたようだった。
「よおし野郎ども、仕事が入ったぞ!」
「へへっ、元々ヒマだったんだ、付き合ってやるよ!」
立ち上がるならず者たち。カルカは右手の使い古しの牧杖を強く握りしめた。
アンダ村へ帰る決意は、まだ胸にある。けれど――仲間を、自分を「ロポリーズ」として受け入れてくれた友人たちを、見捨てることなんてできるはずがなかった。
「案内、お願いします!」
黒い風を纏うように、カルカはならず者パーティとともに、雨の降り始めた王都を飛び出していった。
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