宮内浩 春②
お兄さんの言う通りだった。
浩は姉を大切にするために何ができるのかを考えた。
姉が残していったものを管理することは、それほど難しくない。問題は記憶だった。今、浩は姉について様々なことを鮮明に記憶している。
しかし、十年後、あるいは二十年後も覚えていられるのかは自信がなかった。
形になるものを残しておきたい、それが一つの結論だった。
幼少の頃から姉は物語と音楽をこよなく愛していた。
遺品を探してみると、姉が書いた小説や詞の綴られたノートが見つかった。浩はそのノートをスクールバッグに入れて持ち運び、暇を見つけては開いて読んだ。
それから姉の本棚にあった本を片っ端から読んだ。
外を歩けばまだ夢の気配を感じることもあったが無視した。夢の気配を追うよりも姉が残していった本の文字を追う方が浩には大事に思えた。
梅雨が明けて晴れた日曜日の朝だった。
自分の部屋から見える住宅街の一角の景色が普段と違って見えた。それだけのことで浩は机に向かって物語を書いた。
頭の中にある景色を思い出し、感情を吐き出すように浩は手を動かした。
そして、ある時、物語は糸が切れるように途切れた。最後まで辿り着けなかった。
そういう気持ちが浩の中に芽生えた。
一日が経って自分の書いたものを読み返してみても、その続きを書こうという気持ちにはならなかった。
物語は中途半端にその断片を晒し、不完全なまま閉じられてしまった。
仕方なしに、また新しい物語を書こうとすると手は動くのだが、やはりある地点で文字は途切れ、空中で霧散していく。
最後まで物語を書くことで、何かとても大事なものに辿り着けるような気がした。けれど、手を伸ばせば伸ばすだけ、大事なものは先へと逃れてしまう。
指先にさえ、それは触れられない。
浩は相談相手を求めて駄菓子屋の婆ちゃんを訪ねた。
昔、姉が書いた小説や詩を読んでいた唯一の人だった。
婆ちゃんは浩の小説を読むと、くすくすと笑った。
「面白いわ~。でも、途中で終わるのね」
「最後まで書けないんだ。どうしたら良いかな?」
「そーね。まず、浩。あんた、何の為に物語を書こうと思っているの?」
「姉さんを忘れない為、かな?」
「ふーん。今回、書いたものは忘れない為のものになってる?」
「なってない」
「へぇ、他に書こうって思ったきっかけはないの?」
そう聞かれると他にもあった。
「多分、僕が物語を書くのは姉さんが死んだことをちゃんと納得する為というか、理解する為というか、なんか収まっていない姉さんのことを自分の中に馴染ませるために書いてるんだと思う。書いてたら馴染ませられるっていうか、納得? できるようになる気がするんだ」
浩の散漫とした話を聞いた婆ちゃんは、少し嬉しそうに「ふーん」と言った。
「あんたは、あんたの中にいるひかりちゃんの為に物語を書いているのね」
「うん」
姉は死んでしまった。現実にはいない。でも、浩の中にはちゃんと姉がいる。夢の気配を追って、浩はそれを遠回りにも理解できたような気がする。
「そう」と婆ちゃんは頷いた。「とりあえず、小説を書く第一条件は読者がいることね」
浩はできあがった小説を婆ちゃんに読ませると約束した。
「ちなみに書いた小説はどうするの?」
「別に、どーもしないかな。読み返しもしないかも」
「じゃあ、私が全部もらうから原稿は全部持ってきなさい」
そうして浩は小説を書いて途切れたら婆ちゃんの所へ持って行くという生活がはじまった。中学を卒業するまでの間で二十以上の作品を書いたが、最後まで書けたと思えたものは一つもなかった。
それは音楽プレイヤーを拾ってからの日々でも変わらなかった。
◯
岩田屋高校の入学式、宮内浩はポケットの中に音楽プレイヤーを忍ばせて出席した。
式の最中に噂話を聞いた。浩と同じクラスメイトの男子が三人の上級生と喧嘩をし自動販売機を破壊して、その場で停学になったらしい。
喧嘩の末にどうすれば自動販売機を壊せるのか浩には分からなかった。浩は入学式が終わると、その足で学校にある自動販売機を確認して回った。噂の自動販売機はすぐに見つかった。中庭にある赤い自動販売機で、浩以外にも噂を聞きつけたのだろう何人かの野次馬が倒れた自動販売機を眺めていた。地面には血と思われる赤黒くなった液体が数滴確認できた。
ひとまずクラスメイトにすごい喧嘩をする同級生がいることは分かった。浩は野次馬の誰かに声をかけることなく、学校を出た。
まだ見慣れない帰り道を進んでいると、前からずぶ濡れの男が歩いてくるのが分かった。
普段なら、注目することなく通り過ぎるが、浩は彼から目を離せなかった。白いシャツのボタンは全て外れ、殆ど上半身を晒した状態で、手には見覚えのあるスクールバッグと上着が抱えられていた。
彼は同じ学校の生徒だった。更に入試の時に同じ教室で見た顔でもあった。同級生で学校へ行く道を歩いている生徒。
それだけで入学式の前に上級生と喧嘩をしたクラスメイトだと想像がついた。何故、ずぶ濡れなのかはさっぱり想像できなかったけれど。
四月とは言え、今日もまだ寒い。にも関わらず彼は寒さに震えているような様子は一切なかった。
「ねぇ、岩田屋高校の生徒だよね?」
すれ違い様に声が出た。
「あ?」
彼が浩を睨んだ。浩は不思議と恐れることなく笑みを浮かべた。
「入試の時にさ、音楽プレイヤー落とさなかった?」
「はぁ? あーお前、岩田屋高校か。一年?」
「そう」
「じゃあ、同い年だな。よろしく。音楽プレイヤーは落としてねぇわ」
「そっか」
残念だとも思わず、浩は軽く続けた。「じゃあ、落とした友達とか居たら教えて」
「りょーかい」
言うと彼はさっさと歩いて行ってしまった。
中谷勇次。
それが入学式に上級生と喧嘩をし、全身濡れの状態で町を歩いていたクラスメイトの名前だった。彼は町では有名なチンピラで、以前は赤いスポーツカーを見つけては喧嘩を売っていた。そして、その運転手を片づけると車体にスプレーで「中谷勇次 参上」とラクガキをして回った。
赤いスポーツカーにどんな恨みがあるのか想像もできないけれど、流石にラクガキのくだりは面白おかしく脚色されているような気がする。ひとまず出鱈目な同級生であることは間違いなかった。
同じクラスの男子数名で中谷勇次の話をしていると、話を聞いていたクラスメイトの守田裕が「昨日のことは俺、詳しく知ってるぜ」と言った。
停学を告げられた中谷勇次は帰宅途中、新たな不良五名に絡まれて人目のない川辺に誘われた。五人に囲まれた際に一人の不良にバッグを奪われて川に放り込まれた。勇次は五人をバッグと同じように川へ投げ捨てて行き、バッグを回収して帰ったらしい。
やはり脚色が入っている気もしたが、守田は少しズレた銀縁眼鏡を指で直して以下のように話をまとめた。
「あいつの喧嘩はいつも話として面白くないんだよ。ハラハラドキドキって言う観客を楽しませるエンターテイメント性がない」
「守田くんは中谷くんと仲が良いの?」と浩は尋ねた。
「同じ中学で、よくつるんでいたんだよ」
「なるほど、中谷くんは中学でもよく喧嘩してたの?」
「喧嘩しかしてなかったな。高校入試をよくパスできたな、校長でも脅したのか? って思わず聞いちまうレベルだった」
「実際、脅してたのかよ?」と守田の隣にいた坊主頭の男子が言った。
「いや、逆で。アイツ、姉貴に脅されて死ぬ気で勉強したんだと」
「へぇ、中谷って姉がいんのか。美人?」
坊主頭が再度尋ねた。
「滅茶苦茶、美人!」守田裕の表情が今日一番の笑顔になる。「世話焼きで優しくて、お茶目という完璧なお姉さん! しかし!」
「しかし?」
「おっぱいが小さいんだよ」
うーむ、と浩以外の男子が腕を組んで悩みはじめた。浩は疑問符いっぱいで周囲の男子を見渡す。
なんでコイツら、世界が明日沈むみたいな顔してんの?
坊主頭が今日一番の真面目な顔で口を開く。
「うちのクラスで言うなら、田中さんだな」
「田中あずきちゃんは可愛いよな!」と守田裕は頷き「だが、やはりおっぱいは小さい。もう少し、ほんの少しあればっ!」と拳を握る。
「おっぱいで言えば、クラス内で言うと木村さんかな?」
「あと、深水葵ちゃんだな!」即座に守田裕は付け加える。
「深水さん? そーか?」
「あれは隠れ巨乳だよ。俺のおっぱいセンサーがそう言っている!」
自信満々に守田裕が言い周囲の男子がざわつく。「そうだったのか」「勉強不足だった」「隠れ巨乳! 素晴しい響き」「しかし、やはり俺は田中あずき派」と言っていて、浩は別の部族の村長会議にでも紛れ込んだ気分だった。非常に居心地が悪い。
「で、宮内くんは、誰派よ?」
誰? と聞かれても困るし、今名前が出たクラスメイトの顔でさえ浩ははっきりと思い浮かべられていない。
「田中さん、かな? すらっとしていて可愛いし」
返答としては無難だと思って口にしたが、彼らからすれば世界で一番大切なことのように頷いた。「なるほど、宮内は貧乳派と」「巨乳の良さの解らん、未熟者め」「可愛いことに異論はない」
ホント、コイツら何なの?
「いや、だが、お前らはまだ視野が狭い!」とおっぱいセンサーという局部にのみ反応する特技を披露した守田裕は集まった男子たちを叱る。「この校内でスタイル良しで美人と言えば今年赴任した辻本凛先生か生徒会長の中脇香住先輩だろーが!」
「うぉおおぉおお」
どこかの民族の儀式のような咆哮が教室の一角に轟いた。




