田中あずき 春③
守田の実家は「コーヒーショップ・香」という喫茶店だった。怪我をした守田の手当のために四人で彼の実家に立ち寄った。勇次は気だるそうにしながらも同行した。
香に到着すると、守田は人数分のコーヒーと勇次にスペシャルをと店員(おそらくお母さん)に言って、「ちょっと着がえと手当してくるわ」と奥へ引っ込んだ。蓮華が「あたしも手伝うよ。彼女だし」と守田について行ったので、あずきは勇次と並んでカウンターに座る羽目になった。
あずきは気まずくて店内を見渡した。漫画が下手な古本屋よりも揃っていて、入口が本棚のせいで狭く二人並んで歩けない仕様になっている。コーヒーショップだけれど、香りはコーヒーよりも食欲を刺激するカレーの方が強かった。BGMはなくテレビのニュースが流れていた。今は、ゴールデンウィークの交通情報が報道されている。テーブル席は四つで、お客さんはあずきたちだけだった。
ふう、とあずきは息を吐いた。それからコーヒーショップ・香まで歩く間中、喉に引っかかっていた言葉を口にしようとした。
「ありっ」
「でさ、オマエ誰だっけ?」
勇次があずきを見て怪訝そうな表情をしていた。
それ今、言う必要あった? ねぇ!
脳内であずきは中谷勇次の写真を貼りつけたサンドバッグを思いっきりぶん殴ってから、笑みを浮かべた。
「岩田屋高校一年。中谷くんと同じクラスの田中あずきです」
「はーん。クラスメイトなんだ、アンタ」
「そうなんですよ。興味ないでしょうけど」
「まぁな」
かちんっときてしまった。別に覚えてなくても良いけど、ちょっとくらい興味を示してくれたって良いじゃん!
「中谷くんって喧嘩、強いんですねぇ」
「強い? 知らね」
「だって、男三人を一瞬で倒しちゃったじゃん」
「あー」勇次は何を考えているか、よく分からない表情で視線を上の方を彷徨わせた後に言った。「一応言っとくけど、アンタさ弱いんだったら喧嘩の場に割り込もうとかすんじゃねーよ」
「はぁ?」
「アンタ、守田の前に出てきたろ? 邪魔だっつーの」
「邪魔って……」
だって、あれ以上殴られているところなんて見たくなかった。
「あん時、あのアホがわざと距離取っただろ? 守田はちゃんと足で、アホのスネか股間か知らねぇけど、狙ってたんだよ。だから、アンタが前に出なきゃ、あの喧嘩は守田が勝ってたんだよ」
断言するような物言いだった。
「え?」
でも、と言いかけたところで店員がコーヒーと共にスペシャルカレーを運んできて、勇次の前に置いた。カレーの上にはトンカツと唐揚げと牛カルビの焼肉が所狭しと乗っていて、確かにスペシャルだった。
「来た来た~。おばちゃん、ありがとう!」
勇次は満面の笑みを浮かべた。
「いっぱい、お食べ」と店員は頷き、あずきの方を見てニッコリと笑ってコーヒーカップを置いた。「貴女にはコーヒーね。頭の悪い二人だけど、良い奴らだから仲良くしてあげてね」
コーヒーカップを手に取って小さく「はい」と答えた。
勇次はが横でがつがつとカレーを食べはじめた。
あずきの目から見て守田は無抵抗に殴られていた。しかし、中谷勇次の目から見ると守田はちゃんと反撃の機を窺っていたことになる。
余計なことをしたのかも知れない。そういう気持ちが浮かんだが、羽交い締めにされた状態で守田はどのように彼らと戦ったのだろうか? と疑問に思った。
勇次の言葉は、どこかそうであって欲しいという理想が含まれているような気がした。現実は分からない。ただ事実として無事こうして勇次の横でコーヒーを飲めている。
「ありがと、助けてくれて」
自然と言葉がこぼれた。
しかし、隣にいた勇次はもごもごと口を動かした後に「あん? なんか言ったか? 唐揚げならやらねぇぞ!」と言った。あずきは脳内で、勇次の写真を貼りつけたサンドバッグにドロップキックをしてから、勇次が大切に抱えているカレー皿の上にある一番大きな唐揚げを摘まんで口に入れた。
熱かったが、食べられないほどじゃなかった。
「てめぇ、やらねぇっつただろ!」
「隙を見せるアンタが悪いのよ!」
「んだと! この唐揚げ泥棒!」
「うるさい! 喧嘩ばか!」
◯
守田がガーゼだらけの顔を見せたのは、あずきと勇次が言い合いを始めて五分ほど経った頃だった。
「え? なに、夫婦喧嘩?」と守田が目を丸くしたので、あずきが睨みつけると彼は気まずそうに視線を逸らした。「あー田中さん。恐い思いさせちゃって、ごめんね」
その言葉は本当に申し訳なさそうで、あずきの頭は急速に熱を失っていくのが分かった。「守田くんは悪くないよ。助けてくれて、ありがと。怪我大丈夫?」
思った以上に大人っぽい声が出た。横で「うげぇ」と勇次が引いたような声をあげたが顔は見えないし、とりあえず無視した。
「怪我は、見た目が派手なだけで全然大丈夫」
守田はあずきの横に腰を下ろした。蓮華はお冷を二つグラスに注いで一つを守田の前に置いてから、彼の横に座った。蓮華、守田、あずき、そして勇次の並びで一列に並んだことになる。あずきは男の子二人に挟まれていることに居心地の悪さを覚えた。
「それで田中さん服、汚れなかった?」
「大丈夫だよ」
守田はあずきの服をやたら心配している気がする。こういう服装が好みなのだろうか? 薄いグレーのニット服に白のスカート? 清楚系と言えばそうだろうけれど、守田はもっと派手なイメージがある。派手な色合いで露出が多くて……。
「それで、守田。すずらんの花が咲いている所、知らねぇか?」
「はぁ? お前が花だぁ?」
「探してんだけど、見つからねぇーんだよな」
「何だよ? それで女でも口説きに行くのかよ?」
何でも良いけど、私を挟んで喋んないでくれる? とあずきは思ったが、言葉は飲み込んで話を聞く。
「女じゃなくて、監督が絵に描きたいって言うんで探してんだよ」
「監督かぁ。じゃあ、仕様がねぇな。すずらんか……」
と守田は携帯を開いて何か検索をはじめた。
あずきはすずらんの白くて小さいベルのような花が下を向いて幾つも咲いているのを思い浮かべた。昔、まだ父も家にいた頃、友香と出かけた先で見かけた気がする。「なんか、山にあるイメージだね」
「そうですね。山で見たことあります」
と蓮華が話に入ってきた。
なんとなく蓮華の話の入り方に苛立ちを覚えたけれど、それは単純に謝罪や反省の色がないせいだろう、と思って我慢した。
「山かぁ」
勇次がぼんやりと言う。そして、守田が「あははっ」と携帯画面を見て笑った。
「え? なに、守田くん?」
「いや、うん。良いね! すずらん! せっかくだし四人で探しに行こう」
「えー」
と不満そうに声を上げたのは守田以外の三名全員だった。
「まぁまぁ。俺、今顔ガーゼだらけで店とか行きたくないし、せっかく四人揃ったんだから、ダブルデートっぽいことしよーぜ!」
守田の言うダブルデートっぽいこと、とはRPGの勇者パーティのように一列になって山へ向かうことだった。先頭は勇次で次があずき、その後に守田、蓮華と続く。コーヒーショップ・香のカウンターで並んだ順番そのままだった。
「いやいやっ、ダブルデートってこーいうことじゃねぇーからな!」
守田が叫んだが、勇次は一瞬可哀相なヤツを見る瞳で彼を見ただけで、さっさと前を向いてしまった。
「おいっ! 勇次! 手を繋げとは言わねぇから、田中さんの横を歩け! そして、喋れ! あーアレだ! この前のニホンオオカミについての話で良いから、しろ!」
「はぁ? ニホンの神様だぞ! 唐揚げ泥棒に、その話は勿体ねぇよ」
「唐揚げはアンタが隙を見せたのが悪いのよ! 喧嘩ばか!」
「んだと!」
「なによ!」
守田が深いため息をついた時、勇次の横を一台の黒塗りの車が止まった。勇次はポケットに手を突っ込んだまま、ちらっと車のフロントガラスを見るだけで無視して歩を進める。
通り過ぎた際にあずきも車内を確認すると、スーツを着た肩幅の大きな男が運転席に座っていた。助手席には人形みたいな少女が乗っていて、丁度ドアを開けて出てくるところだった。
「無視するんじゃないわよ! 中谷勇次!」
少女が言った。声や立ち姿を見ると同い年か、一つ下くらいに見えた。名指しされても勇次は視線を向けなかった。
「佐藤!」と少女が言うと、運転席に居た男が車から出てきて勇次の前に立ち塞がった。勇次は面倒くさそうに立ち止まって、佐藤と呼ばれたスーツの男を見上げた。佐藤の身長は百九十センチはあった。
「どけよ」
突き放した物言いだった。
「待ちなさいな。中谷勇次、今日はお土産があるのよ」
「知らねぇよ。何度、来ても変わんねぇよ」
少女は余裕の笑みで、勇次の前に冊子を差し出した。それは卒業アルバムだった。
「取引なのよ。ここに載っている女、誰でも指差しなさいな。好きなだけヤラせてあげるわ」
ひゅうっと口笛を吹いたのは守田だった。
「貴女、突然現れて、何言ってるのよ!」
ほとんど反射的にあずきが言って、少女に近づこうとしたが、勇次が手の甲で虫を払うようにして卒業アルバムを地面に落としたので、足が止まった。
「女をあてがっとけば、言うこと聞くと思っているオマエがムカつく」
「ふん。金でも、女でも駄目。何ならお前は私の言うことを聞くのかしら? 名誉かしら? 私のボディーガードになれば、何でも手に入るのよ?」
「俺が欲しいもの?」人を馬鹿にしたように勇次は笑う。「オマエ等みたいなのと関わらねぇ自由だよ。消えろ」
少女が鼻で笑う。
「誰にも負けない力を持っておきながら自由ですって? そんなものはね、お家の中のお遊びだけにしなさいな。ここは外よ、現実なの。自由なんてないわ。人を殴れば警察に捕まり、お金がなければ何も手に入らない。世界は不自由で出来てるのよ、チンピラ」
「知らねぇって。オマエの世界観を俺に押し付けてくんじゃねーよ」
「はいはーい、そこのちんちくりん美少女! 俺から質問して良いっすかー?」
守田がイタズラ小僧な笑みを浮かべながら、右手を上げた。少女は苛立たし気に守田を見たが、勇次もまた視線を彼に向けていた。
「なにかしら?」
「アホの勇次に何をさせよーとしてんの? コイツ、喧嘩以外に能なんてないですよー?」
「当然、喧嘩よ。人を支配する為に必要なのは優しい言葉と暴力でしょ?」
「あー了解。ちんちん美少女」
「ぶち殺すわよ!」
「え? 『ちんち』くり『ん』略して『ちんちん』美少女だよ。なに想像してんだよ? これだから、年頃の娘は気難しい」
「アンタ、最高に腹立たしいわね」
「まぁ、そー言うなよ。アホの勇次は諦めて、代わりに俺を飼わない? その卒アルに載っている女、端から全部ヤラせてくれるだけで良いから」
「佐藤」
冷たい声で少女が命令した。スーツ姿の男が守田に近づこうとして勇次が言う。
「おい。守田に指一本でも触れたらオマエ等、俺の敵だからな。オマエ等が俺に下らねぇことをぎゃあぎゃあ言っても五体満足で帰れてんのは、オマエ等が俺の敵になってねぇからだ。分かってんだろうな?」
少女が小さな舌打ちをして勇次を睨んだ。「中谷勇次、アンタは何の為に喧嘩してるのかしら?」
「ごちゃごちゃした理由なんてねぇよ。ただ俺は家畜にならねぇって決めてるだけだ」
家畜、と少女が呟いた後、踵を返して「佐藤、帰るわよ」と言って車の方へ歩いていく。あずきの横を通り過ぎるとき、少女は一瞬目を見開き、
た、な、か、あ、ず、き……
と声には出さず、口を動かした。
◯
黒塗りの車が去っていた後、残ったのは少女が落としていった卒業アルバムだけだった。最初に気付いたのはあずきだった。
「っていうか、この卒アル私の学校の私たちの代のじゃん!」
「マジで!」
あずきの絶叫に反応したのは守田だった。勇次が物珍しいものを見るようにあずきを見た。
なに見てんだ? このアホは。
とあずきは勇次を睨んだ。
守田が今日一番速い動きで卒業アルバムを地面から拾って勇次の横に行き「どこに居るかな、どこに居るかな」とページをぱらぱらめくりはじめた。
「おい、勇次。可愛い子いたら、ちゃんと指させよ!」
「好きなだけヤレるのか……」
勇次の呟きにあずきがキレる。
「おい、今なに言いやがった? そこの喧嘩ばか!」
性欲にまみれた男子二人から、同級生の写真が詰まった卒業アルバムを奪い返してから「これは私が預かるから!」とあずきは宣言した。
「えー」と守田が不服そうに言い、何故か勇次もちょっと残念そうな顔をしていた。
「分かった?」強めに言うと、守田が降参のポーズをして「はい」と頷いた。勇次にも言質をとっておきたかったが、彼はさっさと山の方へと足を動かしていた。少女が登場してから蓮華は一言も喋らなくなり守田の横を不機嫌そうに歩き、あずきに視線も向けない。
山を少し登った高台付近の通りに、すずらんはあった。見つけたのは守田だった。
「お、あれじゃね?」
と守田が指差した先へ勇次は近づいていき、手を伸ばした。あずきは慌ててそれを止めた。「ちょっと、アンタなに素手で触ろうとしてんのよ!」
「あん?」
動きを止めた勇次の横を通り過ぎて、あずきはすずらんの茎をライトブルーのハンカチ越しに触れて折った。そして、勇次に差し出した。
「すずらんには毒があるの。だから、むやみに素手で触っちゃダメなの」
勇次はあずきが差し出したハンカチ越しのすずらんを、どう受け取ればいいのか分からないように戸惑っていた。「良いから、ハンカチごと受け取りなさいよ」
「お、おう」
勇次がハンカチに触れ、ちょっとだけあずきの指先と彼の指先が重なった。あずきは手を離して「すずらんをあげる人にも言っておいてね。花に一番、毒性が強いから。花粉とか付着したものを口に入れると体調を崩すって。食卓に飾ったりしちゃだめだからね」と言った。
「分かった。サンキュー」
この男もお礼を言ったりするんだと意外な気持ちになった。
「良いよ」
と、あずきは笑った。勇次と触れ合った指先がじんっと少し熱くなっているのが分かった。




