第20話 スライムの地下水路と、粘液のワルツ
水の都アクア・ヴェルト。
地上の街並みは、運河と白亜の石造りの建物が織りなす美しい景観で知られている。ゴンドラが行き交い、観光客の笑い声が響く、光に満ちた場所だ。
だが、光あるところには必ず影がある。
この巨大都市の地下には、複雑怪奇に入り組んだ下水道網、通称「ゼリー・アンダーグラウンド」が広がっていた。
「うぅ……ジメジメするぅ。髪の毛が湿気でクリンクリンだよぉ」
エルフのユッコが、角灯を掲げながら不満げに声を漏らした。
薄暗い地下通路。壁面には発光苔が青白く張り付き、足元には常に薄い水膜が張っている。空気は重く、黴と淀んだ水の匂いが充満していた。
『グォッ(足元に気をつけろ)』
岩の巨人レムが、先行して歩きながら振り返る。
彼にとって、この湿度はむしろ心地よかった。乾燥してひび割れそうになる岩肌が、適度な水分を含んで潤う感覚がある。それに、彼の重量級のボディは、多少のぬかるみなど物ともせずに踏破できる。
「だってぇ、ここの床、なんかヌルヌルするんだもん。……きゃっ!」
言い終わらないうちに、ユッコが足を滑らせた。
レムは素早く岩の腕を伸ばし、彼女の腕を掴んで支える。
「あ、ありがと……。さすがレム、頼りになるぅ」
ユッコが安堵の息をつく。
二人がわざわざこんな場所を歩いているのには理由があった。地上の運河は大渋滞で移動に時間がかかる上、この地下には「幻の軟体生物」が生息しているという噂をユッコが聞きつけたからだ。
「ここを抜ければ、目的の貯水槽に出るはず。そこに『キングスライム』がいるんだって! どんな音を出すのかなぁ、楽しみ!」
恐怖よりも好奇心が勝るのが彼女の性分だ。
レムは呆れつつも(心の中で)、彼女の小さな背中を守るように進んだ。
◇
しばらく進むと、通路が途切れ、巨大な円形の空間に出た。
そこは都市の地下水を一手に集める巨大貯水槽だった。
天井からは滝のように排水が流れ落ち、中央の広大なプールに注ぎ込んでいる。
だが、その水の色は異様だった。
水ではない。半透明の青、緑、ピンク……カラフルな液体が、意志を持ってうごめいているのだ。
「うわぁ……! これ全部スライム!?」
ユッコが声を上げた瞬間、プール全体が波打った。
無数のスライムたちが侵入者に気づき、ザワザワと身を震わせる。
その時だった。
レムの足元――石畳だと思っていた場所が、ニュルリと動いた。
擬態していた巨大なスライムだったのだ。
『グォッ!?』
不意を突かれたレムはバランスを崩した。
ズズズッ……と足が沈む。踏ん張ろうにも、地面そのものが流動体だ。抵抗する間もなく、レムの巨体はスライムのプールへと滑り落ちてしまった。
ドボンッ! ……ではなく、ボヨヨンッ!
水しぶきは上がらない。
代わりに、強烈な弾力がレムを受け止めた。
「レムーーーッ!!」
ユッコの悲鳴が響く。
レムは体勢を立て直そうと、剛腕を振るった。岩をも砕くパンチだ。
だが、ボヨンッ。
スライムの体は衝撃を吸収し、ゴムのように変形して受け流すだけ。物理攻撃が一切通じない。
もがけばもがくほど、粘着質の体が絡みつき、レムを奥深くへと引きずり込んでいく。
(くそ、身動きが取れない……!)
呼吸の必要がないゴーレムゆえに窒息死はしない。
岩の体は消化もされないので、溶かされる心配もない。
だが、このままでは永遠に「スライム漬けの岩」として、ここで漂うことになる。
「レム! 手ぇ出して!」
岸壁の縁から、ユッコが身を乗り出していた。
彼女は自分の危険も顧みず、限界まで手を伸ばしている。
レムは必死に腕を伸ばし、その小さな手を掴んだ。
ガシッ。
岩の指と、エルフの指が交差する。
「んぐぐぐ……っ! お、重いぃぃぃ!」
ユッコの顔が真っ赤になる。
当然だ。レムの体重は数百キロはある。華奢なエルフの少女一人で引き上げられる重さではない。
それに、スライムの吸着力が凄まじい。まるで強力な接着剤の海に浸かっているようだ。
『グォ……(離せ、ユッコ。お前まで落ちるぞ)』
レムは首を振って合図を送った。
だが、ユッコは首を激しく横に振った。
「嫌だ! 絶対離さない! レムを置いてくなんて、絶対しないもん!」
彼女の瞳に涙が滲んでいる。けれど、その手は痛いほど強くレムを握りしめていた。
温かい。
冷たくヌルヌルしたスライムの中で、繋いだ手のひらから伝わる熱だけが、鮮烈に「生」を感じさせた。
(……ああ、そうか)
俺は一人じゃない。
この小さな手が、俺を現世に繋ぎ止める錨なんだ。
レムは抵抗するのをやめた。暴れるほどスライムは硬化し、吸着力を増す。
力を抜き、流れに身を任せる。
すると、不思議なことが起きた。
敵意を持って絡みついていたと思われたスライムたちが、レムの敵意が消えたのを感じ取ったのか、ふわりと力を緩めたのだ。
ポヨヨン、プルルン。
彼らはレムを攻撃していたのではない。
ただ、新しい「硬いオモチャ」が入ってきて、嬉しくてじゃれついていただけなのだ。
スライムたちが、レムの周りでリズムを刻み始める。
合体し、分裂し、跳ね回る。
その奇妙な光景に、ユッコも目を丸くした。
「あれ? レムのこと、食べてるんじゃないの? ……なんか、遊んでる?」
危機的状況が、一転して奇妙な宴へと変わる。
耳を澄ませば、そこには独特な音が満ちていた。
ユッコの表情が、心配からハンターの顔へと変わる。
彼女は繋いだままの手とは反対の手で、器用にシェルレックを取り出した。
「もぉ~、心配させやがってぇ。でも、転んでもただでは起きないのが私たちだよね!」
ユッコは涙を拭い、ニカっと笑った。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~地下水路の粘液舞踏会
録音のスイッチが入ると同時に、俺の意識は触覚から聴覚へとシフトする。
全身を包み込むゼリーの海。
視界は半透明の青に染まり、世界が歪んで見える。
だが、音だけは鮮明だ。いや、液体の中だからこそ、振動が直接、岩の核に響いてくる。
――ニチャァ……。
まずは、粘り着く音。
無数のスライムが俺の岩肌を這い、離れる瞬間の音だ。
水飴を練るような、あるいは湿った粘土をこねるような、重たくて湿度の高い音。
不快ではない。むしろ、そこには生命の根源的な温かみがある。
すべての生物が生まれる前に漂っていた、太古の海の記憶を呼び覚ますような響き。
――ポヨヨンッ、ボヨッ。
次に、弾ける音。
天井から滴り落ちる雫がスライムの表面を叩き、トランポリンのように弾き返される。
高反発のゴムまりが跳ねるような、軽快でコミカルなリズム。
重厚な「ニチャァ」という低音の上で、「ポヨヨン」という高音が踊っている。
そして、融合と分裂の音。
――プルルン、チュルン。
個と個の境界が曖昧になり、二つのスライムが溶け合って一つになる。
液体と固体の狭間にある、不定形な存在たちのダンス。
吸い込まれるような吸引音と、弾き出される破裂音。
それはどこか官能的ですらある。
形を持たない彼らは、あらゆる形になれる自由を持っている。
岩という「不変の個体」である俺の周りで、彼らは「変幻自在の液体」としての生を謳歌しているのだ。
地下のドーム状の空間が、天然の反響ホールとなっている。
ニチャ、ポヨ、プルルン……。
音が壁にぶつかり、乱反射し、幾重にも重なったエコーとなって降り注ぐ。
不規則なのに、心地よい。
予測不能なシンコペーション。
俺の体は、この奇妙なオーケストラの指揮台だ。
動くことはできないが、振動を感じることはできる。
冷たくて、ぬるくて、柔らかい。
その感触がそのまま音となって脳内に再生される。
ふと、繋いだ右手に意識を向ける。
そこだけが、確かな「個体」としての熱を持っている。
不定形な世界の中で、唯一変わらない絆の温度。
このワルツは、終わらない。
水が流れ続ける限り、彼らは永遠に合体と分裂を繰り返し、この湿った地下帝国で踊り続けるのだろう。
俺は目を閉じ(るような感覚になり)、この不思議な浮遊感と音の波に、しばし身を委ねた。
~♪
◇
ひとしきり音を録り終えると、スライムたちの興奮も収まってきたようだった。
彼らは満足したのか、サーッと波が引くようにレムから離れていった。
「今だっ! レム、上がって!」
ユッコがここぞとばかりに腕を引く。
吸着力が弱まった今ならいける。レムは岸壁に手をかけ、渾身の力で体を引き上げた。
ズボボボボッ……!
盛大な音と共に、岩の巨人がスライムのプールから生還する。
ドサリと石畳の上に転がると、ユッコも勢い余って尻餅をついた。
「はぁ、はぁ……。よかったぁ、助かったぁ……」
ユッコが大の字になって天井を見上げる。
レムもまた、体を起こして安堵のため息(のような排気音)を漏らした。
だが、その体は酷い有様だった。
全身が青や緑のカラフルな粘液でコーティングされ、テラテラと光っている。岩の隙間という隙間にゼリーが詰まり、動くたびに「ニチャァ」と音がする。
「ぶふっ! あはははは! なにそれレム、キラキラしててデザートみたい!」
起き上がったユッコが、レムの姿を見て爆笑した。
さっきまでの涙はどこへやら、お腹を抱えて笑い転げている。
『グォッ……(笑い事じゃないぞ)』
レムは文句を言いたげに肩をすくめたが、その仕草さえも「ヌルン」と滑らかすぎて締まらない。
ユッコはひとしきり笑うと、懐から手ぬぐいを取り出し、レムの元へ歩み寄った。
「ごめんごめん。ほら、拭いてあげるからじっとしてて」
彼女はレムの顔(と思われる部分)についた粘液を、丁寧に拭き取り始めた。
ゴシゴシ、キュッキュッ。
その手つきは優しく、まるで汚れた子供を世話する母親のようだ。
「……でも、いい音録れたね。なんかこう、聞いてると不思議と落ち着くっていうか、お母さんのお腹の中にいた時ってこんな感じだったのかなぁって」
手を動かしながら、ユッコが呟く。
レムは黙って彼女に身を任せた。
冷たい粘液越しに感じた彼女の体温が、まだ右手に残っている気がした。
「よし、大体きれいになった! 隙間に入ったやつは、次の街で洗い流そっか!」
ユッコが満足げに頷く。
二人は立ち上がり、出口へと向かう階段を登り始めた。
地上への扉を開けると、夕暮れのオレンジ色の光が差し込んできた。
湿った地下の空気から一転、乾いた風が頬を撫でる。
レムは一瞬だけ振り返り、暗い地下水路を見下ろした。
そこではまだ、スライムたちが楽しげにポヨヨン、プルルンと踊り続けているのだろう。
その音はもう聞こえないが、二人の絆を強めてくれた不思議なワルツとして、レムの記憶のシェルレックにはしっかりと刻み込まれていた。
「さあ、地上だ! 早く次行こ、レム!」
騒がしくも愛おしい相棒が、光の中で手を振っている。
レムは一度だけ強く頷き、その光の方へと歩き出した。




