最終章① 秘密の施設と、刻まれた刻印
世界の最深部へと近づくにつれ、風景から色彩が失われていった。
かつて緑豊かだったであろう大地は、赤黒い岩肌と、乾ききった砂礫だけに支配されている。
今までに行った砂漠や火山のような燃え盛る熱気とは違う。ここにあるのは、澱んだ、重苦しい熱の塊だ。
陽炎が空間を歪め、遠くの景色が揺らめいている。
「……暑いね、レム。それに、なんか変。音が……しない」
エルフの少女ユッコが、不安そうに自身の長い耳を澄ませた。
彼女の言う通りだ。風が吹いているのに、風切り音がしない。砂を踏む足音も、どこか遠くで鳴っているように頼りない。
問題の震源地が近いのだ。音という音が、空間ごと何かに吸い取られているような感覚。
岩の巨人レムは、無言で彼女の前に立った。
熱波と静寂から彼女を守るように、その巨大な背中で道を切り開く。
だが、レム自身の内部でも、異変は起きていた。
(……なんだ? 体が、おかしい)
先ほどから、手足の感覚が自分の意思とズレ始めている。
右足を出そうとすれば、勝手に歩幅が広がる。止まろうとしても、慣性が働いているかのように体が前へ進もうとする。
まるで、強力な磁石に引っ張られているような、あるいは見えないレールの上を歩かされているような強制力。
『グォ……ッ(おい、止まれ!)』
レムは心の中で叫び、足に力を込めた。
だが、岩の脚は彼の制御を無視し、機械的な正確さで進行方向を変えた。
目的地は、切り立った断崖の陰。何もない、ただの岩壁だ。
「レム!? どうしたの、急に走って!」
ユッコが慌てて追いかけてくる。
レムの体は、意思とは裏腹に加速していく。
ぶつかる。このままでは岩壁に激突する。
レムは衝撃に備えて身を固めようとした――が、それさえも許されなかった。
彼の右腕が、滑らかに持ち上がる。
そして、岩壁の特定のポイント――苔に覆われた、何の変哲もない窪みを、正確に押し込んだ。
ズズズズズ……。
重厚な地響きと共に、岩壁の一部がスライドした。
偽装が解かれ、その奥から現れたのは、自然の洞窟ではない。明らかに人工的な、錆びついた鋼鉄の扉だった。
その表面には、一つの紋章が刻まれている。
二つの歯車と、一本の音叉。それらが重なった不思議な意匠。
「あ……っ!」
追いついたユッコが、息を呑んで立ち尽くした。
彼女はそのマークを知っている。
旅の始まり、レムが目覚めた海岸の廃墟で見たもの。そして何より、幼い頃に父の書斎で何度も目にした、懐かしい父の印。
「パパの……マーク。ここ、パパの隠れ家なの?」
レムの体の制御が、ふっと軽くなった。
まるで「到着しました」と告げるナビゲーションのように、強制力が消える。
(俺は……ここに導かれたのか?)
レムは自身の岩の手を見つめた。
なぜ、ここを知っていた? なぜ、隠しスイッチの場所がわかった?
まるで、帰巣本能だ。
困惑するレムをよそに、ユッコは震える手で扉に触れた。
ギィィ……と、軋んだ音を立てて扉が開く。
◇
中は、意外なほど生活感に溢れていた。
広い石造りの部屋には、所狭しと実験器具や工具が並んでいる。
壁には何枚もの設計図が貼られ、机の上には書きかけの羊皮紙と、飲み干されて乾いたコーヒーカップ。
つい数日前まで、誰かがここで暮らしていたかのような気配。
だが、積もった薄い埃が、主の不在を静かに告げていた。
「パパ……? いるの?」
ユッコの声が虚しく反響する。返事はない。
彼女は部屋の中央にある大きな作業机に歩み寄った。
そこには、一冊の分厚いノートが置かれていた。
『観測日誌・第十二巻』と、几帳面な文字で記されている。
「これ、パパの字だ」
ユッコはノートを手に取り、ページをめくった。
そこには、この世界の根幹に関わる衝撃的な事実が、苦悩に満ちた筆致で綴られていた。
『……世界の熱量が限界に近い。もはや一刻の猶予もない』
ユッコは読み上げる。レムもその横からノートを覗き込んだ。
『多くの者は誤解している。我々が畏怖する「熱脈鎮響壁」は、決して呪いの産物ではない。あれは太古の昔、氷に閉ざされたこの星を救うために作られた、巨大な暖房装置なのだ』
(暖房装置、だと……?)
レムは目を見開いた。今までの異変はこれのせいなのか?
『壁の機能は単純だ。地上の「音(振動エネルギー)」を吸収し、それを「熱」に変換して大地へ還す。かつてその循環は完璧だった。世界が賑やかであればあるほど、星は温かく豊かになった』
だが、とノートの文字は乱れていく。
『システムは暴走し、制御不能となった。壁は今や、必要な音までも無差別に吸い込み、過剰な熱を生み出す暴走炉と化した。そして始まる「大静寂」』
ユッコの声が震え始める。
ページをめくる手が止まる。そこには、個人的な懺悔が書かれていた。
『あの日。妻が小規模の「静寂」に命を奪われたあの日。私はこのシステムの真実をまだ知る由もなく、それを停止させることができなかった。王宮の筆頭魔法研究員としての研鑽を怠っていたせいで予兆に気付くことができず、妻を見殺しにしたようなものだ』
「……うそ。そんな……」
ユッコの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
母の死の真相。父が抱えていた罪の意識。
父は逃げていたのではなかった。たった一人で、この残酷な運命と戦っていたのだ。
『私は誓った。もう二度と、犠牲は出させないと。この星の歴史を勉強し直し、真実を見出し、ついに狂った環境を正常へと戻す方法を見つけた。それが「調律」だ』
次のページには、複雑な魔法陣と、異世界の地図――日本列島のような形――が描かれていた。
『熱脈鎮響壁の消化不良を治すには、この世界にはない「異質な音」が必要だ。魔力を持たない、物理的で雑多なノイズ。それを壁に食わせることで、詰まりを解消できるはずだ。そのために私は、異世界への扉を開く研究を始めた』
そして、ノートの後半。
レムの視線が、あるページに釘付けになった。
「えっ……これ……」
ユッコも息を呑む。
そこに描かれていたのは、人型の岩塊――ゴーレムの設計図だった。
『自律型・異界探索用ゴーレム 試作三号機』。
ずんぐりとした体躯。頑強な装甲。そして動力炉の位置。
それは、鏡で見たレム自身の姿そのものだった。
設計図の隅には、例の「歯車と音叉」のマークと共に、こう書き添えられている。
『帰還座標設定:旧研究所(海岸)』
戦慄が走る。
レムの脳裏に、記憶の断片が繋がっていく。
海岸の廃墟で目覚めたこと。言葉は話せないが、こちらの言葉が理解できたこと。
そして先ほど、体が勝手にこの場所へ戻ってきたこと。
(俺の体は……偶然岩に宿ったんじゃない。最初から、親父さんが作った「器」だったのか)
日本へ送り込まれ、事故で自律プログラムが消失し、海底に沈んでいた空っぽのゴーレム。
そこに溺れた俺の魂が入り込み、誤作動で帰還プログラムが起動した。
だが、座標設定が古かったため、親父さんが昔使っていた海岸の研究所へ戻ってしまったのだ。
そして今、ここの近くに来たことで、本来の主がいるこの場所へと誘導された。
全ては、仕組まれていたことのように。
「レム……ちょっと、じっとしてて」
ユッコが、ハンカチを取り出してレムの胸元に手を伸ばした。
旅の汚れと、湿気で生えた苔に覆われた胸板。
彼女はそこを、震える手でゴシゴシと拭った。
苔が落ち、泥が剥がれる。
岩肌の下から現れたのは、深く刻み込まれた刻印だった。
二つの歯車と、一本の音叉。
「……やっぱり。レムは、パパが作ったんだね」
ユッコが泣き笑いのような表情でレムを見上げる。
「パパが、私に会わせてくれたんだ。一人ぼっちにさせないために……最高の相棒を」
レムは胸の刻印に触れた。
今まで、自分が何者なのか、なぜ岩なのか、ずっと不安だった。
だが、今は違う。
この体には、親父さんの執念と、技術と、そして「誰かを守りたい」という願いが込められている。
ならば、俺がユッコを守ろうとするのは、魂の意志であり、この機体の意志でもあるのだ。
これほど心強いことはない。
レムは力強く頷き、ゴリッと拳を鳴らした。
ユッコは涙を拭い、ノートの最後のページを開いた。
そこには、殴り書きのような文字で、遺書めいたメッセージが残されていた。
『壁の臨界点が近い。手持ちの「日本の音」も尽きた。私はこれより、熱脈鎮響壁へ向かい、最後の調律を試みる。おそらく、生きては戻れないだろう』
インクの染みが、いくつも落ちている。
『ユッコ。愛している。お前だけは、静寂のない世界で、自由に歌い、笑って生きてくれ。それが、私の唯一の望みだ』
そこで記述は途切れていた。
日付は、つい数日前。
「……パパ」
ユッコがノートを胸に抱きしめ、くしゃりと顔を歪めた。
「勝手に死ぬとか、許さないんだから……! 私を置いて、一人でかっこつけるな!」
彼女は勢いよく顔を上げた。
その瞳に、もう迷いはなかった。ハンターとしての、強い光が宿っている。
「行くよ、レム! パパを連れ戻す! 壁なんか、私たちがぶっ壊してやるんだから!」
レムは無言でサムズアップを返した。
当然だ。
(俺には「日本の音」についての記憶がある。ユッコには最強の機材がある。
そして何より、俺たちは二人で一つだ。)
二人はアトリエを飛び出した。
目指すは、熱気が渦巻く世界の底。
死を覚悟した孤独な調律師が待つ、灼熱の最深部へ。
レムの足取りは、もう何者にも操られてはいなかった。
自分の意志で、大切な人を守るために、大地を踏みしめていた。




