宮内浩 春③
教室では守田裕を中心とした下ネタトークをする連中と仲良くしつつ、家では音楽プレイヤーの「タイトルなし」の曲を聴きながら小説を書く日々を浩は送っていた。高校生活は順調と言って良かった。
ただ五月に近づくと浩の気持ちは沈んでいった。姉の命日である五月五日に浩はどうしても馴染むことができずにいた。去年も一昨年も当日は家から一歩も出られなかったし、小説を書くこともできなかった。意味もなく涙が溢れて瞼が腫れるため、翌日は目を真っ赤にして過ごした。
浩は依然として姉の死を受け入れられていない。ましてや、今年の誕生日を迎えることで浩は姉の年齢と並んでしまう。姉は常に浩の前を歩いている人だった。しかし、年齢という数字は生きている限りは加算されていく。そんな当たり前のことに浩は寂しさと虚しさを覚えずにはいられなかった。
そういう浩の性質を知っている駄菓子屋の婆ちゃんが一枚のライブチケットをくれた。五月四日に町のライブハウスで行われるイベントだった。
「あんた、去年のクリスマスにここのライブハウスのイベント行って楽しかったって言ってたじゃない?」
「え?」
すぐにはピンとこなかった。少し考えて、姉の同級生だった花音さんに連れられて行ったライブイベントだと思い出して浩は頷いた。「うん、あれは良かった! 凄く下手なおじさんが一生懸命に歌ってて恰好良かった」
クリスマスイベントで演奏したバンドは四つで、その中の一つだった。四十歳近い男性がボーカルで音程はズレていたし、歌っているというより叫んでいるに近かったけれど、心を打つ切実さみたいなものがあった。
何かを誰かに訴えようとする個人的な歌、浩はその訴えを受け取ることは出来なかった。けれど、何かを訴えようとするその姿勢だけは理解できた。
「五月四日にもまたイベントをするんだって、それに参加する知り合いがくれたのよ。でも私ゴールデンウィークは友達と温泉旅行へ行くから、私の代わりに見に行っといでよ」
「なんで僕?」
「むしろ浩じゃなきゃいけないのよ」
「ん?」
浩じゃないといけない?
「行けば分かるよ」
不敵に笑う婆ちゃんに浩は僅かながらの警戒心を抱いたが、チケットはしっかりと受け取った。生の音楽を聴くことは姉の影響もあって昔から大好きだった。
五月四日のライブの参加バンドは五つだった。婆ちゃんは結局、参加する知り合いについて一切の説明をしてくれなかった。男か女か、年上なのか年下なのか、どんな音楽をするのかさえ教えてくれなかった。婆ちゃんは不敵な笑みを崩すことなく「行けば分かる」の一点張りだった。
ライブが始まり、二つ目のバンド「眠る少女」の三人のメンバーがステージの上に姿を見せた時、浩は思わず叫びそうになった。機材と楽器の準備を終え、ボーカルの女の子がギターを抱えてマイクの前に立った。
「眠る少女です」
そう言うと、演奏が始まった。
聞き覚えのある声だったし、顔も名前も知っていた。まだ学校が始まって一ヶ月ほどだが、毎日浩は彼女と教室で顔を合わせていた。眠る少女のボーカルは守田たちが話題にしていた田中あずき。
更に、その横でベースを弾いている女の子は守田が隠れ巨乳と評した深水葵だった。少し後ろでドラムを叩いているショートカットの女の子は教室で見かけたことはなかったけれど、ぱっと見た印象では同級生か一つ二つ年上だった。
一曲目が終わった時、あずきは「この曲は1013って言います」と言った。眩暈を覚えて浩は目を瞑った。
不思議なことに浩は、あずきの言う「1013」という曲の歌詞に既視感があった。
「あたしたちの曲はオリジナルで作詞、作曲はベースのあおいが担当してくれてます」
あずきが言うと、隣に居た深水葵がベースを弾くことで、それに応えた。葵の演奏は素人目の浩からしても上手いことが分かった。
「それでは、次の曲です。聴いてください」
演奏が始まり歌が始まった時、浩はやはり歌詞に覚えがあった。なんだろう、この感覚と不思議に思いながら二曲目が終わった。「夜を来たミミ、でした。ちなみに『眠る少女』って言うバンド名の名づけたのは、ドラムのあき。あたしたちのリーダーです!」
あずきの声に応えるように、ドラムが音を奏でる。
そして、三曲目が始まり、四曲目の曲が最後だとあずきは言い演奏を始めた。
四曲とも全てに一つの共通点があった。
それは浩が中学時代に書いた小説のタイトルであり、歌詞の内容もまた小説の通りであることだった。
どうして田中あずきと深水葵が浩の書いた物語を演奏して歌っているのだろう?
疑問が「どうして」から「誰が?」に移った時、答えは一つだった。浩は駄菓子屋の婆ちゃんにしか小説を渡していない。婆ちゃんが浩の小説を誰かに読ませたのだ。
――むしろ浩じゃなきゃいけないのよ。
婆ちゃんの言葉が浮かぶ。その通りだ。浩でなければ眠る少女の曲を聴いて、これほど困惑することはなかった。誰が自分の小説のタイトルと内容に則した曲をクラスメイトの女の子が歌うと思うんだろう。
四曲目の「朝七時と月曜日のミホ」が終わりに差し掛かった時、浩は違うと思った。
そうじゃない、と。
演奏が終わり拍手が起こる中、浩は慎重に演奏し歌われた四曲を思い返していく。浩の小説のタイトルと内容が使われているけれど、田中あずきが歌った曲には明確な終わりが示されていた。
浩の小説のような中途半端なものではない、確かな終わり。
眠る少女と浩の小説の明確な違い。物語は小説は音楽は終わりという区切りがあって初めて評価される。
浩が辿り着けなかった場所に眠る少女は至っている。
その、どうしようもない事実に気付いた瞬間、浩は一人全力でライブハウスの出口へと走り出した。何人もの人間の肩にぶつかって、声をかけられたりもしたけれど、浩は全て無視した。出入り口の重い扉を押し開けて道路に出た瞬間、浩は叫んだ。
がむしゃらで、意味のない叫びだった。
そして、それが浩の書いてきた小説だった。
計画性がない。浩の感情の発露。それを眠る少女は確かな経路を辿った作品へと昇華していた。
浩の中にあるのは、今まで感じたことのない激しい羞恥と劣等感だった。波のように襲ってきて浩の中にあるほとんどのものが流されていった。そして、残ったのは深く浩に突き刺さった憧れだった。
自動販売機でペットボトルのコーラを買って、ガードレールに寄りかかってそれを飲んだ。浩が持っていないものを持った人が宮内浩の小説を読んで曲にしてくれた。
それはどんな幸運なことだろう。
更に言えば、眠る少女の作る曲は浩の好みのバンドだった。それはクラスメイトの女の子だからとか、浩の小説が元になっているからではなかった。眠る少女が浩と関係のない人で浩と関係のない曲を歌ったとしても、浩は今日とても良いものを聴いたと思うはずだった。
だから、と浩は思う。コーラを全て飲み干してしてからライブハウスの方へと歩を進める。物販に眠る少女のCDがあるなら、それはちゃんと買って帰ろうと決めた。
◯
五月五日は眠る少女のCDをリピート再生で流しながら過ごした。
両親は姉の墓へ行くのと諸々の用事があり夕方には戻ってくる、と言っていた。冷蔵庫にはラップで包んだ昼食が用意されていた。けれど、浩の胃の底には重い石のようなものが詰め込まれていて、昼を過ぎても食欲が沸かなかった。
キッチンでコーヒーを淹れていると家の電話が鳴った。十四時を少し過ぎていた。出ると花音さんだった。
『やぁ。浩』
「こんにちは」
『今から、そっちに行っても大丈夫?』
「もちろんです。お待ちしています」
電話が切れて浩は子機を戻した。コーヒーのカップを持って部屋に戻って眠る少女の音CDを聴いた。
十五分くらいしてインターフォンが鳴った。玄関を開けると花音さんで、柔らかな笑みを浮かべて「久しぶり」と言った。
「お久しぶりです」
花音さんはまっすぐ仏壇に行くと、手に持っていたケーキ屋の紙袋をそなえた。
「浩」
「はい?」
「おいで、一緒に手を合わせよ」
浩は少し迷ってから「はい」と頷いた。
手を合わせた浩の頭の中にあったのは空白だった。姉について何も考えられない。そう実感することが怖くて浩はまだ姉の墓参りに行っていない。
「よし」花音さんが言った。「浩、ケーキ食べよ」
「はい。コーヒー淹れます」
「よろしく」
花音さんは姉の親友で、三年前の姉が亡くなったハイキングに同行したのも彼女だった。
姉の事故があった後も花音さんは家を訪ねてきてくれた。花音さんは来る度に後悔と謝罪の言葉を口にした。両親は毎回、誰のせいでもないよと答えた。姉は人助けのために動いて、亡くなってしまった。傍に花音さんがいて、大人を呼んでくれたから男の子は助かった。
姉の行為は花音さんのおかげで無駄にはならなかった。
この事実が両親にとって小さな誇りと慰めとなっていた。けれど、浩はどうしても姉を誇ることはできずにいる。
立派でなくても良いから傍にいてほしかった。
そんな幼稚な感慨を抱えていることに罪悪感がないわけじゃないし、花音さんを責めても仕方がないことも分かっている。ただ、どうしようもなく浩の中に沸き立つ感情はある。
おそらく花音さんは浩の中にある感情をちゃんと理解してくれている。そのうえで、姉のように優しく浩に接してくれる。
浩、と花音さんが呼ぶたびに浮かぶのは甘く残酷な痛みだった。
浩が小説を書きはじめた大きな理由は姉だった。同時にそれよりは小さいけれど現実的な理由に、花音さんを姉の代わりにしないためもあった。
浩の抱える姉へのわだかまりを花音さんは一緒に抱えようとしてくれている。そして、浩はそんな花音さんに救われた。
花音さんがいなければ、今の浩はあり得ないと言っても良い。
ただ、そんな花音さんに甘え続けて良いとも思えなかった。
宮内浩は浩を救ってくれた花音さんと対等な人間でありたいし、彼女が傷ついた時に助けられる存在でもありたかった。
だから、浩は婆ちゃんに小説のことを相談する前に「小説を書いています」と花音さんに伝えた。「完成したら花音さんに一番に読んでほしいです」と。
花音さんは、魅力的な笑みを浮かべて「分かった、楽しみにしてる」と言ってくれた。
◯
「高校には慣れた?」
花音さんはショートケーキをフォークで掬い取ってから言った。浩は口に入れたモンブランをコーヒーで胃に流しこんでから、口を開いた。
「それなりに、です」と答えて「僕じゃないですけど、」と前置きをして、入学式早々に停学になった中谷勇次の話をした。
「へぇ、すごい同級生がいるんだね。その子はちゃんと卒業できるのか心配」
「ですね。でも、悪いヤツじゃない気はします」
自分で言っていてびっくりした。悪いヤツじゃない気がします? それではまるで中谷勇次を擁護しているみたいじゃないか?
「じゃあ、一緒に卒業できると良いね」
「はい」と浩は頷いた。「花音さんの方はどうですか? 大学は」
花音さんは今年から大学一年生だった。県内にある国立大学に実家から通っていた。
「ぼちぼちかな」
それから花音さんの大学生活の話を聞いた。ユニークな先生がいたこと、学食の便利さ、新聞サークルに入ったことを楽しそうに語った。
「何か面白いネタがあったら記事を書かせてくれるって言うからさ。浩、町で楽しいことがあったら教えてね?」
「分かりました」と頷いて浮かんだのは先日のライブのことだった。浩は駄菓子屋の婆ちゃんからチケットを貰ったこと、眠る少女というバンドのことを丁寧に喋った。
さんは少し拗ねたように「ふーん」と言った。
「どうしたんですか?」
「んー、私も読ませてもらっていない小説を、その人は読んだんだなぁと思って」
「花音さんに読んでもらうのは、完成したものが良いって言ったのは僕ですよ。それに僕の与り知らぬところで、読んでもらったみたいですし」
花音さんが少しぬるくなったはずのコーヒーを飲んで、ふっと笑った。
「そうなんだろうけど。でも、ちょっと悔しいかな」
「悔しい?」
「んーだって浩、私に小説を読ませたらもう書かないでしょ?」
少し考えてみた。けれど、その通りだった。
「そうですね」
「じゃあ、私が読める浩の小説は一作だけじゃない? でも、その人は未完成でもいっぱいの浩の小説を読んでるんだよ。道子さんもだけど、良いなぁって思って」
道子さんというのは駄菓子屋の婆ちゃんの名前だった。
「そうは言っても僕の小説は未完成の出来損ないですよ」
「出来損ないでも、その人は浩の小説を読んで曲に落とし込もうって思ったんだし。ちゃんとした魅力があったんだよ」
浩は少し考えてしまった。
もし花音さんの言う通り、浩の小説に魅力があるのだとしたら、それは間違いなく姉のおかげだった。浩が物語を書こうとする時、浮かぶのは姉に関わる世界の全てだったから。
「そういえばさ、去年のクリスマスにもライブ行ったじゃない?」
「行きましたね」
「あの時、浩が気に入っていたバンドあったよね? 上手くはないけど、何だか惹かれるって言ってたおじさん。なんだっけ、バンド名? 覚えてる?」
「えーと」携帯に残したメモを開く。「朝虹は晴のちに雨」
「そうそう、それ。そのおじさんが最近、駅前で路上ライブしてるよ」
「ホント?」
「うん、夕方か夜かは分からないけど、いっつも『THEイナズマ戦隊』の曲を歌ってるんだって」
「今度、行ってみます」
「うん」
それから花音さんが眠る少女のCDを聴いてみたいと言ったので、浩の部屋で二人一緒に過ごした。三年目だからか、花音さんが側に居てくれたからか、今年は姉を思い出して泣かずに済んだ。姉と同い年になった浩はこの先、姉を理由に泣くことはないのかも知れない。それは良いことのはずなのに、浩はそんな自分を少し嫌いになった。




