宮内浩 夏⑩
「さて」と大森先生が仕切り直すように呟いた。「宮内くん自身、色々聞きたいことがあるだろうけど、まず俺から説明しても良いかな?」
「お願いします」
大森先生は浩の方を一切見ることなく話を始めた。
「まず、菫は三年前に一度自殺未遂を犯したんだよ」
三年前ということは浩らが中一の時で、葵が岩田屋町に引っ越してきた頃だ。
「まぁ自殺未遂の理由は予想がつくよな? で、回復の理由も分かるよな? んで、俺は教師だってこともあって、深水家に呼ばれて時々当時の菫の相手をしていたんだ。深水家の連中は揃って菫が自殺しようとした理由が分かっていなかった。ブラック会社かっつーくらい根性論と結果主義の家だからな、あそこ」
「地獄と言えば、あそこだって葵は言ってましたよ」
「本当、その通りだよ。でも、まぁ認知されていないとは言え俺の子供が居た環境だしな。興味と罪悪感もあって。俺は結構甲斐甲斐しく菫の所に通ったんだよ。んで、まぁそこで俺が葵の父親だって菫にバレた」
里菜さんとのやり取りを見たからか、分かると浩は内心で頷いた。
「バレちまった後、菫の色々面倒な無茶ぶりに付き合わされてな。そんなことをしている内にお役御免となったんだよ。多分、菫の中で葵との契約を執行する時、俺は邪魔だって判断したんだろーな。で、まぁ俺の代わりが、佐藤っつー宮内くんの骨を折った男だった訳だ」
「それがいつ頃ですか?」
「んーと。丁度、今年の三月頃だな」
「なるほど」
「で、今年は学校に真面目に通うっつー約束によって菫は週の半分を自由に外出する権利を得たんだよ」
「葵を不幸にするために?」
「そーそー。まぁ最初の方は単なるストーキング行為だったけど。多分、チャンスを窺ってたんだろうな」
肉食動物が獲物を観察するようなものか。
「んで、その最中に菫は、この町が少しトチ狂っていることに気付いた。いや、佐藤辺りに調べさせたんだろう」
狂ってる? 調べさせた?
大森先生は何でもないことのように続ける。
「まぁ普通に生活すんのには問題ない狂いなんだが、この町にはヤクザがいないんだ」
「ヤクザ?」
予想外な単語だった。
「一昨年にある組同士の大きな抗争があったらしくてな。その落としどころとして岩田屋町にヤクザは留まってはいけないっつー条件ができたんだと」
「どうして?」
「さぁ、理由までは俺も知らない。原因が岩田屋町の何かだって話しだが、詳しくは調べられなかった。ただ、その抗争は大きかったのは確からしくてな。戦場となった岩田屋町は熱狂冷め止まぬ状態っつーのかな? そんな状態の町にヤクザがいないんだから、半端なカスみたいな連中が集まるのは仕方なかったんだろうよ」
大森先生はそこで、一つ大きなため息をこぼして続ける。「去年はそーいう連中が個人で好き勝手にやっていて警察の方が大変だったらしいんだが……。どうも、そういう連中が今はまとまり始めてるんだと」
「どうして、ですか?」
「中谷勇次だよ」
「は?」突然の名前に浩は運転席の方を見ると、大森先生は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「アイツが半端なカスどもを片っ端から、しばき回していてだな……」
「え? 中谷くんって、そんな正義の味方みたいなことをしてたんですか?」
「驚きだよな。まぁ本人にその自覚はないだろうけど」
彼の顔を思い浮かべる。
自覚ないんだろーな。
「そんな訳で、中谷勇次に対して恨みを抱えた連中が町中に集まっている。実際、中谷は売られた喧嘩は全て買い、その全てに勝利し続けている訳で、名を上げたい連中からすれば恰好の的だわな」
確かに。
つまり、中谷勇次は気に食わない人間に喧嘩を売って買ってを続けた結果、岩田屋町の悪人たちから敵視されることとなった、と。まるで本当のヒーローだ。
「菫は町にはヤクザがおらず、中谷勇次に対して恨みを持った連中が連帯していることを知った。そして、その中の一人に未成年を使って幅を利かせているヤツがいることも知って、近づいた。梶原富也って奴なんだけど、知ってる?」
「かじわら、とみや? いや、聞いたことないです」
「あー、そう言えば、宮内くんは中谷とは違う中学校だっけ?」
「はい」
「じゃあ、知らなくて当然か。まぁ、その梶原富也に協力してもらって菫はウチの学校の一年の教室全てにラクガキを書いた。町から見れば、大した意味のないラクガキだったけど」
そりゃあ、そうだ。けれど、意味はあった。少なくとも菫の中には。
「で、だ。現状、菫は梶原富也のグループに属した立場にいる。少なくとも菫は梶原の頼みを聞かなければならないし、グループを抜け出すにも面倒なことになる地位だ」
「面倒なこと?」
「あー、濁した言い方はしねぇぞ。雲隠れしたら、大切な人間をさらうんだと」
「さらう……。菫の大切な人って」
「決まってんだろ」
確かに決まっていた。
そして、それは最悪な結末だった。
◯
深水家の前に車を停めると、大森先生は「先にちょっと様子見がてら挨拶してくるわ。宮内くんは車内で待っててもらって良いかな?」と言った。
「はい」
大森先生が車を下りた後、浩は深く息を吐いた。できれば深水家の敷地に入りたくなかった。道子さんや葵から聞いた話だけで深水家を完結させていたかった。
浩にとって深水家は見たことのない水死体に近い。実物を見たことがないからこそ、浩はどこまでも残酷で詳細な水死体を想像することができる。
そんな浩が本物の水死体を見た時の気持ちを思うと躊躇があった。想像を超えてこんなにもかと思うのか、想像を超えずこんなもんかとなるのか。
どちらにしても浩は水死体を想像の域で留めていた頃の自分には戻れない。深水家を肉眼で確認してしまったら、話でのみ知った深水家が乱れてしまうことは間違いなかった。
浩はそれが怖い。
車に大森先生が戻ってきて、運転席に座るなり短い悪態をついた。
「どうしたんですか?」
「菫には会わせられないってさ。あー、マジのブラック会社っぽくて嫌だわ」
「また、なんで?」
「ペナルティだよ」
「え?」
「週に何度かの自由な時間、それと小遣い。その分のペナルティとして夏のコンクールに出されるんだと。で、その練習ってことで現在、菫は軟禁状態。あの感じだとコンクールが終わるまで家の外には一歩も出せてもらえないんだろうな」
うわぁ、と浩は顔をしかめた。
「そういう所だってのは分かってたが、ちょっと楽観視してたな。すまん」
「良いですよ」
大森先生は車をUターンさせると、来た道を走り始めた。同じ道を走っているはずだが、進行方向が違うだけでまったく別の景色のように見えた。
しばらく浩も大森先生も喋らなかった。車内のスピーカーからは変わらずTHEイナズマ戦隊が流れていた。深水家からの帰り道で三回目の赤信号に捕まった時に、携帯の着信音が鳴った。浩のものではなかった。
大森先生はスーツのポケットから携帯を取り出し、ディスプレイを見ると携帯を耳に当てた。
「もしもし、俺だけど。電話してきて大丈夫なのか?」
言いながら、大森先生は浩の方を見て目で謝った。浩は手で、いえいえとやった。信号が青に変わり、しばらく大森先生は通話しながら運転していたが、コンビニが見えるとそこの駐車場に車を停めた。
大森先生の会話の断片を聞いていると、どうやら相手は菫らしかった。菫は大森先生が来たという話を聞いて、体調不良を理由に休憩を貰って電話してきたようだった。
「丁度、良かった」と大森先生が言った。「今、横に菫が腕を折った宮内浩くんが居るんだよ。話したいらしいから、代わるぞ」
僕がいつ話をしたいと言ったのだろう? と思ったけれど、差し出された携帯を受け取らない訳にはいかなかった。
「こんにちは」
『しけた挨拶をするんじゃないのよ。宮内浩』
「もっともポピュラーな挨拶だと思いますけどね」
『腕を折る程度じゃあ足りなかったようね』
「勘弁して下さいよ。おかげで不便な生活をしているんですから」
と浩が答えると、横にいる大森先生が「だよな。オナニーするのも一苦労だよな」と言ったが無視した。
『ふん。当然の報いなのよ』
良かった。ここで謝られたりした方が戸惑っていた。
「ちなみに菫ちゃん。コンクールに出ると聞きましたけど、日にちは決まっているんですか?」
『突然、ちゃん付けとはねぇ。次に会ったら、必ずお前の目を潰してやるわ』
「あぁ、それなんですけどね」と言って、浩は笑った。「菫ちゃんも御存知だと思うんですが、葵は優しいんですよ。だから、菫ちゃんのせいで僕が視力を失ったと分かったら、甲斐甲斐しくお世話してくれると思うんですよ。そー思いません?」
電話の向こうで小さな舌打ちをして菫は黙った。
浩は構わず続ける。「目を潰されて、葵がお世話してくれるようになったら僕は菫ちゃんが見たことがないような葵の体の場所に手を這わせますし、最終的にはそれじゃあ済まないような行為を数えきれないくらいやります」
「はぁ――?」隣で大森先生がキレるが、浩は無視する。
「優しい優しい葵が、自分のせいで生涯に渡る不幸を抱えた相手からの求めを断れますかね? 僕の予想では熱心に応えてくれると思うんですよね。最初は責任感からしぶしぶで、ぎこちなかったりするでしょうけど、むしろそれが良かったりするんじゃないかな。ねぇ? そー思いません?」
我ながらアホなことを言っているという自覚はあるが、それでも煽らずにはいられない。「菫ちゃん。今、君が想像しているよりも、更に凄いことを葵相手に僕はするよ。目を潰す? 上等ですよ。むしろ、望むところですよ。十代の持て余した性欲を舐めんなよ」
『ぶっ殺してやるわっ! お前は、必ず殺す。絶対に、許さない』
良かった。男の遠慮のない性的な視線に嫌悪感を抱いてくれる時期で。素人の下手な煽りにも簡単に乗ってきてくれる。
ただ横で大森先生が、カッターの刃を出したり引っ込めたりし始めたことが不安だった。弁明したいが、今を逃す訳にはいかないので視線を逸らして意識から外す。
「それはあくまで菫ちゃんが僕の目を潰した場合の話だよ。大丈夫、僕は葵と触れ合ったことはないし、更に言えば僕はまだ葵の下の名前を呼ぶ許可ももらっていない」
『でも、お前は、いつか葵とそういうことをするのよね?』
「僕かどうかは分からない。けど、普通に恋愛をすれば、その先にはそういう性の関わり合いがあるのは確かだよ」
その事実からは誰も逃れられない。男と女が世の中にいる以上は。そして、本当の意味でそういうものから逃れられるのは死者だけだ。「ねぇ、菫ちゃんが今それだけ怒っているのは、君にとって葵がとても大切な存在だってことだよね?」
『違うっ!』
即座の否定。しかし、言葉は続かなかった。
違わないよと浩は内心で呟いてから、口を開く。まずは、ここから始めないといけない。
「岩田屋高校の一年生の教室全てに葵と大森先生が不倫しているっていうラクガキを書かせたのは、菫ちゃんだよね?」
『……違う』
先ほどよりも弱々しい響きだった。
「ここで嘘をついても仕方がないと思うけど、まぁ良いや。僕は勝手に続けるよ。葵と大森先生が不倫をしている、なんて噂は何の根拠もないってことは簡単に分かる。意味のないラクガキと言えば、その通りだ。だいたい葵を不幸にするつもりだったら、もっとメジャーな科目の教師の方が良いはずだ。わざわざ美術教師を選ぶ理由は何だろう?
もっと言えば、名前だ。葵の字は平仮名だった。深水という名字は珍しいから、葵を知っている人はすぐに彼女の顔を思い浮かべるだろうけど、それでも下の名前が平仮名であるのに引っかかりは覚える。
普通の人なら、これで終わりの筈なんだ。けれど、お節介な葵を擁護しようとする人たちは徹底的に考えてしまう。その結果、平仮名で『あおい』と呼称されるバンド、眠る少女の存在に行きつく。
つまり、あのラクガキは眠る少女の葵に対する嫌がらせなんだと考える。でも、疑問は残る。眠る少女は結成して半年の駆け出しバンドだし、葵はボーカルでもギターでもなく、ベースだ。ライブも二回しかおこなっていないバンドの、裏方的なベースに対する嫌がらせを所属学校の一学年全部の教室の黒板に書く、ってのがどれだけ見当違いなものかは誰に聞くまでもなく自明なことだ。
けど、犯人はそれをした。疑問点は二点。どうして大森先生を選んだのかと、どうして眠る少女のあおいを連想させたのか。
答えは単純だ。あのラクガキは嫌がらせのように見せた、メッセージだったから。それも、とても個人的な。対象は当事者である葵と大森先生だろう。ひとまず、大森先生は脇に寄せて葵にのみにスポットを当てて考えよう。
葵に対するメッセージは何か。ラクガキを書いた、あるいは書かせた存在は眠る少女に葵が所属するのが気に食わない。だから、平仮名のあおいを使った。
この時点で葵がラクガキを見れば、それが菫ちゃんの仕業であるのは予想できたはずだ。いや、菫ちゃんだと断定はできなかったかも知れないけれど、深水家の誰かだろうとは考えられた。
次に大森先生の名前。ここでの疑問は何故、大森先生が巻き込まれているのか。例えばだけど『深水あおいはエンコーしている』と言ったラクガキであっても葵の批判は成り立つはずだった。なのに、あえての不倫で、大森鏡。
これは大森先生側への揺さぶりだったと考えると納得ができる。大森先生は深水ほたると婚約者がいる状態で関係を持ち、葵という娘が生まれたことを菫は知っていたのだから。
結論はここに行きつく。
あのラクガキは遠回しに葵と大森先生を意識させた上で、書いた人間を思わせるように仕向けられていた」
浩が口を閉じると、菫が電話の向こう側で鼻で笑うのが分かった。
『ペラペラペラっと機嫌よく喋ったわりに、結論はいまいちねぇ。二人を意識させてラクガキを書いた人間を思わせて、どうしたかったのかしらねぇ?』
唇を舐めてから浩は言う。
「そう、このいまいちな結論こそラクガキを書いた、書かせた人間の中途半端な本質が垣間見えるんだよ。さしたる覚悟もなく他人を不幸にも幸福にもできず、その場でグズグズしているだけ」
『あ?』
「まるで親に構って欲しくて、お気に入りの玩具を投げて気を引こうとした子供そのものだ。哀れすぎて抱きしめたくなるよ」
菫が悪態をついた。
「菫ちゃん自分の本心、分かっているんだろ?」
『本心だぁ? そんなもの最初から分かっているのよ』
「それは良かった」
本当に安心した。「じゃあ、君のコンクールが終わったら眠る少女のメンツを呼ぶから、パーティをしようぜ。男は僕だけじゃあ、あれだから大森先生も参加してもらうとして。うーん、守田くんを呼ぶのはやっぱ、あれかな……」
突然の話題に菫が『はぁ?』と漏らした。『おい、勘違い野郎。何、突然訳の分からないこと言っているのかしら?』
「訳分からない? 分かってんだろ? 菫ちゃん。君が抱えているのは疎外感だ。仲間に入れてもらいたいけど、気づいてもらえないから、どうすれば良いか分からなくなっている。それだけだよ」
『ふざけんじゃないわよっ! 私はね、葵が幸せになることが許せないのよ。勝手に家を出て行って……。見せつけるように合唱祭なんかに呼んで。薄ら寒いような笑顔を浮かべて、普通の人が送るような日々を過ごして。まるで、……まるで、あの頃のこと全部っ、無かったみたいにっ!』
ほとんど絶叫に近い叫びだった。『だから、私はあの子を不幸にするのよぉ。邪魔すんじゃないわよっ!』
分かっている。
浩は、菫の気持ちを理解していないと分かっている。
それでも。
冷静な声を出すように意識して、口を開いた。
「いや、だからってパーティに来ないのは変でしょ? 葵を不幸にしたいんだろ? なら、葵の傍に居た方が、彼女を不幸にする為の方法は探せるよ。わざわざ他人の手を借りる必要もなくなるし」
視界から外れた大森先生が愉快そうに口笛を吹くのが分かった。長い沈黙の後だった。
『……その通り。その通りね。分かったわ。考えてやるわよ、そのパーティに行くかどうか。どっちにしても私が葵を不幸にすることは変わらないけどね』




