素敵な思い出 ?
「携帯が鳴っているのに気付かないのはいいと思うの。誰でも都合はあるからね」
加奈さんのお店『天使の羽』。そこのカフェスペースに僕と薫ちゃんは並んで座っている。カウンターの中にいる加奈さんは、店の商品である犬の形をしたブローチを光にかざしていた。店内はアプリコットの香りが充満している。定期的に香りを変えているの、と加奈さんは教えてくれた。
「そうだね」と僕は何度目かの相槌を打った。
「でもね、気付いていながら電話に出ないのはどうなのかな? それもさ、用事があるって知ってるし、時間も教えてるし、理由だって知ってるじゃない?」
「そうだね」
「百歩譲ってね、電話に出るのが億劫だったっていうのも考えてあげたの」
あげた? 僕のために考えて…………あげた?
「でもさ、一回画面見たよね? そのときに出てくれたもよかったんじゃないの? お会計の時もずっと電話してたのにお店の人と話してなかった?」
「そうかもしれない」
何度かアプリコットティーに手を伸ばそうとしたが、その度に薫ちゃんの視線が下がるので手をつけられずにいた。湯気が立っていた紅茶から湯気が消えて久しい。加奈さんに視線を何度も向けてみたが素知らぬ顔でブローチを磨いている。ちらりと薫ちゃんは僕のカップを見た。
「そのカップ、私が加奈さんにプレゼントしたんだよね。開店のお祝いに。素敵だよね?」
「もちろん! この世ならぬ美しさだ。やっぱり薫ちゃんのセンスはある――――」
「ともかく!」
今が好機! とばかりに食いついてみたが、薫ちゃんの言葉に僕は口をつぐんだ。
「みーちゃんは私の電話よりも、よく知らないおじさんとの他愛もない会話のほうが重要だった。てことだよね?」
「みーちゃ……? それは違う。薫ちゃんの電話をいつも心待ちにしている」
「じゃあすぐに電話に出てもよかったんじゃないの? 一言今から行くよ、ぐらい言ってくれたら丸く収まるのに。私だって、仁王立ちしてみーちゃんを待たなくてもよかったの……」
そこまで言ったところで薫ちゃんは吹き出した。それを聞いて加奈さんも吹き出して笑い合った。一人だけ状況が分からず、僕は二人の笑顔を見比べていた。
「冗談よ。電話に出なかったぐらいでそんなに怒んないって」
可笑しい、と言って薫ちゃんはまた笑った。その目には涙まで浮いている。僕は状況を把握し、憮然として腕を組んだ。
「……とんだピエロだ」
「いいじゃない。薫ちゃんに悪意はなかったんだから」
加奈さんが新しいアプリコットティーを用意してくれた。それを受け取り、大仰にため息をついた。
「悪気はありましたよ。どおりで加奈さんが何も言わないわけだ」
「邪魔しちゃ悪いと思ったから」それから、と言って加奈さんが嬉しそうに微笑んだ。「私もみーちゃんって呼んでいいのかな」
「いいと思うよ。みーちゃんのほうが言いやすいもんね」
「それは僕のこと?」と僕は惚けてみた。「この店には猫なんていないけど?」
「猫にそんな名前付けるほどセンスない真似しないよ」
左様でございますか。
「みーちゃんってさー」
この話題はこれでおしまい、と言いたげに薫ちゃんは話を変えた。
「彼女いないよね」
「決めつけるのはよくないな」と僕は言った。「もしかしたらって可能性もある」
「いるはずないよね?」と薫ちゃんはにやにや笑いながら言った。
その顔を驚きに変えてやりたかったが、僕のポケットにそんなアイテムは入っていない。仕方なく神妙な面持ちで頷いた。やっぱり、と言って薫ちゃんはまた笑った。
「早く作って私に紹介してよ。そうしたらその人と買い物行って、みーちゃんの話題で盛り上がるんだから」
薫ちゃんの頭の中では妄想彼女と素敵なランチが出来上がっている。それで何が困るわけでもないが、苦笑しながら加奈さんに助けを求めた。加奈さんは悩む素振りを見せ、髪を耳にかけた。
「ペアリングが必要かしら?」
時々、この二人が姉妹でないことを疑問に思う。加奈さんは加奈さんで妄想彼女とのプランが出来上がっているようだ。二人のプランの中心にいるはずの僕が蚊帳の外、というのはどうしたっておかしい。可笑しくはないはずだ。
「そういえば」と僕は加奈さんに尋ねた。「聞いてもいいですか?」
「初デートの場所? 夜景の綺麗なところもいいけど、無難すぎるのはどうかな。特別な日には背伸びしてもいいわ」
「いえ、そうではなくて」
僕はわざと咳ばらいをした。横で薫ちゃんがまた吹き出したがそれは無視した。
「前に言ってた加奈さんの素敵な人ですよ。どんな人なんですか?」
「だから、昔の人よ」と加奈さんは諭すように言った。
「昔の恋人?」
「素敵だったなって思った人よ。ただそれだけ」
やんわり遠ざかろうとするような物言いに戸惑った。触れていいのかいけないのか、その境界が掴みきれない。細める瞳は思い出を懐かしむようにも見えたし、辛い過去から目を背けているようにも見えた。
「私も出会いとかは聞いてない! ねえ、その人とどんな風に出会ったの?」
思いあぐねていると薫ちゃんがお構いなしに突っ込んだ。自然かどうかはわからないけどこれに便乗することにしよう。
「薫ちゃんは知ってたんじゃないの?」
「ううん。聞こう聞こうと思ってたけど、いざ聞くと気づいたら違う話してるから」
うまく躱されていたのか。そうすると俄然気になりだしてきた。
加奈さんはひどく様になった溜息を漏らすと、仕方ないか、とこちらも様になった呟きを漏らした。
「どこから話そうか……」
そう言って顎に人差し指を当てて何度か唸った。しばらく待っているとぽつりぽつりと語り始めた。
まだ私が薫ちゃんのお父さんの会社に勤める前、大学を卒業して入社した印刷会社の取引先の営業の人よ。モデルみたいに背が高くて涼しい目元が印象的だったな。同僚とか先輩の間でも有名で、その人が来る時はお茶汲みの争奪戦。頻繁に来る人じゃなかったから戦いはすごかったわ。私? 私はそうでもなかったわね。素敵な人だとは思っていたけど、かっこいい人って苦手だったのよ。意外でしょ? 挨拶ぐらいはしていたけどね。
仕事に慣れてきた頃に、五十過ぎた太鼓腹の部長に呼び出されたの。子煩悩で部下の評判もすこぶる好評で、狸さんなんて呼ばれてた人よ。勤務はどうとか、疲れが溜まっていないかとか、そんな雑談がひと段落着いたところでぽろっと言ったの。
『彼氏はいるのかな?』
その営業の人が私を気に入ってくれて、食事だけでもって誘ってくれた。私は、食事ぐらいならって仕方なさそうに答えたんだけど、本当はとても緊張していたわ。それと同じぐらい嬉しかったな。何度か挨拶しただけの私を覚えてくれて興味をもってくれたからね。
最初は食事。仕事終わりに駅前で待ち合わせをして、小さなフレンチレストランに連れて行ってもらったの。みーちゃん、最初のデートは張り切りすぎないほうがいいわ、お洒落で素敵だけど肩肘張らずに行ける場所。そんなところに連れて行ってあげてね。
彼との時間は夢のようであっという間だった。もう一度会いたいな、そう思っていたら彼のほうから誘ってくれた。はにかみながら予定を聞いて、予定が合うと安心して笑ったの。気取った人なのかもって最初は疑っていたけど、全然そんなことない。むしろ女性の扱いに不慣れなほうだった。あばたも笑窪じゃないけれど、そんなところも好感がもてたわ。
それで何度か仕事の後に会って休日を合わせるようになった。次第に言葉づかいも砕けてきて、仕事の話はもちろんだけど、お互いの上司の愚痴とか内部事情なんかも話すようになったかな。それが失敗だったのかもね。
『今俺が進めている業務は加奈さんの部署と関わりが強いからね。何度も打ち合わせに行くと思うよ。その時は熱いお茶をよろしく』
『私は無理ね。知らないだろうけど、あなた人気あるの。お茶汲みはできないけど、仕事できちんと協力するから』
『協力? それは当然だよ。元はと言えば君の上司が原因なんだから』
『? それってどういうこと?』
『聞いてないのかい? 君の上司の……狸さんだったか、あの人のミスで俺たちが出張ることになったんだ。こうして会うきっかけを作ってくれたのだって、彼はご機嫌取りぐらいに思っているよ』
彼にとっては出会うきっかけを話しているつもりだったのかもしれないけど、私は箸を落とすぐらい信じられなかった。落とした箸を拾うのも忘れたぐらい。それまで素敵に見えた彼が張りぼてのように感じたわ。
彼の台詞が何度も繰り返されて夢にも出てきたわ。今の私ならともかく、社会のずるさと怖さを知らなかった私にとって、彼がとても穢れた人間に思えたの。本当はそんなことないのにね。出会いがあればどんな出会い方でも構わない。彼はそう思って、それぐらい私を思ってくれていたのかもしれないのにね。
それから私は会社を辞めた。もともと転職するつもりだったし、薫ちゃんのお父さんから誘われていたしね。ちょうどいいきっかけになったのかも。
そして、しばらくしてから独立。連絡先を変えたから彼とはそれっきり。一度ここに来たみたいだけど、私は会っていないし、会うこともないかな。
ごめんね、しんみりさせちゃって。でも大丈夫。私にとっては素敵な思い出なの。ちょっぴり甘酸っぱいとっくに終わった思い出よ。お母さんかな? 今日はおしまいね。みーちゃんはどうする? そうね、天気予報は雨だったかな。まだ大丈夫? 傘は? まあ男の子だし濡れても走れば大丈夫か。
またきてね、おやすみ。
カラン、コロン、カラ、バタン…………。




