守田裕 夏①
六月の終わり、試験週間に入った初日、守田はセイブツ部の部室で勇次が持ち込んだエロ本を読んで時間を潰していた。本来、試験週間の部活動は禁止されており、旧校舎の鍵も貸し出しはされない。しかし、守田は旧校舎の鍵を借りた際にスペアの鍵を作っていて自由に部室に入り込むことができた。
これで連れ込める女の子の一人や二人居たら最高なんだけどなぁとぼやきつつ、守田はエロ本のページをめくる。他人のエロ本を読むのは新しい扉が開く感じで新鮮だった。
というか、勇次。姉がいる癖に年上メインのエロ本ってどーなんだよ? 変態すぎんだろ。
そんなことを考えつつ、男根様の鎮魂祭をここでするか悩んでいると外の廊下に人の気配があった。当たり前だが、学校の鍵のスペアを無断で作ることは校則違反であり、処罰の対象となる。しかも、部室でエロ本を読んでいたなどと分かれば女子にドン引きされて、この先の学校生活は灰色まっしぐらなのは容易に想像ができた。
すぐさまエロ本を箱本の空に詰め込み、図鑑のタイトルが見えるよう本棚に並べた。それから臨戦態勢になっている男根様を沈めようと、禿げた校長先生がラジオ体操をしている姿を想像した。
切れよく俊敏に腕を振るジャージ姿の校長。飛び散る爽やかな汗。やり遂げたと言わんばかりの笑顔。
お前、マジやめろって……。
と言うように元気を失った男根様に片手で謝って聞き耳を立てる。足音はない。立ち去ったのだろうか。にしても旧校舎に何の用事があるのだろう。先生? 生徒? もしかすると、一発しけこもうとカップルが人気のない場所を探しているのかも知れない。
いや、なら見学するしかねぇだろ!
男根様も、だよな! と少し元気になる。物音を立てないように廊下と通じるドアに近づき、耳を押し付けて人がいないかを確認する。大丈夫そうだ。
音を立てないようにドアを開けて廊下を確認する。人の姿はない。ここは二階だ。カップルがいちゃつくなら、立ち入り禁止になっている屋上へ通じる階段か踊り場だろう。
廊下に出てドアを閉め施錠する。スクールバッグを肩にかけて素知らぬ顔で廊下を進む。階段を上がり、一応三階の廊下を確認するが誰もいない。やはり上だ。何とかと煙は高いところが好きってヤツだな。
上機嫌になる自分を自覚しつつ、足音は立てず慎重に四階の廊下を確認する。人影があった。が、女子生徒が一人いるだけだった。
ん? 男の方はトイレでバイアグラでも飲みに行ってんのか?
そう思いつつ、もう一度女子生徒を確認すると、誰かを待っているのではなく四階から景色を眺めているだけのようだった。旧校舎から見える景色なんて、幾つかの山だけのはず……
守田は女子生徒の横顔に見覚えがあった。三年の山崎千秋先輩だ。眠る少女のドラム担当で確か実家がクリーニング屋を営んでいるはずだった。ぱっと見華奢で、髪はそれほど長くないが前髪を作っているので、守田は彼女の眉毛を見たことがなかった。球技大会の際には必ず千秋先輩の試合を見に行き、髪が乱れて眉が露わになる瞬間を目撃せねばと守田は密かに決めていた。
というか、え? あの千秋先輩が人のいない学校で一発しけこむ? マジでか? その男は何だ? 石油王の息子か何かか? いや、石油王でも許さんっ!
守田は廊下に出て、千秋先輩に自然な感じで近づいた。
「あれ、山崎先輩? やっぱり、山崎千秋先輩じゃないですか?」
少々わざとらしい声掛けだった気もするが、噛まずに言えた。千秋先輩は守田の方を見て、首を傾げた。
「ごめん。君誰だっけ?」
ですよねー。と笑いつつ「一年生の守田裕と言います。田中あずき、深水葵と同じクラスで、眠る少女のCDも浩って友達から借りて聞きました。すごく良かったので、次のライブには必ず行こうと思います」
守田の言葉に千秋先輩は微笑みで応えてくれた。
「なるほど。あずきちゃんと葵ちゃんの友達なら、うちの友達だね。よろしく」
言って、千秋先輩が手を差し出してきた。
「こちらこそ」手を握ると、柔らかな感触の中に硬いものが含まれているのに気付いた。ドラムを叩いているのだから、まめが出来るのは当たり前なのに守田は小さな驚きを感じた。
「先輩の手は頑張り屋の手って感じですね」
ん? という顔を千秋先輩は浮かべた後に納得したように手を離した。「ごめんね。下手だから、変なところにまめができちゃうんだよ。不快だったね」
「そんなことないです。女の子のまめ、最高です」
「……なに言ってるの?」
「あ、いえ」
しまった、初対面の女子に下ネタを話すなんて鬼のようにスベる展開しか待ってねぇ。「その、まめができるくらい頑張っていて、それが先輩にとっては当たり前なんだと思うんですけど。なんか、そういう当たり前があるってことが凄いなって思っちゃって」
千秋先輩は守田をしばらく見つめてから、自分の手のひらに視線を移した。
「当たり前、か……」と呟いた後、手を閉じた。「うちのバンドは、あずきちゃんも葵ちゃんも上手いからね。それについて行くのは大変なんだよ。でも、そうだね。頑張り屋って言われたのは初めてかも。ありがとう、守田くん」
下ネタを誤魔化すための言葉で感謝されてしまった。いつもの守田なら更なる笑いに持っていき身をよじるようにして、この手の言葉を回避するのだが、今回は素直に受け入れることにした。
「それって千秋先輩が凄いってことですよ。だって頑張るのが当たり前って周囲に思われている訳ですから」
当たり前という言葉に守田もまた特別感じる部分があった。自営業の家に生まれ、下に妹のいる守田にとって店の手伝いをするのも、妹の相手をするのも当たり前だった。
それは千秋先輩も同様なのだろう。たった一度だが、守田は千秋先輩の家がやっているクリーニング屋の前を通ったことがあった。その時、千秋先輩は当然だと言う顔でカウンターに座って、客の相手をしていた。
当たり前の風景の中にちゃんと溶け込んでいる。そこには目には見えない、けれど確かな頑張りがあるのを守田は知っている。
「なに、守田くん。口説いてるの?」
からかう口調で千秋先輩が言った。
うん、やっぱりこの人は良い。ここで真面目に受け止められていたら、えげつない下ネタでも言って挽回しなければ、今日の夜は布団の中でのたうち回る羽目になっていた。
「いやぁ~。バレました? 先輩、美人だから」
「あはは。美人って言うのも初めて言われたなぁ」
「そりゃあ、いけませんな。周りにいる男どもの見る目が無さすぎますよ」
「いやいや、うちよりもっと美人で可愛い子はいっぱいいるからね。守田くんこそ、女の子には困らない生活してそうだね」
「毎日、困ってますよ」
「声をかけられ過ぎて?」
「そーいうこと、言ってみたいですね」
「あっはっは」
守田も千秋先輩に倣ってひとしきり笑った後に「それで、先輩はここで何やってたんですか?」と言った。
「んー。山を見てたんだよ。あの奥に見える山」
と千秋先輩が指差した。
その山を見ても守田の中に浮かぶものはなかった。精々、シップーさんが助手席に乗せてくれて走った峠のコースがあるなぁと考えた程度だった。
「何があるんですか?」
「昔、友達と夜に家を抜け出して遊びに行っていた山なんだよ」
「へぇ。遊びのスポットがあるんですか?」
「そーいう訳じゃないんだけど、当時のうちらはその山を走る走り屋の集団が好きで、時々遠くから眺めたり、車のエンジン音を聞いたりしてたの」
「女の子だけで夜の山とか、危なくないですか?」
「今考えたらすごく危なかったんだけど。当時は感覚が麻痺してたね。夜、親に黙って外に出るスリルとか、昼間の道路じゃ絶対見られないようなスピードで走る車とか。そういうものに凄く興奮してたんだよ」
「あー、何か分かります。俺も似た経験をした覚えがあります」
「でしょ? 多分、誰もが通る道なんだよ。でね、最初は見ることがメインだったんだけど、途中から聞く方がメインになってね」
「聞くって、何をですか?」
「車のエンジン音というか、走行音を」
「え、アレってうるさいだけじゃないですか?」
「それがね」と千秋先輩は少し得意げな表情を浮かべる。「綺麗に走る車の走行音は、そんなにうるさくないんだよ。むしろ、山の中で音が反響すると、ずっとその中にいたいような心地良さがあるんだ」
「へぇ」世の中には妙な趣味の女の子がいるものだ。「じゃあ好きな車の音って、あるんですか?」
「MR2の音が一番好きだったなぁ。でも、多分あれは運転手の力量あっての音なんだと思うんだけど」
ん? MR2? と守田が疑問に思うが、千秋先輩は更に続ける。「眠る少女ってバンドをやろうって思ったのは、友達がきっかけなんだけど。うちがドラムを叩く時に意識する音は、あのMR2の音なんだ。だから、時々こうやって山を眺めて、あの頃の音を思い出すようにしてるんだよ」
「先輩、そのMR2の色って覚えてます?」
「え? 確か、赤だけど?」
それって、シップーさんじゃね? いや、でも真っ赤なMR2に乗っている人が他にもいるのかも知れないし。
「どーしたの?」
「いえ、何となく心当たりがある気がしたんです」
「本当?」
と、言う千秋先輩は無防備で、なんだかすごく可愛かった。「先輩にとって、そのMR2の人って、どーいう立ち位置の人なんですか?」
これで好きな人とか憧れとか言われたら、意地でもシップーさんには紹介しない。優子さんが居るんだから、彼らの恋路を邪魔する訳にはいかない。というか、優子さんと付き合っていて(本人は認めないけど)、更に千秋先輩にまで好意を寄せられるなんて贅沢だ。
「んー」と千秋先輩は腕を組んで悩んだ後に「尊敬したい人、かな」と言った。
うーん。……ぎりぎりセーフ!
「ちょっと、その人に確認してみますね。で、あれだったら、眠る少女のライブとかに連れて行きますよ」
「おー、それは緊張するヤツだね」
言って千秋先輩は笑った。
◯
守田にとって千秋先輩との出会いは完璧だった。
二人っきりの廊下。遠くに見える山々。部活が行われていない、しんっと静まり返った校舎。夕暮れ近くだが、決して暗くなく明るすぎない時間帯……。
もし、青春という言葉を嵌め込むなら、この時だろうと守田は感じていた。
だから、千秋先輩の携帯の着信音が鳴り響いた時、守田の中に起きたのは小さな甘い痛みだった。千秋先輩は携帯の画面を確認して、スカートのポケットにそれを戻すと、
「じゃあ、うちはそろそろ帰るね」と言った。
「あ、はい」
今、千秋先輩の携帯を鳴らしたのは彼氏ですか? と守田は聞けなかった。「すみません。こんな時間まで付き合ってもらっちゃって」
「ううん。守田くんと話すの凄く楽しかったよ。ライブ来てくれるんだよね?」
「はい! 連れの身元保証人で警察に呼ばれても無視して行きますっ!」
「いや、そこは警察署に行ってあげようよ」
言って笑う千秋先輩から守田は思わず目を逸らした。
これが千秋先輩でなければ、俺もそろそろ帰ろうと思ってたんで途中まで一緒して良いですか? くらいは言うのに今は言えない。もし仮に、一緒に歩いている最中に千秋先輩の彼氏と出くわしてみろ? 勇次どころかシップーさんさえ巻き込んだ飲み会を開催してしまう。吐くまで呑むし、吐いても飲む。
「じゃあね、守田くん」
手をひらひらと振って千秋先輩は守田に背を向けた。「あ」思わず声が出た。
「ん?」
良かったら連絡先を交換しませんか?
普段であれば、こんにちはと同じくらい簡単に言えるはずが、今この瞬間に限っては何よりも重い言葉として守田の口を閉ざした。「えーと、その、俺も今日は楽しかったです。また、会えますか?」
見当違いなことを口にして死にたくなった。
「え? ライブで会えるでしょ?」
「いや、その、そうなんですけど。何て言うか……」
言いよどむと、千秋先輩は守田に向き直って言葉を待ってくれた。良い人だ。でも、真っ直ぐ見られると守田は余計に焦って頭の中が混乱した。
そんな守田を見かねてか千秋先輩がニッコリと笑った。「夏休みの間、スタジオを借りて練習するからさ。良かったら、守田くんも来なよ。いつでも歓迎するから」
「あ、はい! 絶対、行きます」
意味もなく大きな声になった。千秋先輩は軽く頷くと今度こそ背を向けて去っていった。




