最終章② 調律師シンシクルの戦い
熱い。
骨の髄まで焦がすような熱気だ。
呼吸をするたびに、焼けた鉄を肺に流し込まれているような激痛が走る。
ここは世界の最深部。地殻の底にある、巨大な空洞だ。
私の目の前には、天を摩するほどの威容を誇る、赤黒い壁がそびえ立っている。
『熱脈鎮響壁』。
まるで生き物のように不気味に脈打ち、周囲の空間を歪ませながら、ゴオオオオ……という低い唸り声を上げている。
いや、それは声ではない。吸引音だ。
この壁は今、世界中の「音」を、掃除機のように貪り食っているのだ。
「くっ……! まだ足りんと言うのか、この暴食魔め……!」
私は叫び、手にした杖を振るった。
杖の先には、拡声器のような形状をした魔道具が取り付けられている。
そこから放たれるのは、攻撃魔法ではない。計算され尽くした「逆位相の音波」による防壁だ。
キィィィィィィィン!!
高周波の結界が展開され、壁から放たれる熱波を弾き返す。
だが、壁の力は圧倒的だった。私の放つ音波さえも「餌」として認識し、ズズズ……と結界ごと吸い込もうとしてくる。
白衣の袖が焦げ、肌がジリジリと焼ける匂いがする。
手持ちのカードは、もう残り少ない。
腰のポーチに入っているシェルレック――「日本の音」を封じ込めた弾薬――は、あと数個しかない。
これを使い果たせば、私は為す術なく、この熱に溶かされて消えるだろう。
意識が朦朧としてくる。
視界が熱で滲み、歪む。
その歪みの向こうに、私は懐かしい幻影を見た。
ああ、そうだ。
私がなぜ、こんな地獄の底で、たった一人で戦っているのか。
全ての始まりは、あの日――十数年前の、あの「音のない日」だった。
◇
当時、私は王宮の筆頭魔法研究員として、何不自由ない生活を送っていた。
愛する妻と、生まれたばかりの娘、ユッコ。
私の研究は順調で、家庭は温かく、世界は平和そのものに見えた。
だが、その平和は薄氷の上に成り立っていたのだと、私は思い知らされることになる。
ある晴れた昼下がりだった。
私は庭で、妻がユッコをあやすのを微笑ましく眺めていた。
小鳥がさえずり、風が木の葉を揺らす、穏やかな時間。
突如、世界から音が消えた。
鳥の声が止まったのではない。風が止んだのでもない。
口を開けて笑っている妻の声が、私の耳に届かなくなったのだ。
自分の足音もしない。手を叩いても、柏手を打っても、無音。
鼓膜が破れたのかと思った。だが、違った。
『局地的な小規模静寂』。
庭の一角、妻とユッコがいる空間だけが、まるでガラスケースに閉じ込められたように、物理法則から切り離されていた。
私は駆け出した。
結界の中に入った瞬間、肌を刺すような冷気に襲われた。
音がないだけではない。熱がない。
振動というエネルギーそのものが、空間から根こそぎ奪われている。
「おい! しっかりしろ! 返事をしてくれ!」
私は妻の肩を掴んだ。
彼女は、まるで氷の彫像のように冷え切っていた。
抱きかかえられたユッコだけは、妻が必死に体温を分け与えていたおかげか、微かに温かかった。だが、妻の腕はもう、白く凍りついていた。
彼女の唇が動いた。
何かを言おうとしている。
私は耳を寄せた。だが、その声は「静寂」に吸い込まれ、決して私の鼓膜を震わせることはなかった。
最後の言葉さえ、聞くことは許されなかった。
愛していると言ったのか。ユッコを頼むと言ったのか。それとも、助けてと叫んだのか。
永久に失われたその言葉が、私の心に呪いのように突き刺さった。
「うああああああああああああっ!!」
私の絶叫だけが、静寂が去った後の庭に虚しく響き渡った。
なぜだ。なぜ世界は、彼女を奪った。
何の罪もない彼女が、なぜこんな理不尽な死を迎えなければならなかったのか。
その日、私は誓ったのだ。
泣きじゃくる赤ん坊のユッコを抱きしめながら。
必ず原因を突き止め、それを是正する。
このふざけた世界の仕組みを暴き、ねじ伏せてでも、娘を守り抜くと。
◇
妻の死後、私は地位を捨て、狂ったように研究に没頭した。
世界各地の古代遺跡を巡り、文献を漁り、そして辿り着いた真実。
それはあまりにも皮肉で、残酷なものだった。
この世界の地下深くに眠る『熱脈鎮響壁』。
それは太古の魔法文明が残した、星を救うための装置だった。
本来、この星は太陽の恵みが届かない極寒の地だ。そのままでは生命など育たない。
だから彼らは、地上で生まれる「音(振動)」を集め、それを「熱」に変換して大地を温めるシステムを作り上げたのだ。
壁は、守り神だった。
人々が歌い、笑い、生活音を立てることが、そのまま暖房の燃料となる。
なんと合理的で、美しいシステムだろうか。
だが、神の作った機械も、永遠ではなかった。
長い年月を経て、メンテナンスを怠ったシステムは暴走し、制御不能となった結果、壁は余分な音だけでなく、生まれたばかりの音までをも瞬時に吸い込み、過剰な熱を生み出すようになった。
妻を殺したあの現象は、壁が一瞬だけ吸引力を加速させた、ほんの小さな「くしゃみ」のようなものだったのだ。
そして今、壁は完全な暴走を起こそうとしている。
『大静寂』。
世界の全ての音を吸い尽くし、その果てに待っているのは、蓄積された熱エネルギーによる星の爆発だ。
「……ふざけるな。守るために作ったものが、守るべきものを殺すなど」
私は研究室で、一人毒づいた。
壁を破壊すれば、世界は凍りつく。止めれば死ぬ。
ならば、どうする?
壁の機能を維持したまま、暴走だけを止めるしかない。
つまり、「調律」だ。
壁が音を吸いすぎるのは、この世界の音が「美味しすぎる」からだ。
魔力を含んだ美しい波形の音。それは壁にとって極上の燃料であり、消化が良すぎるのだ。
ならば、逆に考えろ。
壁にお腹を壊させればいい。
消化の悪い、不純物が混じった、汚い音。
魔力を持たない、物理的で、無秩序なノイズ。
そんな音が、どこにある?
私は視線を、次元の彼方へと向けた。
この世界ではない、別の世界。
魔力が存在せず、科学と物理法則だけで構成された、騒がしい世界。
――日本。
古文書にあった異界の記述を頼りに、私はそこへ希望を見出した。
◇
それからは実験の日々だった。
異世界への扉を開くことは、禁忌に等しい大魔術だ。
生身の人間が行けば、魂が砕け散る。
だから私は、自分の代わりに異界へ渡る「探査機」を作った。
魔法と科学を融合させた、自律型ゴーレムだ。
失敗の連続だった。
転送中に爆発するもの。向こうへ着いたきり帰ってこないもの。
何十体ものゴーレムが、次元の狭間へと消えていった。
だが、奇跡は起きた。
試作二号機が、ボロボロになりながらも帰還したのだ。
その手に握られたシェルレックに、わずか数秒の音が記録されていた。
『キーン、コーン、カーン、コーン……』
どこか物悲しく、しかし酷く音が割れた、低音質のチャイム。
それに重なる、ヒグラシの声と、カラスの鳴き声。
魔力など微塵も感じられない。ただ空気を震わせるだけの、物理的な振動音。
私にとって、それは世界で一番汚く、そして美しい音だった。
「これだ……。これなら、壁を騙せる!」
私は確信した。
この「日本の音」こそが、壁の消化器官を詰まらせ、暴走を鎮めるための特効薬(毒)になる。
私はすぐさま、より高性能で、長時間活動できる大型の新型機――試作三号機を設計した。
頑強な岩の装甲。高度な思考回路。そして大容量の録音機能。
これなら、壁を完全に沈黙させるだけの大量の音を持ち帰れるはずだ。
だが、運命は意地悪だった。
送り出した三号機は、日本への着水時に事故を起こし、信号をロストしてしまったのだ。
回収不能。
私の希望は、異界の海の底へと沈んだ。
残されたのは、二号機が持ち帰った、わずか数個のサンプルの音だけ。
もう、時間がない。
壁の臨界点は迫っている。
新たなゴーレムを作る時間も、資源もない。
私は覚悟を決めた。
この手元にあるわずかな「日本の音」を持って、私自身が最深部へ乗り込むしかない。
それは、片道切符の特攻だった。
最後を覚悟して、一度家へと帰郷した。
出発の朝。
まだ幼かったユッコが、私の服の裾を掴んで見上げてきた。
金色の髪。母親譲りの、透き通るような碧眼。
この子だけは。何があっても、この子だけは守らなくてはならない。
「パパ、どこ行くの?」
不安げな声。
私は膝をつき、彼女の目線に合わせた。
本当のことを言うわけにはいかなかった。
「お母さんは世界に殺されたんだ」とも、「パパは死にに行くんだ」とも。
そんな重荷を、この小さな背中に背負わせたくなかった。
「ちょっとね、遠いところへ。世界中の面白い音を集めに行くんだよ」
私は精一杯の笑顔を作った。嘘をつくのは下手だったが、幼い彼女は信じてくれたようだった。
「ふーん……。いつ帰ってくる?」
「すぐさ。……そうだ、ユッコ。これをあげよう」
私はポケットから、二号機が持ち帰ったあのシェルレックを取り出した。
貴重なサンプルだ。本来なら私が持っていくべき、最強の武器の一つ。
だが、もし私が失敗したら?
私が壁に食われ、世界に大静寂が訪れた時、誰がこの子を守る?
このシェルレックには、壁の吸引を一時的にでも阻害する力がある。
これは「お守り」だ。万が一の時、彼女の命を繋ぐための。
「これはパパが最初に見つけた宝物だ。寂しくなったら、これを聞きなさい。きっと、不思議な音が勇気をくれるから」
ユッコはそれを両手で大事そうに受け取り、胸に抱きしめた。
「うん! わかった! 待ってるね、パパ!」
その笑顔が、私の脳裏に焼き付いている。
あれが、彼女と交わした最後の言葉になるかもしれないと知りながら、私は背を向けた。
振り返れば、決意が揺らぐ気がしたからだ。
◇
そして今。
私は地獄の業火に焼かれている。
ポーチの中を探る。指先に触れたのは、最後の小さなシェルレックだ。
中身は、日本の工事現場の音。ガガガガという削岩機のノイズだ。
サイズ的に録音時間が短いだろうが、これを放てば、あと数分は持ちこたえられるかもしれない。
だが、それだけだ。
壁の熱量は、私の想定を遥かに超えていた。
「日本の音」を食わせても、一時的にお腹を壊すだけで、すぐに適応してさらに狂暴になっていく。
量が足りないのだ。
三号機が……あの大型ゴーレムさえ戻っていれば、こんなことにはならなかったのに。
「……くそっ……!」
私は最後のシェルレックを起動し、スピーカーに装填した。
ガガガガガッ!!
けたたましい騒音が結界となって広がり、迫りくる熱波を一時的に押し戻す。
だが、壁は即座に反応した。
赤黒い表面が波打ち、まるで口を開けるように裂け目を作った。
ゴオオオオオオッ!!
凄まじい吸引。
工事現場の音ごとき、一瞬で飲み込み、さらに私の魔力までもを吸い尽くそうとする。
杖を持つ手が震える。
膝が折れそうになる。
もう、限界だ。
(すまん、ユッコ……)
私は心の中で娘に詫びた。
約束を守れなかった。世界を救うことも、お前の元へ帰ることもできそうにない。
せめて、この身を犠牲にしてでも、壁の暴走を数年でも遅らせることができれば。
私は残った全魔力を練り上げ、自らの肉体を構成するマナさえも術式に組み込んだ。
『生体魔力封印』。
術者の命と引き換えに、対象を凍結させる禁断の魔法。
「我が命を喰らえ……そして、共に眠れ!」
私は覚悟を決めた。
この一撃に、全てを賭ける。
――その時だった。
ドタドタドタッ!
背後から、場違いなほど騒がしい音が聞こえた。
岩が砕けるような、重たい足音。
そして、軽やかな何かが駆けてくる音。
「……誰だ?」
私は耳を疑った。
ここは世界の最深部。致死量の熱と放射線が渦巻く、生物生存不能領域だ。
自ら死に急ぐような馬鹿が、私以外にいるはずがない。
幻聴か?
いや、違う。確かに聞こえる。
熱風を切り裂いて、その音は近づいてくる。
「パパァァァァァーッ!!」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が止まるかと思った。
嘘だろ。
聞き間違うはずがない。
十数年間、片時も忘れたことのない、愛しい娘の声。
私は振り向いた。
熱気で揺らぐ視界の向こう。
巨大な岩の巨人が、猛スピードでこちらへ突進してくるのが見えた。
そして、その肩に乗り、必死に手を振る小さな影。
「ユッコ……!?」
なぜだ。なぜお前がここにいる。
来るな、と叫ぼうとした。
だが、喉が焼けて声が出ない。
岩の巨人は、信じられない速度で私の元へ到達すると、滑り込むようにして私の前に立ち塞がった。
ドォォォォン!
巨人が仁王立ちになり、その広大な背中で、壁からの熱波を受け止めたのだ。
ジュワァァァ……と、岩の表面が焼ける音がする。
だが、巨人は微動だにしない。
私とユッコを守る、鉄壁の盾となって。
その背中には、見覚えがあった。
あの無骨なフォルム。動力炉の駆動音。
そして、焼け焦げた胸に見える、歯車と音叉の刻印。
「まさか……三号機……?」
ロストしたはずの機体。
それがなぜ、今ここに? しかも、ユッコを連れて?
「パパ! 生きてる!? 死んじゃやだぁぁぁ!」
ユッコが巨人の側から駆け寄り、私に抱きついてきた。
その体温。涙の冷たさ。
幻ではない。本物のユッコだ。
私は震える手で、娘の頭を撫でた。
絶望の淵で、ありえない希望が、土足でドカドカと踏み込んできたのだ。
私の戦いは、まだ終わっていなかったらしい。
この騒がしい乱入者たちが、運命の歯車を大きく狂わせようとしていた。




