宮内浩 夏⑦
「深水さんのこと葵って名前で呼んでも良いかな?」
という浩の問いに葵は「うん、良いよ」と答えた。「でも、その前に少し話をしない? 外で」と続けた。
「かまわないよ」
葵が、小さくありがとと言って浩に背を向けてリビングの方へ行き、一分くらいで戻ってきた。
「行こ」葵が先行する形で歩き、浩はそれに続いた。会話はなかった。五分もかからず、小さな公園にたどり着いた。一つしかないベンチに葵が座り、浩も横に並んだ。
「その左腕、菫のせいなんだよね?」
と葵が言った。
誤魔化しても仕方がなかった。
「そっか」と言って、しばらくの沈黙の後「宮内くんは多分、分かっていて私の名前を呼んで良いかって言ってくれたんだと思うけど。改めて言うね」
本当に分かっているのかどうか確信はなかった。ただ、宮内浩は宮内浩の心のことだけは分かっていた。
「菫の行動の責任は私にあるんだ」
それが口火となって、葵は菫が昔住んでいた家の年下の子供で幼少期に共に成長したこと、住んでいた家には問題があったこと、菫をその家に残して岩田屋町にやってきたこと、そして葵と菫が交わした契約について話した。「当時の私にとって菫は必要な存在だったし、それは今も変わっていない。かけがえのない存在なんだ」
それは、と少し言いよどんだ後に続けた。「宮内くんの左腕を折ったとしても」
葵は立ち上がって浩の前に立って深く頭を下げた。「私を不幸にして良いという契約を私は軽んじてた。菫が他人を容易く傷つけるとは思っていなかった。私には想像力が足りなかった。本当にごめんなさい」
想像力。それは浩にも足りないものだ。少なくとも守田やお兄さんと喋る前の浩は、浩自身で手一杯になっていて他のことに思い巡らせられなくなっていた。
「だから」と葵が顔を上げた。「私、ちゃんと菫と話そうと思うの。和解するって言うのとは少し違うかも知れないけど。ただ、ちゃんと私と菫が並んで宮内くんに謝ります。その時間を私に下さい」
「深水さんが、そう決めたのなら待つよ」
葵は浩の言葉を聞いて弱々しい笑みを浮かべた。「宮内くんは何か覚悟を決めたんだね」
浩は確かに決めた。しかし、それは覚悟ではなかった。ただ、お兄さんに言われた通り自分で考えただけだった。「僕は深水さんの隣に立ちたい。多分、それだけだよ」
「隣に立つ?」
「さっきの菫ちゃんの話。僕が今日、深水さんの家を訊ねなくても話してくれた?」
葵が一瞬視線を横にずらし、すぐに戻した。「言わなかったと思う。ううん、違う。全部、終わってから謝ったと思う」
浩もそう思う。しかし、全部終わって謝られた時、浩は葵と対等ではいられない。少なくとも加害者と被害者という上下の関係が出来上がっている。その距離は状況によっては縮まることなく浩らの間に鎮座するだろう。
「僕は被害者として葵の前に居たくないんだよ」
結局はそれが全てだった。骨を折られても、マイナスドライバーで脅されても。「深水さんと対等で居る努力がしたかった」
それに尽きた。
そこから始めるために浩は葵の前にいるのだ。
葵は俯いて太もも辺りで拳を作った。「……、対等でいるってことが、ごめん、私にはよく分からない。それは、どういう関係を言うの?」
無責任なことを言おうと思った。
「分からない。ただ、心地の良い関係を一緒に探していきたいって思ったんだよ」
「そっか……」と葵は呟いた後、グラスから水があふれるように静かに涙を流しはじめた。しばらくの間、葵は自分が泣いていると気付かなかった。浩が「深水さん? どうしたの?」と呼んで、ようやく葵は頬に手を当てた。
「ごめん、泣くつもりなんて、なくて、その、えっと、……ごめんっ、ごめんね」
言って、葵は俯いた。浩はベンチから立ち上がって、そうするのが正解なのか分からないままに彼女を自由にできる右腕だけで優しく抱きしめた。初めて菫が浩の右腕を折ったことを憎らしく思った。
「大丈夫だよ、深水さん」込み上げてくる気持ちをそのまま口にした。「全部、上手くいくから」
◯
公園からの帰り道を葵と手を繋いで歩いた。夜の道なのに来る時よりも周囲の光景がくっきりと見えた気がした。
玄関前で立ち止まった時、「ねぇ宮内くん」と葵が言った。
「なに?」
「いろんなことがちゃんと終わった後、私の名前を呼んでね」
浩は笑みを浮かべて、「分かった」と言った。
葵も笑って「ありがとう」と言った。
そうして浩と葵は別れた。
◯
散々な結果になることが分かっているテストの全ての日程を終えた放課後、宮内浩は駄菓子屋へ足を運んだ。出来れば葵の家に行った日の翌日にでも道子さんと話がしたかった。けれど、何となく浩はテストが終わるのを待っていた。
せっかく葵が勉強を教えてくれたのだから、それなりの結果を出すべきだと言う気持ちが心のどこかにあったのだろう。あるいは、少し葵や菫の問題に対して距離を置いて冷静に物事を考えたいという思いかも知れない。
何にしても、テスト中の浩の精神は不安定で守田やお兄さんと話した後の確かな考えというものから遠ざかり、漠然とした不安に身を沈めていた。
僕が葵にしてあげられることなんて彼女の味方でいる以外にあるのだろうか? そして、どうすれば全部上手くいく結果になるのだろう?
駄菓子屋に入ると婆ちゃんの他に店内を回っているお客の姿が見えた。
「やぁ浩」と婆ちゃんが言うので頭を下げて、お客の方を見ると向こうが手を振ってくれた。
「お久しぶり~」
深水ほたるだった。「何度か家に来てくれてたのよね?」
「はい。ほたるさんレッスン中だったから、一度も挨拶できなくて、すみません」
「あぁ、こちらこそ全然お構いも出来ずに。なんなら泊まって行ってくれても良いのに。もちろん葵の部屋に」
何言ってんの、この人。
「それで浩。随分、御無沙汰だったじゃないか」
婆ちゃんが陽気な声で言う。
「ごめん。テストだったから」
「分かっているよ。ちゃんと時間をかけて私の話を受けとめたんだろう?」
「ちゃんと出来たかは分からないけど」
「良いんだよ。じゃあ、次だね」
考えもなく感想が口をついた。
「ゲームみたいだ」
「パズルだよ。ピースとピースが嵌れば、次のピースを探す。そういうもんだろう?」
「そう、なの?」
「そうなんだよ」と婆ちゃんはしっかりと頷いてから「葵から菫の話は聞いたようだからね。次はほたるの話を聞かなきゃね」と言った。
浩は自然とほたるさんに目がいった。ほたるさんは楽しげに笑っていた。「娘の彼氏とデートって言うのも乙なものかしらね」
だから、何を言ってんの?




