深水葵 春②
あずきと友達になり上手く笑みを作れるようになって、母との生活にも慣れた葵の前に一つの壁が立ちはだかった。
物語が読めない。
正確には人と同じように読めない、だった。言葉にすればそれだけだった。
映画、ドラマ、漫画、そして小説。葵はあらゆる物語に対して何も感じられなかった。ただ、そこにある出来事を理解する作業として葵は物語と接した。
そのため、あずきと一緒に映画を見に行っても、同じタイミングで笑うことも泣くこともできなかった。感想を言い合っても、どこか上滑りで無難な物言いになってしまう。
そして、それは物語に限らず他人の話にも同様の作用をもたらした。葵は誰のどんな話を聞いても共感できなかったし、自分の感想や考えというものを口にできなかった。そもそも葵の中に自分があるのかも分からなかった。
「葵って夢中になるってことってないよね。それが良いとか悪いとかじゃないんだけど。なんとなく、いつもプールの飛び込み台の前で立ち止まっている気がする」
あずきにそう言われて、葵はその通りだと思った。
葵は夢中になることはない。ただ、集中はできる。楽器演奏や勉強に対して葵は何時間だって集中するが、それは夢中になるのとは少し違う。
夢中を辞書で調べると以下のような意味が出てきた。
――それに心を奪われ、ほかの事を考えない状態になること。
葵は心を奪われるという言葉が理解できなかった。
人前では常に冷静でいること。それが葵の基本的な生存戦略だった。感情に任せることは深水家ではマイナス。リスクしかない。ましてや心を奪われるなど有り得なかった。
それでも幼少の頃、感情をうまくコントロールできないことは当然あった。そういう時、葵は母が夜に小さな声で歌ってくれた子守唄を思い出した。母の子守唄は自作で種類も豊富だった。
岩田屋町に引っ越してきてからも、母は鼻歌混じりに子守唄を口ずさんだ。一度、その子守唄の詳細を尋ねた。
「あぁこの曲ね。昔、お母さんが大好きな人のために作った曲なの。今から思い出すと甘酸っぱいっていうか、恥ずかしいんだけど自分が作った曲だから特別でね」
大好きな人というのは父なのだろうけれど、葵は母から父の話を聞いたことはなかった。時折「お母さんの大好きな人」と濁した言い方をするだけだった。
葵はお父さんが生きているのか、亡くなっているのかさえ知らない。それは深水家の人間も同様だったらしい。
そのため、葵の中で父の存在は薄く自分とか関係のない人だった。だた母は父に感謝の気持ちを抱いていると言っていて、なら葵もそうしなければならないという気持ちはあった。
一度、あずきのお父さんが浮気して家を出て行ってしまったことがあった。その時、あずきは葵の家に家出してきてお父さんの話になった。
「会ったことないし写真でも見たことないから。よく分からない」と葵は言った。
「葵って、よく分からないってことに対して、深く考えたりしないよね」あずきが言った。確かに、と葵は内心で頷いた。あずきは、父が出て行って、姉との血の繋がりがなかったことを知って深く混乱していた。
そういう状態に葵が陥ったことはなかった。
しかし、それは何故だろう? とくに考えもなく葵は口を開いた。「多分。私はまだ眠ったままなんだと思う」
「眠ったまま?」
「眠っている時って感覚が曖昧だよね。そういう曖昧さの中で私は今まで生きているような気がするし、これからもそうなんだと思う」
「じゃあ、目を覚ませば葵は色んなことを深く考えたり、何かに夢中になったりするのかな?」
分からないと葵は言った。
そんな葵が中学三年の一月に、あずきから誘われて参加したバンド名が「眠る少女」だったのは、何か因果のようなものを感じないでもなかった。眠る少女の由来を創立者の山崎千秋先輩に尋ねた。
「昔、眠るのが好きな女の子と仲が良くてね」
嘘ではないだろうけれど、千秋が何かを誤魔化したのが葵には分かった。それを指摘するほど親しい時期でもなかったし、全てを知らなければバンドが組めない訳でもなかった。
結局は名前。名称でしかない。
重要なのは中身だった。
バンドは三名で結成となったが、明確な役割分担は成されていなかった。おぼろげにリーダーは千秋、ボーカルはあずき、というのが決まっているだけだった。まずは全員、曲を作ってきてみようと千秋が提案した。
曲を作る。創作……。
葵は物語が読めない。夢中になれない。他人に対する明確な距離を保ったままでいる葵に、何かを創作できるとは思えなかった。
途方に暮れた葵は駄菓子屋の道子さんを頼った。
「なるほどねぇ」
と道子さんは頷いた。「葵は自分が納得のできる良いものを作りたいんだね?」
「うん」
「良いものを作るんだったら、良い受け取り手でいるのが一番だよ」
と言って、道子さんは奥へ一度引っ込み原稿用紙の束を持って戻ってきた。「まずは面白いものを探してみることね。とりあえず、これオススメだから読んでみなさい」と笑った。
それは手書きの小説だった。字から見て男性のようだった。
家に帰って読み始めたが、最初はどういう風に読めば良いのか分からず戸惑った。それでも文字のリズムに合わせて字を追っていると、一編目が中途半端な状態で終わってしまった。最後の行の最後の文字の終わりには句読点さえなかった。
よく分からないと首を捻りながら、次の原稿用紙を読んだ。次もやはり途中で終わっていた。物語のセオリーとして正しくない形式だったが、葵は読むのを止めず文字の羅列に集中した。
次、更に次と読み進めていくうちに葵の中に浮かんだのはアリスが追いかけた服を着た白ウサギだった。手が届きそうで届かない。そういうもどかしさだった。
原稿用紙の小説を全て読んだ時、葵の世界はすっかりその姿を変えていた。まるで本当に不思議の国に迷い込んだようだった。
葵はその日からギターを演奏して溢れ返ってくるメロディを形にしていった。そうすることで不思議の国の出口を捜した。
行き止まりにぶつかり、理解できない生物と対面して……。でも、その全てが過去の自分が作り出した目を背けて無視してきていた物たちだと分かっていた。不思議の国は葵の中にあった。そして、その国へ行って戻ってくることが葵の創作だった。
モチーフは自然と完成されていない手書きの小説になった。メロディを作り歌詞を読みやすく加工していくことで、物語の結末は自然と決まった。
ただ、この小説を書いた作者が選ぶ結末ではないだろう。だから、葵は曲を作りながらずっと作者について考えていた。どんな人だろうか? 何を思って手書きの小説を書いたのか? 年は幾つだろうか?
道子さんに会う度に書いた人の質問をしたが、はぐらかされてばかりだった。母に相談すると、道子さんの家の片づけと掃除をすれば教えてくれるとのことだった。
休日に葵は道子さんのガラクタばかりの家の掃除を一斉におこなった。そんな葵の姿を見た道子さんは苦笑いだった。
「入れ知恵したのはほたるだね?」
「うん、お母さんが教えてくれた。でも掃除くらい道子さん全然できるでしょ?」
「できるからするっていうのは、少し違うんだよ」
「なんで?」
「思い出が溜り過ぎると手をつけるのが怖くなる、そういうこともあるんだよ」
そう言えば、この駄菓子屋は道子さんの旦那さんの実家だった。葵には想像もできない歴史が、このお店や奥の家にはあるかも知れない。
「まぁ、それは置いといて。葵、何が知りたいんだい?」
「道子さんが読ませてくれた小説を書いている人のことを」
やっぱりか、と道子さんは呆れ顔を浮かべてから口を開いた。「昔、夏祭りに行った時の話なんだけどね。金魚すくいをしたらしい小学生の男の子が三人が並んでいたんだよ」
突然始まった話に疑問を抱きつつ葵は「うん」と頷いた。
「その三人のうち二人がね、通りすがりにあったゴミ箱に金魚の入った透明のビニールを捨てたんだよ。空き缶を捨てるみたいにあっさりとね」
自然と眉が寄ってしまった。道子さんは変わらぬ声色で続ける。「すると、唯一捨てなかった男の子が二人に怒ったんだよ。でも、その捨てた二人はきょとんとしていてね。怒った男の子はゴミ箱から金魚のビニール袋を拾って。で、捨てた二人から背を向けて歩いて行ったんだよ」
道子さんの言うシーンを葵は容易く想像することができた。
「葵が読んだ小説を書いたのは、捨てられた金魚を拾った男の子、宮内浩だよ」




