終章
雲一つない空は潮の匂いなんてしない。当然空は空のまんまだし、あれだけ殺風景に、よく言えば空がものすごく近かったはずなのに、今は空を遮るようにビルがあちこちに立ち並んでいる。
私が帰って来てから、既に二週間経っていた。
息を吐き出したら、真っ白に空気が濁る。人はせわしなくってどこかよそよそしい。それが当たり前のはずなのに、あの山にずっといた感覚が未だに抜け落ちていない私には、どことなく違和感。あの山でだったら一人で生きていくにはその中、私はゆっこと一緒に歩いていた。
「本当に珍しいのね。あれだけもこっもこのマフラー欲しいって言ってたのに、もう買うなんて言わないのね」
「うん、言わないなあ」
「替わりのマフラー、何かボロボロだけど」
「やだ、これは大事なもんだから、捨てない」
「そ」
ゆっこは呆れたように一息吐くけれど、それ以上は追及してくれなかった。私にはそれがありがたい。
私はぐるんとマフラーを巻いていた。正確にはマフラーではない。辰巳が私にくれた仮尾だった。
「あと進路調査票。あれも意外だった。夢見さん、あなたずっと日本文学科希望だったと思ったのに、いきなり法学部に進路変更するなんて、どういう風の吹き回し?」
「うーん、そうだなあ……やっぱり挫折したって言うのがおっきいからかも」
「挫折?」
「うん」
ゆっこにどこまで言っていいもんかなあって、思ってしまう。
辰巳に召喚陣を使ってこの世界に帰された時、私がいきなり出て来た時、人はほんの少しだけぎょっとしたけれど、すぐに何事もなく立ち去ってしまったのをよく覚えている。家に帰ったら当然のようにお母さんに悲鳴を上げられた。制靴はありえない位にべこんべこんになってるし、替わりに草履履いて帰って来るし。脚も変に逞しくなってしまったけれど、基本的に体型自体はあんまり変わらなかった。せめて痩せてくれればいいのに、痩せたら死ぬって身体が信号出したのか、対して脂肪は減ってくれなかったんだなあ、これが。
私があの山にいて思ったのは、ああ、私なあんの役にも立たないって事だった。学校で勉強したような事は全く役に立たないし、あの山の常識が私には分からない。料理の方法だってあの山と私の世界だったら違うし、子供だって知っているって言うおとぎ話の一つすら知らない私を、最後の最後まで面倒を見てくれた辰巳には、本気で感謝している。
それに知らないって言うのは本気で怖い事だって思ったんだよね。あの山のルール上仕方ないとは言えども、丁は古き理を悪用して、山を司る宝貝を奪おうとしたのが、あの山で起こっていた騒動の一部始終だった。知らない内にいろんな人達がいいように使われて……辰巳だって、家族を亡くした。戦争のせいでたくさん人が死んだし、あの山を巣食っていたひとでなしって蔑称の人達をないがしろにするって病のせいで、子子ちゃんだって、酉さんだって、……人を一人生贄にしないと生きていけない邑だって、たくさんの人達が苦しんだ。
知らないって言うのは罪だって思ったら、私は自分の世界の事すら案外知らないって事に気付いたから、こうして勉強しないとって思っちゃったんだ。
ゆっこはほっともう一息吐き出す。
「私に言いにくいって事があるんだったらさ、小説とか書いてみればいいんじゃない? 最初からほら話だって思ってたら案外話せるものよ」
「えー……私、小説とかって全然書いた事ないよ?」
「法学部なんて競争率すごいじゃない。忙しくなったら初心なんてすぐ忘れちゃうわよ。大事な事は忘れちゃった時手遅れなんだから書いとけば。私のアドバイス」
「ふうん……」
ゆっこにそう指摘されて、私は思わず考え込んでしまった。確かに私が起こった経験なんて、口で説明しようものなら全然要領を得ないし、そもそも普通の人が信じる訳のない内容だし。小説って形でだったら読んでもらえるのかな。
この手の事を趣味にしているゆっこを、私はじっと見て手を合わせた。
「ならさあ、私が小説書くの手伝ってよ。ゆっこはそういうの得意でしょ?」
「……まあ、いいけど」
やたっ。持つべきものは友達だねっ。
私は思わずガッツポーズを取ってしまった。
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普段パソコンなんて授業でしか使わないし、表計算ソフト位しかまともに使わない私にとっては、書いた事もない小説を書くって言うのはひどく要領を得ない作業だった。
それでも登場人物の設定の書き方とか、下書きの書き方とかはゆっこが手伝ってくれたので、おぼつかない書き方だったけれど、それでも何とか形にする事ができた。私の視点のない場所なんて想像だし、戦争の書き方なんて全然だし、深刻な部分も私が書いてしまったら何だか能天気が過ぎるような気もしたけれど、伝えないといけない部分は何とか自分の言葉で捻り出せたから、よしとする。
私が何度も何度も書き直しながら、そのたびにゆっこに内容を読んでもらっていた。最後までどうにか書き終わった分を、ゆっこはじっと視線を落としながら読んでくれていた。ワープロソフトで打って、それを印刷した大量の紙束を、ゆっこは真剣に目を通してくれた。
「……すごいわね、これ」
「いやあ……ゆっこが手伝ってくれなかったら、全然書けませんでした」
「言っておくけど、夢見さんの文章なんて滅茶苦茶だからね? 小説の文章の事じゃなくって、厳しい話で全然夢見がちじゃないって言う内容の方だからね?」
「知ってますー! そりゃ全然夢のない話だって知ってますー!」
そりゃ辰巳の話に夢なんてある訳ないじゃない。辰巳は自分の夢を叶えるために必死で頑張ってた。私はそれを文字通り「見てた」だけだったんだから。だから、一緒になんていられないって思ったんだから。
私が自分の足でちゃんと歩けるって証明しなきゃ、辰巳の隣に立てる訳ないじゃない。なあんて私が思っている中「ねえ」とゆっこが声をかけてくる。
「ん、何? また分かり辛い所書き足さないと駄目?」
「それはそれであるんだけど。この話の舞台の山って、名前はないの?」
「名前?」
そう言えば。私あの山に名前なんてあるかどうかすらも聞いた事がない。あの世界はあの山の上が全てで、その下には果てしなく虚無が続いていたような気がする。山が一つの世界なんだから、そりゃ名前なんてつけようもない気がする。
「……なかったと思うんだけど」
「つけなくっていいの?」
「いやあ……山一つが世界の場合って、名前つけてもいいのかなあって」
私が素直にそう言うと、しばらくゆっこは紙束に視線を落としてから、一言呟いた。
「仙人がいて、宝貝があって、隣人と獣人が住まう架空の山……中国っぽい世界観だし、蓬莱山とか崑崙山とかは?」
「ん? 蓬莱山とか崑崙山って、どう違うの?」
「どちらも中国で道教って言う宗教の中で仙人が住まう山って呼ばれている場所なんだけどね。蓬莱は蜃気楼の中にある山って言われてて、崑崙は仙界とも呼ばれてて八仙が住む山って言われてるんだったかなあ」
ゆっこが緩やかに笑いながら説明してくれるのに、私は思わず指をくわえて考え込んでしまう。
この山の本当の名前は最後まで知らなかったけれど、でも。
辰巳と一緒にいたって言う証に名前が欲しかった。
「崑崙、がいいんじゃないかなあ。だってこの山、八仙が作ったって言ってたし」
「本当に自分が体験したみたいに言うのね」
「あはははは……そうかもしんないね」
何度も何度も書き直して書き終えた小説の紙束を、私はそっと撫でた。
苦しくっても、悲しくっても、時にはやり切れなくっても、私は確かにこの山にいた。でも私の考えで行動なんて全然できなかった。
でも今は違う。私はこの世界で、ちゃんと私の人生を生きるから。何も知らなくっても能天気に笑っていた私からは卒業する。
「我愛你……」
「何?」
「ううん、言われて嬉しかった言葉を思い出してただけ」
こっちに帰って来て、どうにか中国語の辞書をネット検索でリスニングと合わせて検索しなかったら意味なんて分からなかった。
あんたの気持ちが分かったから、私はそれでいい。私は、あんたにもらった物を全部もらって、生きていくから。
私の人生は、まだまだこれからだ。
<了>




