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空の名残  作者: 多木 葉
第3章 パルフ王宮

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9/9

第3章 パルフ王宮 1,2

第3章の1,2話です。

ナルハラ国攻略が無事終了し、王女輿入れと共に婚礼の儀が行われることになった。シャディンもセルドも出席をするが…。

第3章は、シャディンやセルドが王宮に行き、新たな出会いの幕開けとなります。新しい女性たちの登場にご期待下さい。

第3章 パルフ王宮


 1 

 ナルハラ国の王女が宮殿に輿入れした時、首都パルフの街は歓迎ムードだった。当然宮殿で行われた歓迎会はすごかったらしい。王女が気候や風習に慣れていないからという理由で、結婚までは少し時間を取って、コレティア国の風習や作法を学び、次子のオーレア王子との交流をする期間を設けることになっていた。だから一気に結婚式という状況ではなくなり、今、パルフは静かで落ち着いた状態となっている。

(物語で描いていた未来が想像と違ってきた)

 私は庭の低木の剪定をしながらぼんやり考える。自分が描いた話はナルハラ国攻略はゲリラ戦で勝って降伏させる流れだったのに、王女の政略結婚という話に変わってしまっていた。

 日差しが明るく草花を照らして辺りに平和な雰囲気が立ちこめる。夏の盛りを前に剪定しておかないと、樹木の枝が暴れて見栄えが悪くなる。小さな邸の小さな庭園だからこぎれいにしておきたい気持ちになっていた。

 今日、シャディン様は宮殿に参上していた。

今まで、特別に陛下から命令がないと、一切宮殿に行くことができなかった。ところが、今回のナルハラ国との外交の功績を認められ、シャディン様もセルド様も宮殿内に参上している。定期的に行われる国王と執政に携わる高位貴族との会議に参加を認められたのだ。能力を鑑みると当然の結果なのだけれど、平民出身である以上、家柄での身分差別があるこの世界ではお二人とも肩身の狭い思いをしながらの登朝だろう。

私はシャディン様が登朝すると聞いて、すぐにそのための高価な衣類を購入し、他の貴族に負けない格好をさせた。姉も気合いを入れてセルド様を飾り立てたらしい。

「そこまでしなくていい」

 シャディン様は困惑して私にそう言った。彼の綺麗な顔立ちに薄紫の髪と瞳、そしてそれを引き立てる礼服のデザインや色彩。そういうのを考えると、衣服を選んで着せる私が楽しくなってしまって、思わず飾り立ててしまう。まるで着せ替え人形のように楽しんでいる私に気づいたのか、新しい服が出てくるたびにシャディン様は眉を顰めるようになった。

 そして、昨日の夕食を食べている時だった。シャディン様が思い出したように私に言った。

「もう王女殿下も落ち着いたから、一か月後には王子殿下と王女殿下の婚儀が執り行われることに決まったそうだ。その日は婚礼の儀に出席して、夜の晩餐会にも出席するよう指示があった」

 そう話すシャディン様はあまり気が進まない様子だった。けれど、私はその話に目を輝かす。

(やっとあの姿を会議に参加する中年男性以外にも見せられるのね)

シャディン様の登朝の衣服で心が騒めいていた私はその話にすっかり色めき立った。婚礼の儀も晩餐会も貴族の子女が楽しみにしているパーティーみたいなものだ。ましてや晩餐会ともなれば、ある意味合コンみたいなものだ。

(そこで新たな恋愛模様が出てくるのよ)

 ふと物語の流れを思い出していた。平民とは言え、功績もあり容姿もいい二人なので、当然令嬢方がほっとくわけがないのだ。私は興奮してパーティーには彼に何を着せようかと想像する。

「それでは衣装などをジジと考えますわ」

 私は口元がほころぶのを止められずにうわずった声で返事をした。シャディン様は夕食を食べながら、いぶかし気に私をちらりと見た。

「そういえば、ナルハラ国の太子は勉学に励んでいるようだよ」

 シャディン様は話を変えてカカボ王子のことを言った。あれから、もう1か月が過ぎようとしていた。彼はそのまま太子の身分を保持されていた。きっとシャディン様は私があれこれ彼の世話を焼いていたから事後報告してあげようと思ったのだろう。

「勉学に励まれているということは、シャディン様の話が効いたのですね」

 私は素知らぬ振りをして尋ねてみた。あの別れ際のシャディン様の忠告めいた話がきっと王子の心に響いたのだ。

「今後、ナルハラ国とはいろいろあるだろう。そのためだ」

 シャディン様はそう言葉を濁した。セルド様の護衛といい、カカボ王子に恩を売り、シャディン様やセルド様がコレティア国の臣下である間は一切干渉しない暗黙の了解を取り付けたという意味なのだろう。私が予想するに、今後、覇王になりたいコリウス王の要求は激しくなるから、次から次に戦争が起こる。無理矢理従える外交ではなく、信頼関係というものを軸に据えた外交関係にしなければ、未来が危ういと考えているのだ。

(難しいかじ取りを強いられているんだわ)

 衣服で浮かれている私とは違って、お二人は毎日針の筵にいるような状態なのだと改めて思う。無駄に伸びた枝を切る瞬間に爽快さを感じながら、私は難しい顔をした。

 私の実家の元領地については、新しい工業が稼働して収入が安定し始めた。それは、お二人が得た利益を領地の整備や発展に還元してくれたからだった。その収入で、古い邸の設備やそして衣服に至るまですべて新しくしたのだ。庭の木を伐りながらきれいになった邸の外壁を見つめて、私は満足げに微笑む。

「お嬢」

 背後から明るい声がした。振り向くと私以上の満面の笑みを浮かべるジジがいた。

「おかえり」私は笑顔で返す。ジジは都の高級ショップが立ち並ぶところまで行っていたのだ。

「楽しかったわ。豪華な衣装に、私たちの制服」

 シャディン様の宮中晩餐会用の衣装と、私たち召使いの制服を首都でも指折りのデザイナーズブランドに買い付けに行ったのだ。今回、私たち使用人の衣服も一新しようということになり、こだわりのデザインで購入することになっていた。ジジは興奮した面持ちだった。

「どんなのにしたの? ジジにお任せにしたけれど」

「見れば分かりますわ」

言葉以外にジジの口からフフフという笑い声が聞こえてくる。ジジの身の回りの品々はおしゃれなものばかりで、きっとセンスがいいはずと思ったから、私は今回頼んでみた。彼女の顔からはその自信のほどが感じられる。

私は剪定鋏を地面に置いてスカートの裾のゴミを払うと満面の笑みでジジに向き直った。

「楽しみだわ。届いたらすぐ見たいわね」

「興奮して倒れないでくださいよ」

わざわざ庭にいる私のところまで来て報告しにきたのだ。ジジは成果を強調したいらしい。

「きっと、晩餐会でご主人様は女性を虜にしますわ」

「うわ、それは楽しみ」私は口元を隠して大げさに返事をした。

「私の後にローズ様がいらしてましたわ。きっと元帥邸でも、衣装を購入するはずです。お二人の共演なんて、晩餐会を見てみたい」

ジジは顔を上気して答えた。

「でも、お二人ともまだ貴族からは警戒されているかも」

私は少し不安を漏らした。保守的な彼らは美貌や才能だけで興味をそそられるだろうかと心配になる。

「あらあら、女は現金ですわ。金と地位があれば、出自など気にしませんよ。しかもあの美貌。問題ありません」

「そうねえ」私はため息をつきながらシャディン様が着飾った様子を思い浮かべた。確かにジジの言うことも一理ある。なにせ、晩餐会は合コンなのだ。しかも無礼講となれば、身分を気にせず声をかけられるだろう。

「まあ、高位貴族となれば多少気にするかも知れませんけれど、ほとんどの貴族令嬢は気にしませんね」

「うんうん」

「私が何でこんなことを言っていると思います?」

そう言って、突然ジジが真顔で私に近づいてきた。

「さあ」私は眉をひそめる。

「お嬢はシャディン様のことどう思っているんですの」

「えっ」私は目を丸くした。恋愛感情あるかって話をジジはしているのだ。

「いやいやいや」私は速攻否定した。そして大げさに手を振る。ジジは冷めた目線で急に遠ざかった。

「呆れた。そばであんなに見ていながらなんとも思ってないなんて」

「思わないでしょ、だってご主人様でしょ」

 私は目を丸くして完全否定する。本当に心から興味がない状態なのだ。

「あーあ」大げさなくらいにジジが返事をした。ひどくがっかりした様子だった。

「何なの。ジジの方がシャディン様に興味あるんじゃないの」

「男として?」ジジは甲高く声を上げた。

「ええ」

「全くないです」ジジは否定した。そしてにっこり笑う。

「だって、私ハゲてて太っている人が好きなんで」

「は?」私は予想外の展開に呆然とした。そして真面目に答えたのか気になってジジを見つめた。

「やあだ、お嬢、気づかなかったんですか」

彼女はくすくすと笑い出して、私に近づき、小声で耳打ちする。

「この前、地下室に来ていた宰相府の職員で、私好みの人いたんですよ、今、付き合ってて」

「え」私は頭の中がぐるぐるしてきた。

(ジジはいくつだっけ、こんな会話、20歳以上じゃないとしないよね)

 35才だった自分の感情でまだ十代のジジを判断しながら、私は耳を疑っていた。ジジは私より年下で17くらいのはずだ。あまりにも早熟ではないだろうか。しかも好みの相手はそんな外見だなんて想像を超えていた。

「あの、地下室で抑留されていた人のお世話をしながら、近づいて、とうとう……告白したんです」

 ジジはうれしそうに言い、ウブな私を見下しているように笑った。そういえば、太ってて頭髪が薄い人がいたような気がした。

(そりゃあ、そんな男性からすれば、ジジみたいな愛らしい、ちょっと勝気な少女から告白されたらイチコロじゃないかしら)

私は目を丸くしてジジをじっと見つめた。

「で、将来まで考えてるの」

「うふふ、内緒」ジジは明らかに私より恋愛を先んじている女という自分を自慢していた。

 私は複雑な顔をしたまま押し黙った。前の世界では男性とのお付き合い経験はあるが、サルビアとしては全くの恋愛経験ゼロのお堅い女だからジジからそういう態度をとられても仕方がなかった。

「素敵な出会いがあってうらやましいわ」

とりあえず、私は教科書のような問題のない返事をした。

「お嬢も、シャディン様を攻略してくださいね」

 ジジは意味深な言い方で言う。私は苦笑いをしただけだった。

(狙った男性を攻略なんてそう簡単にできるもんじゃないのに)

 サルビアの将来ははっきりしなかった。物語ではシャディン様やセルド様が中心で、恋愛となれば、物語の中ではどちらかというとセルド様が主だった。ましてやサルビアがどうなるというのはさっぱりだった。それに、私は実質シャディン様に恋愛感情がない。とりあえず、戦が少なければ、セルド様が死ななければ…シャディン様が病に冒されて死ぬことはないだろうということくらいしか今は考えてない。

「さ、邸に戻りましょ」

 私は話を切り上げた。もう剪定は終わった。お茶でも飲もうと片づけを始めた。


 元帥邸にナルハラ国の元将軍のソロが訪れたのは、セルドがナルハラ国から帰ってきてしばらく経った後だった。

 そのとき、ローズは宮殿に参上するセルドを見送り、邸の掃除をしていた。玄関に使用人が入ってきて客の訪れを告げたのだった。

「こちらはレビィン元帥邸ですが、どのようなご用件でしょう」

 玄関先に現れたのは筋肉質で真っ直ぐな瞳をした南国の男だった。ローズは初めて見る客に驚いて思わず上から下まで見た。

(怪しい人ではなさそうだけれど、どういった素性の方かしら)

 そんなことを思いながら当惑顔で応対する。

「私は、ナルハラ国で将軍をしていましたラウン・ソロと申します。元帥閣下とは王子殿下の帰国の際にお会いしており、その際に元帥閣下の弟子にしてほしいとお願いした者でございます。それでこのたび将軍の座を辞してここへ参った次第にございます」

「ナルハラ国の…」ローズは絶句した。たしかにかの国の民族らしい男性だった。服装といい、顔立ちといい、当然コレティア国では見かけないタイプであった。

「突然の訪問お許しください。元帥閣下にお会いしたく存じます」

 敬語を羅列し、あまりにもかしこまった様子に、久々に高位の客人を応対するローズはとまどった。

「隣国からここまでお越しいただき、大変恐縮ですわ。ですが、あいにく、ただいま、ご主人様は宮殿で執務をしておりまして、夕方までこちらには戻ってこられないのです」

 その言葉にソロは深々と下げていた頭を上げた。そしてローズを見て狼狽した。

「これは、ご夫人。こちらこそわざわざ私のために階下まで応対していただき、もったいないことでございます」

ソロはてっきりセルドの妻が客人の出迎えに出てきたと思っていた。

「あ、いいえ、私は夫人ではありません。執事です」

「執事!」叫ぶように言い直すと、ソロは目を丸くした。

(こんな目の覚めるような美人が元帥邸の執事)

 なんてうらましいと思う反面、あれだけの実力ならこういうこともあるだろうと変に納得していた。逆にローズは妻と勘違いされてソロ以上に動揺していた。それは恥ずかしいというより、願望を推し量られたようで顔が真っ赤になった。

「執事…でございます。こちらは使用人が少ないので、私が召し使いも兼ねて邸のことを管理しております」

 ローズは客人に作法のとおりお辞儀をしながら、心の動揺を落ち着かせた。

「これは、とんだ勘違いを…大変失礼しました」

 ソロはあわてて謝った。それと同時に胸が高鳴る自分がいた。

「本日はどちらかお宿を取っていらっしゃるのですか」

「いえ、それがまだ取っておりません。早く元帥閣下にお会いしたかったものですから」

「客間にお通ししますので、お待ちになりますか? 半日くらいお待ちいただくかもしれませんが」

「ああ、そんなお気を遣わず、外でお待ちしますから」

弟子にしてほしいと押し掛けてきた身である。相手の気遣いに甘えるのは礼を失するとソロは判断した。

「外と言われましても、このような小さな館ですから、ご不便をおかけするかもしれません」

 押しかけてきた客とはいえ、相手はナルハラ国の元将軍である。丁寧な対応をしなければとローズは外に出ようとする彼を引き止めた。

「ここまでお越しになる間、お疲れでしょう。小さい客間しかありませんが、そこで少し休憩を取ると思ってご利用ください」

ローズが畳みかぶせてソロを引き留めると、彼も少し躊躇しつつもローズに従って客間へと足を運んだ。

 元将軍の衣服はしっかりしたものとはいえ、長旅で多少汚れ、生地が傷んでいた。持ってきた荷物といえば、肩にかける大きな袋一つであり、腰につけた剣だけが煌びやかに光って見えるだけであった。

(身一つでセルド様に弟子入りしたいと望んでいるのね)

 彼の衣服を見つめながら、ローズは感心する。そしてそこまで慕われるセルドにもっと尊敬の念を強くした。

 長旅で疲れているだろうと思い、ローズは客人に軽食を準備した。そして配膳をしに客間に入ると、その姿を見たソロが弾かれたように顔を上げて見つめる。そしてどきまぎした様子で目をそらした。

「何もお食事されていないでしょう?簡単な料理を作りましたので、どうぞお召し上がりくださいませ」

 笑顔を見せてローズは元将軍の目の前のテーブルに皿を置く。そして水を入れたポットからグラスに水を注ぎ、ポットを脇に置いた。

「こちらでご自由にお過ごしください。主人が戻ってきましたら、お声をかけさせていただきます」

「ご面倒をおかけして申し訳ない。ありがとうございます」

 ぎこちない様子で頭を下げる彼を部屋に一人残し、ローズは客間を去った。

(これで弟子希望者は何人目だろう)

 セルドが元帥になってから、元帥府の一部の軍人、元帥を目撃してファンになった一般市民、そして今度は敵国の将軍、すべて突然邸に現れて弟子になることを懇願してきた。最初に弟子希望者が来た時はびっくりしたが、ここまでくると馴れてしまった。ただ、回を重ねるごとにローズの中でセルドに対する評価がますます上げるばかりだった。

 セルドが初めて元帥邸に現れた時、彼はひどく疲れ切った様子で、あまり邸に居着く様子もなく、倒れたシャディンの見舞いばかりしていた。それでも、男らしい爽やかな態度や引き締まった体格、時折見せる年齢に合わない落ち着いた対応にローズはすっかり心を奪われてしまっていた。

 濃い群青色の髪と瞳、顔立ちも男前、それに性格もいい。その上剣術にも長け、男性すらも惹かれるのだから、ローズが惹かれるのは当然だった。

 元帥邸にはローズ以外に元コルトー家の男性執事だったノシャックが召使いとなっている。ローズが美しいので、護衛の意味を込めて両親が元執事だったノシャックに召使いを頼んでいたのだ。

「お嬢様、そんなにおそばに行かなくていいのです。私が代わりにしますから」

 セルドに近づきたくて、何かにつけて世話を焼こうとするローズを心配してノシャックはそう注意したが、ローズは肩をすくめて大丈夫と答えてはぐらかした。

(執事兼召使いの特権ね。こんなに近くに居られるのは)

 ローズは自分の立場がうれしいと思うようになっていた。

 この日、セルドが帰ってきたのは予想どおり夕刻だった。

「セルド様、ナルハラ国の元将軍という方がお見えです」

 玄関でセルドを迎えながらローズはそう伝えた。するとセルドは少し驚いた様子で目を見開き、軽く頷くと着ていたマントを彼女に渡し、客間へ向かった。

「長らくお待たせしたようで申し訳ない」

 ドアを開けるなり、セルドは謝罪をした。ソロ元将軍は驚いて椅子から立ち上がると、恐縮しきった様子で頭を下げる。

「こちらこそ押しかけてきたようなものです。突然の来訪お許しください」

「あの時の話を本当に実行したのですね」

セルドは彼の謝罪を制すと笑いながら話題を変えた。

「はい。国王を説得しましてございます」

「無事に王子が王都に戻れてよかった。国王は将軍が出ていくのを反対しなかったのか」

「反対はありませんが、早く戻ってきてほしいとの要望がありました」

「将軍ほどの実力のある方が不在となれば、ナルハラ国も大層な人材喪失でしょう」

「とんでもない、それにもう将軍ではありません。私の名はラウン・ソロと申します。ソロとおよびいただいてかまいません」

「そうですか」彼を呼び捨てにするというのはもう、弟子扱いということだった。

「私はすっかり元帥の人柄、行動、そして技術の高さに惚れ込んだのです。今後は一人の弟子として扱っていただきたい」

「そこまで高く評価していただくような者ではありませんが」セルドは苦笑いして前置きした。

「そこまでおっしゃるのなら、遠慮無くそうお呼びしましょう」

「本当ですか」ぱっとソロの顔が明るくなった。そして床に膝をつくと最上礼のお辞儀をした。

「ああ、そこまでするのは止めていただきたい。顔を上げて、そして椅子に座ってください」

 そんな会話を廊下で聞きながらローズはセルドの夕食の支度をしに広間へ足を運んでいた。その日はソロも元帥邸に泊まり、セルドと一緒に夕食を取ったのだった。

 その後、数日間ソロは元帥邸に滞在することになった。というのも、元帥府において、彼の登用を考え、その許可を国王に申請していたからだった。ソロはもともとナルハラ国の将軍である。そのような人物が元帥府の一員になるのに、セルドだけの許可で決めれば、国王の不敬を買うと考えたからだった。コリウス王は申請後、そう時を待たずに許可を下ろした。

 ソロは元帥邸から出る最後の夜、客間の支度に訪れたローズを引き留めた。

「少しお話があるのですが」

「どうかなさいましたか」

 ローズはタオルを手に持ったまま、ソロの方に向き直った。

「元帥閣下に聞いたのです。あなたが元貴族の令嬢だったということを」

「あ…」突然何の話だろうとローズは返事ができずにとまどった。

「突然こんなことを言われて困惑されると思いますが、私は…今後、元帥の片腕として日々勤め、その後はもっと高いところを目指したいと考えております。それで、ずうずうしい申し出とは思いますが、あなたに婚約者になってほしいと願っているのです」

「えっ」ローズは手に持ったタオルを取り落としそうになった。それだけ動揺していた。

「本当に突然遠慮もなく、このようなことを申して悪いと思っています」

 相手は今は召使いでも、元は身分の高い女性である。ソロは誠実な対応をしたかった。だから段階を踏もうと考えたのだった。

「どうして、私なのでしょう」

ローズはつい数日前に会ったばかりの男に求婚されていることにとまどった。

「それは、お会いした時から、素敵な人だなと思ったのです」

 ローズにとって告白は慣れていたことだった。よく舞踏会、演奏会など貴族の催しやお呼ばれの会で、人の居ない場所に連れて行かれ、告白されていた。動揺するほどのことではなかった。だから上手に断ることも簡単なことだった。けれど、今回は違っていた。

「それは……ご主人様に許可を得たことなのでしょうか」

 ローズは言いにくそうに言葉を選んで尋ねた。

「ご主人様というのは、元帥閣下のことですか」

「はい」答えるローズの唇は震えた。セルドがソロに自分に告白してもいいと答えたのだろうかとどうしても気になったのだ。

「閣下にはお話ししました。すると、閣下は『それは令嬢が決めることだ』とおっしゃって、私にお任せになったのです」

「私」ローズは口元を手で覆って震えだした。セルドの気持ちが分からなかった。

(それは、私のことをどうとも思っていないってこと? それとも、単に私に決めさせようと思っただけってこと?)

 ローズはセルドの自分へ対する気持ちが知りたかった。

「どうされたのですか」

突然ローズが震えだしたので、逆にソロがとまどった。女性にこのような話をしたのは始めてだったので、ローズのこの態度が何を示しているのか分からなかった。

「ごめんなさい、私、ちょっと分からなくて」

「え」想像していなかった返答に今度はソロが当惑する番だった。

「失礼します」

ローズは真っ青な顔をして部屋を飛び出した。ソロは呆然としたまま彼女を見送るしかなかった。

(これは振られたということなのか?)

 初恋というのは実らないものだと同僚がよく話していたことをソロは思い出した。しかし、客間のドアすら閉め忘れて飛び出した彼女の態度が全く想像を超えていて、この結果をどう判断していいのか、彼もさっぱり分からなかった。


 2

 コレティア国のオーレア王子とナルハラ国のブンガ王女の結婚式は無事に滞りなく終了した。式典はとても豪勢で国内外の賓客を呼んで行われた。オーレア王子はコリウス国王の若い頃に似て、角張った顔にがっしりとした体格、反対にまだ幼さの残るブンガ王女は華奢でかわいらしさが残る少女だった。その対照的な新郎新婦に会場は注目し、ほとんどの話題をさらった。挙式の後、簡単に王宮の外周を周り、貴族ではない者がその祝福に訪れ、パレードのようなこともしていた。

 そして休憩時間をおいて夜の晩餐会であった。王宮の一番広くて豪勢な広間には、招待された貴族達が集まり、立食パーティーを開く。そして音楽と共に歓談やダンスなど、思い思いのことをして過ごすのだ。

 セルドもシャディンも初めての体験で疲労困憊していた。ただ、挨拶に来るのはナルハラ国の賓客のみで、コレティア国の貴族達からは白い目で見られていた。そのため、無理に人付き合いすることもなく、二人で、隅で雑談をすることができた。

「これからこんな場所に参加するようになるのか」

 セルドはまだ一回目というのにうんざりという顔をしていた。家の者が気合いを入れてこの日のための衣装を着付けてくれたのだが、気持ちが乗らずに、片手に持ったグラスの中の液体をぼんやりと眺めているだけである。

「貴族の社交場というのはこのようなものじゃないのか」

 小説で何度も読んだ場面と一緒だとシャディンは思っていた。時折、二人を見る令嬢達の眼差しに背中が寒くなるのを感じてよそを向く。

「今日は特別に大きなパーティーだから人が多いのかな」

 軍隊で訓練をする兵達は見慣れても、着飾った男女がお世辞ばかり話す会に集まっている状態というのは見慣れない。セルドは参加しなかったソロがうらやましく思えた。

(ソロはローズ嬢に断られたのか)

 セルドはアルコール度数が低いお酒を口に含んでぼんやり邂逅していた。ソロがまだ邸にいた頃に、彼は執事のローズ嬢に一目見た瞬間から恋に落ちてしまっていた。

「弟子にしてほしいとお屋敷を訪れたのに、目的とは違うことで心を乱してしまい、お恥ずかしい」

 誠実な彼は困惑しながらも正直にセルドに告白していた。そこまで彼女のことが好きなら応援してあげたいとセルドは彼の気持ちを尊重したのだが、結局浮かぬ顔をして邸を去り、一心不乱に体を鍛えている姿を見るにつけ、告白後の結果を何も聞いていないが、実際は悪い結果だったのだろうとセルドは気の毒に思っていた。

彼は、告白して成功していたら、きっと、晩餐会と同時並行で行われる下級貴族や召使い達が楽しむ無礼講に彼女を伴って参加して親交を深めたかったに違いない。本来、ナルハラ国の知人も沢山来ているだろう。せっかくの機会に彼も知り合いと食事でもしたかっただろうに、気持ちが乗らないのか、今日は元帥府の宿舎に閉じこもって出てこなかった。

「なんだか、浮いていて嫌な気分だな。ちょっとテラスにでも出るか」

 見知らぬ貴族や令嬢からじろじろと見られて不快感を覚えたのか、シャディンがセルドにそう言って誘う。

「そうだね、そうしよう」

 セルドはうれしそうに返事をすると、会場にあるテラスへと続く扉を開けて外に出た。夏の陽気が薄暗くなった空のせいで暑く感じさせず、気持ちのいい空気が流れていた。

 人の多さにうんざりしていた二人には、それが開放的に感じられて、ついつい大きく深呼吸してしまう。

「何か食べたか」

「いや、そんな気分にはなれない」

「きりのいいところで帰ろうか」

「それがいいね」

 テラスからは扉のガラス越しに晩餐会の会場が見える。貴族達は楽しげに踊ったりおしゃべりをしていた。中央では新郎新婦が沢山の挨拶を受けながら微笑んでいる。

(あんなきらびやかな世界とは平民達は無縁なのに)

 シャディンは、会場の料理や設えを不愉快な目つきでつい見つめてしまう。今ですらひどく豪華なのに、あの貪欲な国王はこれからまた欲を張って他国を攻めてもっと派手にやりたいと考えているのだろうと考えるとぞっとした。

(そういえば、ひどいことを言われたな)

ふと結婚式の会場で言われた言葉を思い出す。それは自分たちに近づいてきたアウストが言った言葉だった。

「ちょっといい結果が出たからって威張るんじゃないぞ」

 彼は子供のような発言を堂々と人前で吐き、相変わらず不遜な態度だった。そんな態度も許される王宮というものに、シャディンは嫌悪感しか抱けなかった。

「あまりここに長居していても、いいことはないだろうな」

「ふふ」セルドは笑った。自分よりシャディンの方がこういうのが苦手なのはよく分かっていた。セルドは寛容で人を拒まない性格だが、シャディンは好みがはっきりしていた。だからアジュガ学校でも、セルド以外で数人しか友人は作らなかった。もちろん、逆にセルドはほとんどの子と仲良くなっていた。しかし、そんな社交的なセルドですら、この貴族社会で楽しく過ごすなんてことは全く考えていない。シャディンと同じくできるだけ早く退場したいと思っていた。

「元平民だから、今後もこんな機会があっても他の貴族と話すことはないだろう」

「実際、そっちの方がありがたいね」

「それぞれの官署で味方がいれば十分仕事ができるってよく分かったからいいと思う」

「端から仲良くなろうという気なんてないさ」

「適度にうまくやらないと危険だから、嫌でもこういう会には出席しなきゃいけないな」

 二人で話をしているとだんだん貴族社会に批判的な話ばかりになってしまう。お互い宮殿内や職場では言えない話だ。シャディンもセルドも屈託のない笑いを交えながらこの退屈な宴会をやり過ごそうとしていた。すると、テラスの扉がからりと音を立てて開いた。二人は口を閉じて、入ってきた人物を見て驚く。

「あら、お邪魔だったかしら」

 優雅な笑みを見せて現れたのは、王妃のプルプレアだった。

 王子の婚姻の祝いの席なので、式典中は壇上の椅子に座り、優雅に会場を眺めていた。それなのに彼女はわざわざ二人を探して現れたようだった。

(一体何の用事だろう)

 シャディンもセルドも丁寧なお辞儀をして挨拶をしながらも、内心疑心暗鬼になる。彼女はアウストの叔母であり、あのメレル家の人である。国王コリウスの前王妃が亡くなった後、王に嫁いでいた。今回結婚したオーレア王子や太子のプリベット王子は前王妃の子である。彼女は国王とは20才以上歳の差があり、王との間に子は居なかった。宮中では王と王妃の不仲と不倫の話は有名で、それぞれ愛人を作っているのは公然の秘密になっていた。

 長く豊かな赤毛の髪を優雅にまとめ上げ、少し露出度の高いボルドー色のドレスを着ていた。それは新婦より目立っていて、挙式中でも一人視線を集めていた。シャディンもセルドも陛下の妃である彼女とは全く接したことはなく、今回初めて会ったのだった。

「この度のご結婚はまことに…」

 決められた台詞をシャディンが述べようとした矢先、彼女はそれを制するように言葉を発した。

「いいのよ、そんなご挨拶」

「はっ」二人は頭を下げた。彼女は機嫌を損ねると危険な人だという認識があった。だから従順な態度で言葉に従うそぶりを見せる。

「お二方のご活躍で今回の婚姻が締結されたのですわ、本当に我が国のために尽くしていただいたお二人には感謝しておりますの」

「もったいないお言葉、身に余る光栄です」

「私、儀礼的な挨拶は苦手なのです」まるでお決まりの台詞は話すなと言わんばかりの態度に、二人は頭を下げながら困惑した。

「それで、元帥殿」

「はい」突然指名されたセルドは顔を上げた。その顔は当惑していた。それを見た王妃はにっこり笑う。

「ちょっとお話がありますの、私について来ていただけます?」

「……かしこまりました」断る理由はなかった。セルドは何事だろうと不思議に思いながらも、テラスを出て行こうとする王妃の前に進み、扉を開けて彼女を促した。シャディンは何もすることができず、ただセルドに大丈夫かと言うように目線を送った。セルドは「大丈夫」というように強い眼差しを見せる。

(一体何のつもりだろう)

 一人テラスに残されたシャディンは考え込んだ。王妃が元帥に用事などあるのだろうか。しかも宴会の場で。考えれば考えるほど分からなかった。

 気になったシャディンはテラスから再び広間に戻った。そしてセルドを目だけで追う。王妃は広間を抜け、控え室へ通じる奥のドアからセルドを伴い、去って行く。

(別室に連れて行くつもりなのか)

 それは二人きりで秘密の話があるということを意味していた。

(まさか、まずい状況なのでは)

 シャディンは嫌な予感がして広間の真ん中で立ちすくんだ。


 セルドはプルプレア王妃と共に、彼女の控え室へと向かった。晩餐会が行われている広間から少し離れた個室であった。その室内に入ると、内にはソファや小さなテーブル。そして奥にはベッドがあった。そして窓には豪華な刺繍が施されたカーテンが引かれ、室内はほぼ暗く、棚やテーブル、そしてベッド脇の照明だけが室内をほのかに照らしているだけだった。

廊下に控えている護衛官が扉を閉めると室内にはセルドと王妃二人きりになった。セルドは嫌な予感がした。こういう状況は今まで想定したことがなかった。王妃と二人きりというのが何を意味しているのかはっきりと想像できず、困惑したものの、この場から逃げる手段も無く、ただ、この先に何が待っているのか必死に考えていた。

「元帥殿、突然お呼び立てして申し訳ありませんわ。ちょっとお待ちになってね」

 王妃は艶然と微笑むと侍女を呼んだ。すると王妃専属の侍女が飲み物を持ってくる。

「どうぞ」

 侍女はそう言って、ソファのテーブルに高級なグラスを2本置いた。その透明な器の中には濃い茶色の酒がなみなみと注がれていた。侍女が頭を下げて静かに部屋を去ると、王妃はそのグラスの1つを手に取り、セルドに渡す。

「これは特別なお酒なの。なかなか手に入らないのよ。このたびの活躍に是非元帥殿に飲んでほしくて」

「はい」セルドはそのグラスを手に取ると王妃に軽く会釈をして礼を言った。

「ちょっと席を外しますわ。元帥殿はそちらで飲んでお待ちくださいな」

 王妃はセルドにソファで休むよう告げると、長い裾のドレスをすっと引くように身を翻し、部屋の奥のドアから別室へと去って行った。

(一体なんなのだろう)

 部屋に一人残されたセルドはいぶかしんだ。活躍の礼というのならシャディンも当然受けるべきだし、なぜ自分だけが呼ばれたのだろうかと考える。

(それにこの部屋は何なのか。王妃と二人きりなど、おかしいじゃないか)

 セルドはグラスを持ったまま飲み物を口にせず、ただ今の状況の分析に集中した。ソファに座ることすらはばかれる気がして、どうしたものかと立ちすくんだままだった。

(今後の王宮の施策の相談でもあるだろうか、しかし、王妃はあのアウストの親族。もしかしたら私を罠にはめるつもりなのかもしれない)

 ふとそう思い、グラスの飲み物が危険なものかもしれないと凝視する。

(危険な状態なら、早く広間に戻ろう。王妃が戻ってきたら適当に理由を言えばいい)

 セルドは苦虫をかみつぶしたような顔をしたまま考え込んでいた。

「お待たせしたわ」

 別室へ通じるドアが開き、王妃が現れた。薄暗い部屋なので、セルドは最初、状況がすぐには飲み込めなかった。しかし、照明が当たるところまで王妃が歩いてきた時に息を飲んだ。

 王妃が身につけている衣は薄衣一枚で、光に透けて全身の素肌が見えたのだ。

「えっ」セルドはあまりにも驚愕して、手に持っていたグラスを落とした。頑丈なグラスは絨毯の厚みもあってか割れず、液体だけが床に飛び散る。

「あらあら」王妃は透けた布でできた袖をひらりと動かして口元を隠した。

 セルドの初心な少年のような態度に彼女はほくそ笑む。

(簡単そうじゃない)

 プルプレア王妃は内心勝ったと思った。相手は10才近く歳の離れた世間知らずの少年だ。豊満な女の裸体を見せれば当然動揺して、ただその魅力の虜となるだろうと予測した。

「話とは何ですか」

 王妃の姿態を見ていられずにセルドは顔を背け、無駄とも思える質問をした。そしてゆっくり後ろに後ずさる。

「ねえ、今度からセルドって呼ぶことにするわ」

歌を歌うかのように王妃は言った。

「何か上着を着ていただけませんか」

セルドは顔を背け、困惑したまま哀願するように言う。

「まあ。もう目的は分かっていて?」

 余裕の態度で王妃は彼に近づき、その濃紺の髪を軽くつかんだ。セルドは反射的にその手を振り払う。そして睨むように王妃の方を見る。

「貴女は、王の妃ではありませんか」

 王妃の顔を直視した瞳には嫌悪の情が現れていた。王妃は少し驚く。そういう目で見つめられたことはなかったのだ。一瞬ひるんだが、彼女には強い権力があった。

「拒否してごらんなさい。ここで悲鳴あげるから」

 その言葉にセルドははっとする。それは女の卑怯なやり口だった。実際、セルドは女一人簡単に気絶できる技は持っている。しかしそれは使えないということだ。たとえ逃げられても、後でどういう罪を負わされるか分からないのだ。

(どうやってこの場を切り抜ければいいか)

 思いも寄らない事態にセルドは必死に解決策を考えた。刺客や毒殺さまざまなことを想定して学んだが、まさか色仕掛けという行為までは予測していなかった。

「用がないのなら私は部屋から出ます」

「逃げても悲鳴あげるから」

「なぜ私なのです」

嫌悪から反発に変わったセルドの声音にプルプレア王妃は少しいらだった。

「面白そうだから」

「面白そう」オウム返しにセルドは言った。互いに広い部屋をうろうろしていた。セルドは後ずさりして逃げ、王妃は追っていた。

「あなた、珍しいでしょ。濃紺の髪、そしてその剣の実力。ナルハラ国の人が褒めていたわ。だから興味が湧いたの」

「私以外にたくさん男性がいるではありませんか」

他の男を当たってくれと言わんばかりのセルドの台詞だった。

「もちろん、他にも沢山いるわ」

手をつけてない若者はいないとばかりに、彼女は艶然と微笑みながら自慢げに言った。

「私は平民ですよ。やっと登朝できたばかりの。貴女には合わない」

いろいろと理由を言って興ざめさせようとセルドは卑下した。

「そんなの、関係ないわ」

男であればいいと彼女は断言した。

(これは逃れようがない)

 セルドは絶体絶命のような気持ちになった。こんなことは初めてだった。今まで喧嘩でも論戦でも追い詰められることなどなかったのに、この強欲な女に勝てるようには思えなかった。

 王妃と対峙しながら後ずさりする途中で、セルドはだんだんと追い詰められていった。そして足がソファの手すりに当たり、セルドはっとする。それ以上後ろに下がることはできなかった。その瞬間、目の前の王妃が勝ち誇った笑みを浮かべる。そして不意を打つようにセルドに思い切り体重をかけるように飛びついた。

「わっ」セルドは声を上げてソファに仰向けに倒れ込んだ。

(なんてことだ。勘弁してくれ)

 頭をソファの縁で軽く打ち、苦々しく目を開けると、そこには自分に覆い被さっている王妃がいた。そして自分の顔に顔を近づけてくる。

「セルド、いい体勢じゃない」

「ちょっと待ってください」

とっさにそう言って拒絶する。王妃は、べったりとその半裸の姿でセルドに抱きつくようにしていた。そして片手で再び彼の髪を触る。

「綺麗ね。こういう色、めったに見ないから。触ってみたかったの」

 そう言って左手でセルドの長い髪を宙に持ち上げてひらひらさせて楽しんでいる。あげくにはセルドの顔の横で濃紺の髪の海に顔を埋めたりしている。

(なんてことだ)

 セルドは絶望的な気持ちになった。彼女の顔を見たくなくて顔を背ける。

「たかが、体を重ねるだけのことじゃない」

「……」

「私の言うことを聞いておけばいいだけよ。いろいろ教えてあげるわ」

「……」

 セルドは一切返事をしなかった。ただただ気持ち悪かった。するといきなり王妃の手が伸び、顎をぐっとつままれる。

「ね、さっきのお酒飲んだ?」

 セルドの顔を無理矢理自分へ向けさせ、じっとその目を見つめていた。返事がないことが否定と気づくと、すっと空いている手を伸ばして、そばのテーブルの上に残ったグラスを取り上げる。そこにはまだ酒が残っていた。

「媚薬が入っているって気づいていたの? ふふ。飲ませてあげるから」

 彼女は覆い被さっているのをいいことにぐっと下半身に体重をかけてセルドの動きを封じると、自由になっている上半身を動かして、さっとグラスを口元に持ってくる。そして、その液体を口に含んだ。

 そんな状況に唖然としているセルドに気づくと彼女は勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべた。そして液体を含んだままの状態で急にセルドにキスをした。

「んんっ」唇を固く結んでセルドは拒絶した。そして耐えられずに、王妃の肩をつかんで押しやる。

「なにをするんですか、貴女は恥ずかしくないのですか」

 無理矢理上半身を起こされた彼女は自分の口の端から液体がこぼれるのを片手で拭いながら、呆れたようにセルドを見つめた。

「往生際の悪い男ね」

「貴女は、夫がいる身ではありませんか」

「あはっ」王妃は声を上げて笑い飛ばした。「あの男とは好きで結婚したわけじゃないわ。あれはあれで好きにやっているし、私は私で好きにやっているだけよ」

「好きにやっているなどと、私は断る」

「なに格好つけてるのよ」

プルプレア王妃はセルドが世間知らずの子供のようだと思った。

「お前の邸にコルトー家の女がいるでしょ。ローズっていう。あの女は王の好意をむげに断ったのよ。ベッドに連れて行かれ、そのまま従えばよかったのに、抵抗して。だから、身分剥奪されて、召使いになったってわけ。お前もそうなりたいの? 単に求められたら従えばいいのよ」

「貴女の言っている意味が私には理解できない」

セルドは彼女の言葉を突っぱねた。王族や貴族の私生活が乱れているということは知っているが、拒絶する他人まで強制的にそれに参加させられるのは納得いかなかった。

(そんなに肉体を楽しみたいのなら、望んでいる人と、勝手にやればいい)

 セルドは汚らわしいものでも見たかのように王妃を一瞥して顔を背けた。そしてソファから逃れようと力尽くで立ち上がろうとする。

「なにやってるの、逃がさないわよ」

 王妃は、動き出したセルドに抱きついた。

「止めるんです!」

「悲鳴あげるわよ」

 その声にセルドはひるむ。その隙を彼女は逃さなかった。強引に頬にキスすると再び体重をかけてソファに倒れ込む。

「まだ抵抗するつもり? ま、すぐその気になる男より、このくらいがそそられるわ」

 王妃はセルドの首に両腕を回してその耳元で呟いた。セルドの手は彼女の肩にあり、引き剥がそうとしている。

 プルプレア王妃は内心ワクワクしていた。確かにこの男は今までの男とは全く違っていた。ここまで抵抗するのは見たことがなかった。一度は断っても、強引に進めたら、皆許してくれたのだ。

 正直、この若い、汚れのない、そして身分が低い純粋な男は興味の対象外だった。多少遊びを知っていて、大人の話ができる高貴な男が好みだった。

 だが、今回の活躍を聞き、その姿を見て興味をそそられた。この神から祝福を受けたような男を女の色気で骨抜きにさせることが何よりも面白い優越感をもたらしてくれそうだった。人を何人も簡単に殺せる男、世間に疎く純粋な男、そして自分よりも若い男、その男が自分の身分に、体に屈服し、言うことを聞くというのは今まで感じたことのない快感をもたらしてくれそうで、彼女は心が躍った。

(ここまで抵抗して、そして最後には私の虜になったら、面白いわ)

 そう思うと腕に力が入る、ぎゅっと乳房を彼の体に密着させ、熱い息を首元にかける。肩にぐっと張り付いた彼の手から少しずつ力が抜けていくのが分かった。

(もう少しね)

 心まで奪うのは先になっても、今回は体さえ奪えば、後はついてくるに違いないと彼女は踏んでいた。

 コンコン

 突然扉がノックされた。プルプレア王妃は腕の力を緩める。一体今の音はなんなのだろうとその音の方に目を向けた。

「妃殿下」

 王の侍従の声だった。はっとして彼女は顔を上げる。

「どうしたの。後にして」

「妃殿下、申し訳ありません。王子と王子妃から挨拶を求められています」

「なんですって」

 王妃は当惑した。

(なんで今更?)

彼女はそういうことはすでに終わっていると思っていた。

「広間でお二方がお待ちです」

「……ちょっと待って、準備して行くわ」

 王妃はしかたなしに億劫な様子で立ち上がった。そしてソファで放心状態のセルドを見下ろすと未練たっぷりな顔で笑う。

「セルド、また、今度ね」

 そう言って身を翻すと、再び横の部屋に通じるドアへ駆け足で進んでいった。

 一人部屋に残されたセルドは、もう王妃が戻ってくることがないことが分かると、頭を抱えながら体を起こし、ゆっくり立ち上がった。見れば襟元が乱れ、一部口紅がついている。

「はあ」

 ため息しか出なかった。そして助かったと思った。

 彼女の押しつけがましい愛撫に困惑してどう逃げようか考えた末、彼女を油断させて、気絶させるしかないと決意していた。ベッドに誘導した後、そこでうまく気絶させ、寝かせておけば、さすがに嘘などついて自分に危害を加えることまでしないだろうと計算していた。しかし、その前に行為が止まったのだ。地獄のような時間が終わって、セルドはほっとしていた。

 そしてすぐに扉から外に出た。廊下に控えていた護衛官がセルドに気づき、ぎょっとしたような顔をしたが、すぐに平静を装っていた。見慣れた光景なのだろう。

 セルドは衣服の乱れを整えてから、広間に顔を出した、シャディンはいなかった。壇上近くに目をやると、侍女に連れられた王妃があわてた様子で新婚夫婦の側に向かっていた。それを一瞥すると、邸にすぐに帰るために足早に廊下を進み出口へと向かう。

「元帥邸の馬車を」

 宮殿の出口で守衛に指示すると、外に出た。宰相邸の馬車はなさそうだった。シャディンは先に帰ったのだ。きっと、あの王子達の王妃へのあいさつ依頼はシャディンが気を利かせて頼んだのだろう。

(しかし、まさか、こんなことになろうとは)

 相手が王妃だからといって油断はできないのだ。彼女のほぼ裸の姿を思い出し、セルドはぞっとした。どんな罠が潜んでいるかもしれないのだ。今後はますます行動には気をつけなければいけないと強く心に刻んだ。

 セルドは、馬車が来るとすぐに乗り込み、元帥邸に走らせた。早く帰ってすぐに体を洗いたかった。


次回は第3章の3,4話です。

次回、晩餐会が行われている間、宰相邸の庭にいたサルビアの元にシャディンが現れて…。

女性の心情を丁寧に描くことにこだわっているつもりです。サルビアやローズ以外にもこれから素敵な女性を描いていきたいと思っています。

楽しんで読んでいただければ幸いです。

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