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野ばらの君  作者: すずひめ
光の章
7/16

雷鳴

 そんな日々がしばらく続いたある日のことだった。

 森に入ったときから既に今にも雨の降り出しそうな曇天で、野ばらたちもどこか色彩を欠いていた。この日ばかりは僕にも「雨の匂い」がわかったが、彼女が「帰った方がいい」と言うより先に空から大粒の滴が落ちてきて、僕は彼女の家に閉じ込められた。

 外はひどい嵐だった。締め切った木の窓板を激しい風雨が叩きつけ、小さな家を揺らした。昼間だというのに部屋はほの暗く、天井から吊り下げられたランプの灯がおぼろげに僕たちの影を照らしていた。

 僕たちの間に交わされる言葉は数えるほどだった。それどころか、嵐はいつ止むのか、家が壊れやしないかという不安が部屋じゅうを満たしていて、沈黙はいっそう濃く思えた。風雨の音の間に切れ切れに聴こえる匙の音だけが、僕の胸にちかちかと響いてくる。

 しかしその一方で、僕の中には言い知れぬ高揚感が生まれていた。

 今この部屋は外の世界から切り離されていて、僕たちは二人ぼっちだ。

 そう考えると、彼女と共有するこの空間が、時間が、甘く愛しく色付くように感じるのだった。ずっとこの時が続けばいい。そんなふうに思った。

 だがそれらは唐突に、そして呆気なく破られた。

 同時だった。突風によって窓板が開いて野ばらを挿したコップが床に落ちるのと、勢いよく玄関の扉が開け放たれるのと。

 一瞬にして閉ざされた空間に風雨が吹き込み、それまでふんわりと保たれていたやわらかな空気をあっという間に掻き乱した。天井のランプが大きく揺れ、灯が消えて、ひやりとした闇が侵入する。見れば、玄関に何者かの姿があった。

 それは、最初の日に見かけたあの婦人だった。

 婦人は乱れた髪を正すこともせず、雨をスカートの裾から滴らせたまま、そこに立っていた。

「うちの息子、死んだよ」

 婦人は低い声でそう言った。その言葉は激しい風雨の中でも、鋭く鼓膜に刺さった。

「あんたにもらった薬を飲ませたのに、死んだんだよ」

 僕は彼女の顔を見た。彼女は人形のような表情で、じっと婦人に視線を注いでいた。

「それどころか主人も感染して……ねぇ、まさかとは思うけど」

 婦人は口元を歪めた。

「あんたが病気をばら撒いてるんじゃないだろうね?」

 僕は思わず立ち上がった。木の椅子が床に倒れるのと同時に、空が光った。一瞬遅れて、大地を揺らすような轟音が全身を揺らした。今まで抱いたことのない激しい感情が、身体の中心から湧き上がってくる。しかし僕が口を開こうとするのを、彼女が制した。

 婦人は続ける。

「この領地のあちこちで、息子とおんなじ病気が流行ってんだ。他にもあんたに薬をもらいに来てる人たちがいるだろう。実はその薬に、病気の元になる毒でも仕込んでるんじゃないのかね? 何せあんたは『魔女』なんだからね」

 無遠慮に振るわれる言葉の暴力に対して、彼女のまなざしは無機質そのものだった。

「……なぜ、そう思うの?」

 婦人は鼻で嗤った。

「だって、それで薬をもらいに来る人が増えれば、あんたの食い扶持も増えるだろう?」

 気付けば僕は彼女の制止を振りほどき、婦人に掴みかかっていた。

「いい加減にしてください! 彼女はそんな人じゃない!」

 僕の剣幕に婦人は一瞬たじろいだような表情を見せたが、すぐに元の歪んだ笑みを唇に戻した。

「……ふん、こんな若い金持ちの男連れ込んでさ、いったい何やってるかわかったもんじゃないよ」

 僕が更に言葉を続けようとしたとき、彼女が僕の腕を引いた。それは予想外に強い力で、思わず婦人の胸倉を掴む手を緩めた。解放された婦人はそのまま床にへたり込んだ。そこへ彼女の冷たい声が落とされる。

「薬が効かなかったのなら、お金を返すわ」

 そう言って彼女は革袋を放った。じゃらりと音を立て、それは婦人の足元に着地した。

「帰って」

 彼女の声は、驚くほど静かだった。婦人は革袋を拾って立ち上がると、最後に彼女を睨みつけ、出て行った。

 いつの間にか風雨は止んでいた。代わりに滑り込んできた静寂はしかし、僕の心の嵐を鎮めるには至らなかった。行き場のない怒りが、荒れ狂うように胸を渦巻いている。

 どうして彼女が、あんなことを言われなくちゃならない?

 彼女をここへ追いやったのは他でもないあなたたちだろう。

 どうしてあんなひどいことを口にできる?

 彼女はここで静かに暮らしているだけなのに。

 どうして。

 どうして。

 どうして――

「雨、止んだわね」

 燃えるような思考を、彼女のひやりとした声が遮った。彼女はいつもと変わりない、しかし真白な顔で婦人の消えた扉を見つめていた。

「見苦しいものを見せたわ」

 彼女はまるで独り言のようにそう言った。

「貴方ももう、帰ったほうがいい」

「でも」

「いいから!」

 その声はぴしゃりと強く、僕の口をつぐませた。彼女は少しやわらかい調子で、静かに続けた。

「……帰ってちょうだい」

 彼女は――僕と目を合わせようとしなかった。

「お願い」

 それはとても小さな声だったが、すべてを拒むような冷たさを伴っていた。だから僕は、それ以上に言葉を掛けることができなくなってしまった。

 僕は小さく息をつき、倒れた椅子を起こして、彼女の家を後にした。

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