書斎
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夜の帳が落ちてもなお、王太子の書斎には明かりが消える気配はなかった。
重厚な机の上には、整然と積まれた書類の束。
不作が続いている地方領からの嘆願書、国境に配置された軍からの定期報告書、さらには各地の貴族から届く陳情や進言など目を通すべきものは尽きることがない。
仮面舞踏会が始まろうと、王太子の務めが軽くなることは決してなかった。むしろ各国の賓客を迎えるこの舞踏会は、外交的な配慮も増え、処理すべき案件はいつも以上に膨れ上がっている。華やかな音楽と笑い声に満ちた夜の裏で、そのすべてを滞りなく進めるための責務が積み上げられていく。だからこそ仮面舞踏会が終わり、城の喧騒が次第に静まり返った後も、王太子であるレオンハルトはこうして一人、書斎に残り続けていた。静寂の中、羽ペンが紙を擦る音だけが淡々と響く。
今レオンハルが向き合っているのは、今日から始まった仮面舞踏会に参加している隣国の姫に随伴している大使へ渡すため、王家宛ての書簡をしたためているところだった。文言一つで外交の空気が変わりかねない、慎重さを要するものだ。本来なら、思考を研ぎ澄ませ、ただ文字の上にだけ意識を置くべき時間。
だが、レオンハルトは書簡に目を落としたまま、しばらく動かなかった。先刻の露台で見た景色が頭から離れず、さっきから何度もこうして、羽ペンを持つ手が止まってしまうのだ。意識を切り離そうとしても、どうしてもあの瞬間へと引き戻される。
ーーー
露台の冷たい夜気の中で、レオンハルトは手すり越しに広場を見下ろしていた。その視線は、ただ一人、ヴィクトリアに固定されている。無数のランタンが照らす石畳には帰路につく者たちが行き交う。その中で彼女の姿だけが、妙にくっきりと浮かび上がって見えた。
その時だった。
石畳に足を取られ、ヴィクトリアの体がぐらりと揺れる。
「……っ」
反射的に、レオンハルトの指先に力がこもる。手すりを掴むその手が、ぎしりと音を立てた。届くはずがないことは分かっている。ここからでは、どう足掻いても間に合わない距離だ。案の定、近くにいた別の腕が彼女を支えた。その光景に、レオンハルトの視線が、わずかに細められる。
(……)
胸の奥が、激しくざわつく。
先ほどクラウスに指摘されたばかりの感情が、形を変えて再び浮かび上がってくる。理屈ではない、もっと原始的な何かが、内側からせり上がってくる。
「レオンくーん?顔怖いよー」
隣で、クラウスがくつくつと笑う。
その軽さが今は妙に癇に障るが、レオンハルトは何も返さず、ただ、目を逸らさずに広場を見下ろし続ける。彼女の動きを、一つも逃さないように。
ヴィクトリアは体勢を立て直し、隣の男と言葉を交わし始める。その様子を見届けながらも、レオンハルトの視線は微動だにしない。やがて彼女は、隣の男にエスコートされる形で歩き出した。
「んー?あれ、誰だろ…?」
クラウスが、同じように広場を覗き込みながら呟く。レオンハルトは即座に、二人が向かう先の馬車へと視線を移した。掲げられた紋章を、逃さず捉える。
(あれは確か…)
一瞬で記憶が走る。
王宮に出入りする貴族の家紋、過去に見た記録、顔と名が脳裏で結びついていく。普段目にしない紋章だが、知らないわけではない。逡巡は、ほんの一瞬だった。
「…ハイム男爵家だ」
レオンハルトは短く告げる。
「あー!えーと、確か名前は…」
クラウスは顎に手を当てながら、目を瞑り記憶を探っている。クラウスが思い出せないのも無理はない。王宮で開かれる舞踏会に彼が姿を見せることはほとんどなく、レオンハルトでさえ、デビュタンで一度見かけて以来、顔を合わせていないのだから。
「ダニエルだ」
間髪入れずにレオンハルトが答える。
「そうそう!そんな名前だったね」
クラウスは軽く頷くが、レオンハルトの視線は依然として二人に注がれたままだ。ずっと領地に籠っていた彼が、なぜ急に彼女を連れてやって来たのか。レオンハルトは思考を巡らせる。ハイム男爵家に、年頃の女性はいないはずだ。だとすれば、彼女は外部の人間になる。【亡霊のヴィクトリア】と名乗った彼女はダニエルと親しい関係にある平民の女性なのかもしれない。抱き止めた時の距離間や交わされた視線には、少なくとも他人の雰囲気は無かった。
だが思い返してみれば、最初から彼女は一人だった。門前で足止めされていたあの時も、華やかな音楽と笑い声に満ちた舞踏会の最中でさえも。人の波に紛れながらも、彼女の隣に寄り添う者の姿は、ついに一度も見かけることはなかった。
なぜ、彼女は共に入場しなかったのか。
それとも最初から、並んで入場することができない理由があったのだろうか。疑問は小さな棘のようにレオンハルトの胸の内に引っかかり、存在を主張していた。
「…彼女が何者なのか調べられるか」
視線を外さぬまま、レオンハルトは低く問う。
「はいはい、いいよ〜」
クラウスは一瞬だけ横目でレオンハルトを見るが、軽く肩をすくめながら、あっさりと応じた。その気安さとは裏腹に、クラウスの瞳の奥にはしっかりとした理解があった。
やがてハイム男爵家の馬車に二人が乗り込み、ゆっくりと動き出す。ランタンの光の中、車輪が石畳を滑るように進み、馬車は徐々に人の流れから遠のくように夜の闇へと溶けていった。それでもレオンハルトは、最後までその行方を目で追い続けていた。
ーーー
書斎に戻ってもなお、彼女のことを考えれば考えるほど謎は深まり、レオンハルトは何度も手を止めてしまっていた。インクの先が紙の上でわずかに滲み、書きかけの一文は、途中で途切れたまま、まるで彼の思考そのもののように宙に浮いていた。
だが幸いにも、この仮面舞踏会は、自身の婚約者が決まるまで続く。それは同時に彼女と再び相対する機会が、いくらでも与えられているということだった。
(時間はある)
レオンハルトは思考を整理する。
焦る必要はない、あの場での彼女の反応を見る限り、確実に興味は引けている。アーデルハルトの名を咄嗟に選んだり過去の話をしたのは、すべて彼女にだけ届くように投げた言葉だった。それにクラウスも最後に餌を投げた。呪いという言葉に対して見せた、彼女の反応は無関係の者のそれではなかった。王家に伝わる呪いとは別に、彼女自身も何かを抱えている可能性がある。そんな憶測がレオンハルトの脳内に広がるが、はっと我に返る。また思考の海に沈みかけていたことに気づき、レオンハルトは小さく息を吐いた。そして改めて、羽ペンを握り直す。
(明日のためにも早く終わらせなくては…)
すべてはヴィクトリアに再び会うために。
その決意だけを拠り所に、レオンハルトは筆を進める。今度は止まらずに、まるで余計な感情を押し殺すように、一定の速さで文字を書き連ねていく。
夜はまだ深く、書斎の明かりは消えない。
再び会うことができるのは数日後だとも知らずに、夜は更けていく。
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