第七話 白いマントの意味を、あなたはまだ知らない
翌朝、王国軍式典監理室に、白いマントが運び込まれた。
凱旋式でイレーネがまとっていたものだ。
金刺繍の縁。
肩に結ばれた赤いリボン。
真新しい布地。
広場の光を受ければ、きっと誰の目にも美しく映っただろう。
けれど、作業台の上に置かれたそれは、妙に頼りなく見えた。
「これが、問題のマントですか」
記録係のノーラが、表情を変えずに言った。
「はい」
エルマー卿が答える。
「本来の軍務通達では、縁の装飾は白糸のみ。肩飾りは白花。勝利色の赤や金の追加は禁止ではありませんが、凱旋式においては避けるべきと明記されています」
「禁止ではない、という言葉を利用されたわけですね」
「ええ」
エルマー卿は、苦い顔で頷いた。
「演出上の華やかさとして申請されました」
私は白いマントを見下ろした。
触れる気にはなれなかった。
以前の私なら、きっとこの布の重みを知っていた。
正しい折り目。
白花の位置。
遺族席へ向けて礼をする角度。
でも今、このマントは私のものではない。
私の肩から外されたものではなく、妹の肩から外されたものだった。
「慰霊式では使いません」
私は言った。
「白いマントは凱旋式の婚約者席に関わるものです。慰霊式で出せば、また英雄席の話に見えます」
「では、保管しますか」
ノーラが訊く。
「はい。ただし、このままではなく」
「飾りを外す?」
「赤いリボンと金刺繍は、外してください」
私は少しだけ考えた。
「ただし、廃棄ではなく記録物として残します。どの部分が、本来の意味を変えたのかを説明するために」
「教材にする、ということですね」
「はい」
その言い方は少し冷たいかもしれない。
けれど、必要だと思った。
失敗をただ恥としてしまい込むと、次の誰かがまた同じことをする。
何が間違いだったのか。
なぜ間違いだったのか。
残すべきものは、残さなければならない。
カシアン閣下は、壁際で黙ってそれを聞いていた。
今日は黒い軍礼服ではなく、通常の総司令官服を着ている。
相変わらず、飾り気は少ない。
けれど、この部屋ではその方がずっと自然に見えた。
「リディア」
閣下が口を開く。
「今日、グランヴィルとイレーネ・フォルスターが来る」
「はい」
「白いマントについて、説明を受けたいとの申し入れだ」
「業務上の確認として、ですね」
「そうだ」
「承知しております」
「私的な謝罪を始めた場合は」
「遮ります」
「よろしい」
短い確認。
短い返事。
それだけで、胸の内が整う。
ここでは、曖昧な同情に流されなくてよい。
何をする場なのかを、先に決めておける。
「無理をするな」
カシアン閣下が言った。
私は少しだけ目を瞬く。
「先ほど、私的な謝罪は遮れとおっしゃいました」
「それと、君が無理をするなという話は別だ」
「……そうですね」
「君は、別の話を一つにして背負う癖がある」
「また、はっきりおっしゃいますね」
「必要だからな」
私は少しだけ笑った。
この方の言葉は、ときどき不思議なくらい胸の奥へ届く。
甘くないのに。
むしろ硬いのに。
たぶん、私が欲しかったのは、優しく包む言葉ではなく、線を引いてくれる言葉だったのだろう。
アルバート様とイレーネが来たのは、昼前だった。
二人とも、昨日よりずっと控えめな装いをしていた。
アルバート様は濃紺の礼服。
戦功章はつけていない。
イレーネは淡い灰色のドレス。
髪飾りも小さなものだけだった。
昨日の華やかさが嘘のように消えている。
けれど、華やかさを消したからといって、理解が生まれるわけではない。
それは、これから確かめることだった。
「本日は、業務上の確認です」
ノーラが最初に告げた。
「私的な謝罪、婚約、家同士の協議に関する発言は記録対象外とし、必要に応じて退室を求めます」
イレーネがびくりと肩を揺らした。
アルバート様は、深く頷く。
「承知しています」
「では、白いマントの扱いについて確認します」
ノーラは淡々と進める。
私は作業台の前に立った。
白いマントは、まだ赤いリボンと金刺繍を外される前の状態で置かれている。
「イレーネ・フォルスター様」
私は妹の名を呼んだ。
職務上の呼び方で。
お姉様と呼ぶ相手への返事ではなく、監理官補として。
「はい」
「凱旋式において、このマントをまとった理由を説明してください」
「英雄の婚約者席に立つためです」
「それだけですか」
イレーネの視線が揺れた。
昨日の聴取室と同じだった。
けれど、今日は泣き出さなかった。
「……勝利した英雄を迎えるための、白いマントだと思っていました」
「白い理由は?」
「清らかに見えるから」
「軍務通達は読みましたか」
「……少し」
「どの部分を」
「婚約者席の服装について」
「意味の記載は?」
「難しくて」
イレーネは唇を噛んだ。
「全部は、読みませんでした」
部屋の中で、ノーラのペンが走る。
エルマー卿は何も言わない。
カシアン閣下も黙っている。
私は白いマントの縁へ視線を落とした。
「白いマントは、勝利した英雄を飾る布ではありません」
私は言った。
「戦場の埃を払って迎える布です」
「埃……」
「帰ってきた者が、戦場から王都へ戻る時、その肩に残っているものを、王都が受け止めるという意味があります」
イレーネは黙って聞いている。
アルバート様も、少し顔を伏せていた。
「そして、もう一つあります」
私は続けた。
「白は、帰ってきた者だけの色ではありません。帰らなかった者の家へ届ける白花と、同じ色です」
「白花」
「凱旋式の翌日、英雄家門と式典局は、遺族各家へ白花を届けます。白いマントは、それを忘れないための布でもあります」
私は赤いリボンへ視線を移す。
「勝利の赤を足せば、意味は変わります」
「でも」
イレーネが小さく言った。
「赤は、華やかで、民も喜ぶと思って」
「民が喜ぶことと、遺族が受け取れることは違います」
「……」
「凱旋式で白いマントをまとう者は、民に美しく見られるためだけに立つのではありません。最初に遺族席へ礼をし、負傷兵の列へ礼をし、最後に英雄の隣へ立つのです」
「最初に、遺族席へ」
「そうです」
私は頷いた。
「あなたは昨日、それをしませんでした」
イレーネの顔が白くなる。
責めるために言ったわけではない。
でも、事実は事実として置かなければならない。
「あなたは、民衆へ向けて微笑みました。花籠の子どもたちを前に置き、遺族席の視界を遮りました。白いマントを勝利の印として使いました」
「わたくしは……」
「悪意があったかどうかは、ここでは問いません」
私は静かに言った。
「ただ、意味を知らないまま役目に立てば、悪意がなくても誰かを傷つけます」
イレーネは何も返せなかった。
白い手袋を握る指が、かすかに震えている。
でも、昨日のように「お姉様が教えてくれなかった」とは言わなかった。
それだけは、少しだけ前進なのかもしれない。
「アルバート・グランヴィル様」
私は次に、元婚約者へ向き直った。
「はい」
「あなたは、白いマントの意味を知っていましたか」
「……知っていたつもりでした」
アルバート様は、苦しそうに答えた。
「だが、今聞いて、私は何も分かっていなかったのだと思います」
「軍務通達は、英雄本人にも渡されています」
「はい」
「読みましたか」
「読みました」
「では、なぜ止めなかったのですか」
アルバート様は、しばらく黙った。
部屋の空気が重くなる。
それでも、私は待った。
ここは待つべき沈黙だった。
「怖かったのだと思います」
彼はようやく言った。
「何がでしょう」
「帰らなかった者の名を聞くことが」
イレーネが少しだけ顔を上げる。
アルバート様は、彼女ではなく、作業台の上の白いマントを見ていた。
「私は、戦場で命じました。進めと。守れと。退くなと。その命令で、生きて帰った者もいる。帰らなかった者もいる」
「はい」
「凱旋式で、その名を一人ずつ聞けば、自分が命じたことから逃げられなくなる」
「だから、明るくしたかったのですか」
「……そうです」
彼は声を落とした。
「イレーネの明るさに、逃げたのだと思います」
それは、初めて聞く正直な言葉だった。
許すための言葉ではない。
けれど、記録すべき言葉ではあった。
「その正直さは、遺族への謝罪で使ってください」
私は言った。
「私へではなく」
「リディア」
「私へ言って楽にならないでください」
アルバート様の顔が歪む。
でも、彼は反論しなかった。
「はい」
「遺族の前で、あなたが何から逃げたのかを説明する必要はありません。言い訳に聞こえるからです」
「では、何を」
「名を省こうとした事実を認めてください」
私は答えた。
「そして、二度と省かないと誓ってください」
「それだけで」
「それだけでも、難しいはずです」
アルバート様は、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
今度の返事は、少しだけ違って聞こえた。
英雄らしい強さではない。
自分が弱かったことを、ようやく認めた人の声だった。
確認は続いた。
ノーラが、白いマントの本来の規定を読み上げる。
エルマー卿が、凱旋式における婚約者席の動きを説明する。
私は、遺族席へ向ける最初の礼と、負傷兵列への視線の位置を補足した。
カシアン閣下はほとんど口を出さなかった。
ただ、話が私的な方向へ流れそうになるたび、短く戻した。
「それは式典外の話だ」
「今は記録に関する確認だ」
「弁明ではなく、事実を述べろ」
そのたびに、場が戻る。
ありがたかった。
ひとりで線を引かなくてよい。
線を引く場そのものが、私を守ってくれている。
確認の終盤、イレーネが白いマントを見つめたまま言った。
「このマントは、もう使えないのですか」
「今回の状態では使えません」
私は答えた。
「赤いリボンと金刺繍は外します」
「では、元に戻せば」
「あなたがまとうことはありません」
イレーネの顔が、また少し白くなる。
「わたくしは、もう一度」
「王国軍主催式典における代表席、補佐席、連絡員席への登録は認められていません」
「……はい」
「それは処分です」
「はい」
妹は小さく頷いた。
昨日なら、ここで泣いたかもしれない。
今日も泣きそうではあった。
けれど、泣くことで場を変えようとはしなかった。
「お姉様」
それでも、彼女は最後にそう呼んだ。
ノーラのペンが止まりかける。
カシアン閣下の視線が少し動く。
私は手で制した。
この一言だけは、受けてもよいと思った。
「何かしら」
「どうして、お姉様は、そういう意味を全部見ていられるの」
「全部ではないわ」
「でも、わたくしには見えなかった」
「あなたは、見たいものを先に決めていたから」
イレーネの唇が震える。
「わたくしは、綺麗なものが好きでした」
「ええ」
「綺麗な場所に立てば、綺麗になれると思っていました」
「そう」
「でも、昨日の広場は、怖かった」
その声は、小さかった。
「皆がわたくしを見ているのに、誰もわたくしを見ていないようでした」
私は黙って妹を見た。
その感覚を、彼女が初めて知ったのだと分かった。
席を欲しがるということ。
人前に立つということ。
それは、見られることではない。
その場の意味を背負うことだ。
意味を背負えない者が立てば、人はその人ではなく、その人の足りなさを見る。
「イレーネ」
「はい」
「綺麗なものが好きなのは、悪いことではないわ」
妹が顔を上げる。
「でも、綺麗なものが何の上に置かれているのかを見ないと、いつかその上にいる人を踏む」
「……はい」
「昨日、あなたは踏みました」
彼女の目から、涙が落ちた。
けれど、声を上げて泣きはしなかった。
「はい」
その返事を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
妹を許したわけではない。
戻るつもりもない。
それでも、この子が初めて痛みを自分のものとして受け取ったのなら、そこから何か変わるかもしれないと思った。
その変化に、私は責任を持たない。
けれど、否定もしない。
「確認は以上です」
ノーラが告げた。
「白いマントは監理室にて記録物として保管します。赤いリボンと金刺繍については、取り外し後も別添資料として保存します」
イレーネは、白いマントを見た。
手を伸ばしかけて、止めた。
「触れても、よろしいでしょうか」
私はカシアン閣下を見る。
閣下は少しだけ頷いた。
「最後に一度だけなら」
イレーネは、そっと白い布へ指を置いた。
撫でるというより、確かめるような触れ方だった。
「重かったのですね」
彼女は言った。
「思っていたより」
私は何も言わなかった。
それは、彼女自身が覚えておくべき言葉だった。
アルバート様とイレーネが退室したあと、監理室はしばらく静かだった。
ノーラが記録をまとめる。
エルマー卿が、白いマントの保管手続きを書く。
テオは慰霊式の導線図を机へ広げ直していた。
誰も、余計な感想を言わない。
その静けさがありがたかった。
「リディア」
カシアン閣下が呼んだ。
私は作業台の横で顔を上げる。
「はい」
「よく戻した」
「何をでしょう」
「場を」
閣下は言った。
「妹君の最後の問いは、私的なものだった。だが、君は式典の意味から外さずに返した」
「私的な話になりかけました」
「なりかけたが、ならなかった」
「そうでしょうか」
「そうだ」
短い断言。
私は少しだけ息を吐いた。
自分では、少し危うかったと思っていた。
お姉様と呼ばれた瞬間、昔の自分が顔を出しそうになったからだ。
妹のために説明する姉。
妹が傷つかないよう、最後まで補う姉。
でも今日は、そこへ戻らなかった。
戻らずに済んだ。
「ありがとうございます」
「疲れたか」
「少し」
「休め」
「まだ、慰霊式の写し板が」
「ノーラが見ている」
「献花導線の修正が」
「テオが見ている」
「白いマントの保管記録が」
「エルマーが見ている」
私は言葉を止めた。
カシアン閣下は、いつものようにまっすぐ私を見る。
「全部を君が見なくていい」
「……はい」
「君は今、休む担当だ」
「それは正式な担当でしょうか」
「総司令官命令にしてもいい」
思わず笑ってしまった。
カシアン閣下の顔は真面目だった。
それがなおさら可笑しかった。
「では、命令になる前に休みます」
「そうしろ」
私は監理室の隣にある小さな休憩室へ入った。
窓の外には、王都の北庭が見える。
慰霊碑の仮板が、遠くに小さく見えた。
明日には、写し板の試作品が届く。
明後日には、慰霊式本番。
やるべきことは多い。
けれど、ひとりではない。
その事実が、こんなにも身体を軽くするのだと初めて知った。
夕方、白いマントから赤いリボンと金刺繍が外された。
布地は、もとの白へ戻った。
もちろん、完全に元通りではない。
縫い跡は残る。
金糸を抜いた部分には、かすかな穴がある。
それでも、遠くから見れば白いマントだった。
「これも記録ですね」
ノーラが言った。
「傷跡ごと」
「はい」
私は頷いた。
「完全に元通りになったように見せない方がよいです」
「理由は」
「失敗があったことを忘れるからです」
ノーラは、少しだけ目を細めた。
「同感です」
白いマントは、保管箱へ入れられた。
箱には、日付と式名と、問題となった装飾の記録が添えられる。
美しい布は、失敗の記録になった。
それは少し寂しい。
けれど、必要なことだった。
作業台の上には、慰霊式の資料が戻される。
名簿。
献花順。
写し板の高さ。
車椅子の導線。
負傷兵代表礼。
総司令官報告。
私は一枚ずつ確認しながら、心の中で昨日の妹の言葉を思い出していた。
重かったのですね。
思っていたより。
そう。
役目は重い。
立場も重い。
白いマントも、英雄席も、遺族席も、名前も。
美しく見えるものほど、その下には重いものがある。
それを知らないまま欲しがれば、自分の肩だけでなく、誰かの心まで潰してしまう。
だから、明日の慰霊式では、誰にも飾らせない。
名を呼ぶ前に、飾らない。
私は作業板の一番上に置いた札を見た。
その文字は、昨日より少しだけ強く見えた。
カシアン閣下が、私の隣へ来る。
「明日で終わりではない」
「慰霊式のことですか」
「ああ」
彼は慰霊碑の導線図を見る。
「名を呼んで、花を置いて、それで終わるわけではない」
「はい」
「だが、明日を正しく終えなければ、その先へ進めない」
「そうですね」
「君は明日、どこに立つ」
「献花導線の西側です」
私は図を指した。
「式典官と遺族の列が交差しないかを見るために」
「もっと中央へ立ってもいい」
「必要ありません」
「なぜ」
「明日の中心は、名を呼ばれる方々です」
私は答えた。
「私は、その場所が乱れない位置に立ちます」
カシアン閣下は、しばらく私を見ていた。
それから、静かに言った。
「君らしい」
「褒め言葉でしょうか」
「もちろん」
私は少しだけ笑った。
「では、ありがとうございます」
「明日、式が終わったら」
「はい」
「話がある」
心臓が、ほんの少しだけ変な音を立てた気がした。
私はすぐに仕事の顔へ戻そうとした。
けれど、カシアン閣下の目はいつものように静かだった。
「仕事の話でしょうか」
「仕事の話から始める」
「始める?」
「続きは、式が終わってからだ」
それ以上は言わなかった。
この方らしい。
必要な時刻まで、必要以上に言わない。
私は頷いた。
「分かりました」
「では、今日は帰れ」
「まだ」
「帰れ」
「……はい」
今度は命令だった。
私は作業台の上を最後に一度だけ見て、監理室を出た。
廊下の奥で、保管箱に入った白いマントが見えた。
赤も金も外された、白い布。
重かったのですね、と妹は言った。
私はその言葉を、静かに胸へしまった。
明日、私が守るのは白いマントではない。
英雄の席でもない。
帰らなかった者の名と、その名を聞きに来る人たちの場所だ。
そのために、私はここにいる。
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