宮内浩 夏⑪
電話を切ると大森先生が大声で笑った。
「宮内くんすげぇーな! あんなに捻じれた回路をよくぞまぁ単純な結論に持って行ったもんだなぁ。おいっ!」
「本来であれば、あんな厄介な言い回しは必要なかったんですよ」と言って、浩は体の力を抜いて助手席のシートにずるずると沈んでいく。
実際、ラクガキに対する考えは、その場のでっち上げでしかない。結論である菫の本質はずっと考えていたけれど。それも確かな言葉としてあった訳じゃない。
「確かに、ラクガキの話は俺、あんま聞いていなかったが、なんであんな回路を経由したんだ?」
「単純すぎると簡単に否定、肯定の二元論に陥っちゃうんですよ。そっちに行くと感情だけで選ばれちゃうから、どんなに利益を提示しても菫ちゃんは素直に頷いてくれる気がしなかったんです」
ほーん、と大森先生が頷く。浩は大森先生に携帯を差し出すと、彼の手にはまだカッターナイフが握られていることに気付いた。
「あの、そのカッターって……」
「ん? 葵にどんなお世話をしてもらって、何? どこを触るつもりかな?」
「えっと、冗談って言うかブラフですよ? 分かってましたよね?」
大森先生は携帯をポケットに仕舞ったが、カッターナイフは持ったまま口を開く。「最初は責任感からしぶしぶだけど、途中から熱心になっていくねぇ」
「いや、だから? 先生?」
「宮内くん。アレじゃないかな? AVの見すぎなんじゃないの? 童貞のくせに」
「童貞関係なくないですか?」
岩田屋町に到着するまでの間、浩は懇々と大森先生から葵に手を出したら許さないという話をされた。最初こそ否定や言い訳を繰り返していたが、途中からは「はい、分かります。すみません」しか言えない存在に浩は成り下がっていた。
浩の家の前まで到着した時、大森先生がそれまでのトーンよりも優しさのある声で言った。
「何にしても今日はありがとう。菫の本質は善なんだけど、深水家にいることで歪んでしまった部分もある。だから、宮内くんの提案は菫を良い方に導くと思うんだよ。上手くいくかどうか分からないけれど、チャンスを与えてくれた。本当にありがとう」
「僕の方こそ今日、菫と話す機会を作ってくれて、ありがとうございます。でも」
と浩は言った。「まずは、梶原富也です」
大森先生が小さなため息を漏らした。
「宮内くんがそこまで首を突っ込む必要はないよ」
「何かの拍子に葵がさらわれるって分かっている状態で無視はできません」
「そりゃあ、そーか。話すんじゃなかったなぁ」
浩が菫に左腕を折られた時、どうして深水ピアノ教室の近くに車を停めていたのか、それは葵を見張っていたからだろう。大森先生は見えない所で葵を守ろうとしていた。
「それに僕は中谷くんとも交流がありますしね。大森先生が得られない情報もそこにはあるかも知れません」
大森先生が観念したようにな吐息を漏らした。「その通りだな、了解。菫のコンクールが終わるまでの間、多分、夏休み中だな、には梶原富也と話をつけよう」
「そうですね」
言って、車を出ようとして呼び止められた。「あ、宮内くん。最後に」
「はい?」
「音楽プレイヤー、拾ってくれてありがとう。でも、拾ったのなら、ちゃんと届けてくれよ。俺ずっと探してたんだぜ?」
「それは、ホント。すみませんでした」
「まぁ返ってきたから良いけどさ」
音楽プレイヤーがなくとも浩は葵と仲良くなっただろうし、深水家の話も聞いただろう。けれど、あの音楽プレイヤーがなければ、少し音の遠いピアノ曲を聴いていなければ浩はこの場にはいなかった。
そんな気がした。
◯
一学期の終業式を控えた朝の教室で浩は守田に声をかけた。
「ん? なんだ? 夏の予定か?」
「いや、そうじゃないんだけど」
「そーなのか? とりあえず、明日暇か?」
明日、と浩は考えた。
葵がさらわれるかも知れないことを本人に伝える訳にはいかなかった。ただ防犯グッズの類は買って渡していたし、眠る少女の練習には浩も付き添う約束はしていた。葵と一緒に居たいというのも当然あるけれど、バンドの練習はスタジオで行われるので、待ち伏せされやすいという判断も大きかった。
「ん? 用事があったか?」
と守田が言い、浩は首を横に振った。
「いや、明日は練習なかったはずだから、大丈夫だよ」
「練習?」
「いろいろあって、眠る少女の練習を見学させてもらう約束をしたんだよ」
守田が面白くなさそうに鼻を鳴らした。「はいはい、可愛い彼女の送り迎えな。夜道の一人歩きは危険だもんな」
「いや、だから彼女じゃないんだけど」
「あ、じゃあ、俺も今度、見学しに行っても良いか?」
「良いんじゃないかな? あまり騒がなければ」
「よっしゃ! じゃあ、後で予定空いてる日メールするわ」
「うん」と頷いてから、浩は言った。「で、本題なんだけど。梶原富也って人知ってる? 守田くんと同じ中学らしいんだけど」
「梶原、富也……」守田が考える間を取った後「あぁ」と納得したように声を出して、少し険しい表情になった。「浩、お前、梶原富也と何かあったの?」
「いや、無いんだけど。ちょっと、用事があって」
「そうか。うーん。ひとまず、便所行かね?」
「うん」
教室を出て廊下を二人並んで歩いた。トイレ近くになって守田が口を開いた。
「中学で同じクラスだった野球部の言葉を借りると、だ。『梶原富也は人間の皮を被った悪魔』だったな」
「悪魔?」
「勇次がまぁ、ぱっと見じゃ分からねぇけど、正義の味方だとすれば梶原は正義の敵だな」
「どういうこと?」
んー、と守田が唸りつつ、到着した便所に入り用を足し始めた。浩も横に並んだが、特に用を足したい訳ではなかった。
「梶原富也」と守田が感情の籠らない声で話を始めた。「俺らよりも二個上の先輩で、野球部だった。ポジションはピッチャーだったが、たいして上手くなかったな」
「うん」
「俺らが中学一年の夏に野球部の三年生が部室で煙草を吸っていることがバレて、停学と部活停止になったんだよ。で、まぁそれが後輩の誰かのチクリだって三年は思ったんだろうな。後輩をイジメ始めた。その時の首謀者が、梶原富也だ」
イジメの首謀者、か。
守田が便器から離れたので、浩もそれに倣った。
「梶原から最も被害を受けたのは井出彰って言う二年の先輩だった。井出先輩は体育館裏で排水パイプで手錠に繋がれてリンチを受けた。リンチした連中は停学になった三年生じゃなくて、梶原たちにイジメられて怯えた二年と一年の連中だった。梶原が悪魔って呼ばれる所以はそこにあるな」
守田はどこか突き放したような響きで言う。
「他人を使うこと。そして、梶原と関わった人間は他人に容赦がなくなる。リンチに参加した同級生に聞いた話だが、自分でものを考えられなくなるんだと。で、気づいたら井出彰をリンチにかけていた、らしい」
小さなため息を漏らして守田は続ける。「ムカつくよな。殆ど手を下していないから、梶原は少年院に送られはしたものの井出先輩の件では、それほどの罰は受けてねぇんだから」
「ん? 殆ど手を下していないのに、なんで少年院に送られたの?」
それに井出先輩の件では?
「あー何だっけ? 色々あったんだが、確か野球部員の飼い犬を殺したとか、部員から金を巻き上げていたとか、まぁあと色々口にも出したくねぇような類の悪事が井出先輩の一件からボロボロ出て来たんだと」
思わず顔をしかめてしまった。何だそれ?
「正直、関わらないで済むなら、その方が良い人間だぞ」
守田の言う通りだったが、菫がすでに関わってしまっている。それに葵のこともあって無視はできない。
あーあ。貧乏くじだ。
ちくしょうめ。
◯
守田の誘いによって夏休みの初日は昼からレンタルビデオ店のアダルトコーナー巡りをすることになった。中谷勇次も参加していて、浩は彼とまともに話す機会を得る。
「よぉ」と勇次は浩の顔を見るなり手をあげて「えーと、み、宮、宮本武蔵?」と言った。
天下無双はお前の方だ。
「宮内浩です」
「そーそー。浩な。今日はよろしく」
「よろしく」
今回の発端は勇次が兄貴からレンタルカードを借りたことだった。兄貴は十八歳を超えているので、そのレンタルカードであればアダルトビデオを借りられる。
それを知った守田が勇次に一人占めは許さねぇと詰め寄り今回のイベントが催されることになった。守田いわく『未来の嫁の体を探せ! 未開のAV発掘ツアー』らしい。
「いや、僕としては中谷くんにお兄さんがいることの方が聞きたいんだけど? お姉さんと二人暮らしって話じゃなかったっけ?」
三人で並んでレンタルビデオ店へ向かう間のことだった。
「あー、だから。アレだよ。未来の兄貴だよな」
「いや、実はまだ付き合っていないらしいんだよ。この前、姉貴に確認したら」
「はぁ? 嘘つけ。シップーさんだぞ? 表裏合わせた九十六手を網羅し極めてそーな、あの人が優子さんに手ぇ出してねぇだと」
「おい、守田ぁ。あんま生々しい言い方すんじゃねーよ」
そういえば、女の子のブラの外し方も熱く語ってましたよと思いつつ浩は頷いた。
「なるほど。シップーさんが中谷くんの兄貴なんだ」
「ん? 浩も兄貴のこと知ってんのか?」
「浩は昔、シップーさんに轢かれたことがあんだと」
と守田が先に答えた。
「へぇ。良く生きてたな」
「そんなにスピード出てる時じゃなかったから」
「なるほど」
高校一年の夏休み初日としては決して悪くない滑り出しだった。こういう日々が続けばいいと浩は本気で思った。
けれど、表面がどれほど平穏に見えても裏ではドロドロとした事象が進行しているはずだったし、それがいつ浩の前に露見するとも限らなかった。眠る少女の面々、菫ちゃん、ほたるさん、道子さん、花音さん、そして守田と勇次が無事に夏を過ごせることを浩は願っていた。
表面の平穏さが削れ、その奥のドロドロしたものが漂い始めたと知ったのは夏休みも半ばを過ぎた町角でのことだった。
ラクガキやシールの剥がし跡が目立つ電柱に真新しい張り紙があった。普段なら無視して過ぎ去るところを、一瞬の視覚情報のみで目が離せなくなった。
二度、三度読んでようやく内容を理解し更に発行人の名前『守田裕』の字面を確認した際、浩の口からこぼれたのは、
「マジか……」
という、どうしようもない声だけだった。




