手紙は読むものです、其の肆
「…、…」
痛い、そしてまずい。
じんわりと舌先に広がって鼻へと抜けて行く血臭の不快さに口を開き、独特な臭気を逃がす。
不快だし痛いが、お陰で思考できる冷静さは戻った。痛みで戻ってくるのは少々危険だとは思うが、そうなっているのだから仕方ない。そういうところも引き継いじゃってんだもの、今更どうしようもない。
はあっと溜息を吐いたところで仕切り直しと行こうか。感情的になるのはどうしようもないが、思考するのにこれ程邪魔なものはない。
だから、切り離す。放り捨てる。いま、必要なものではないと頭の中から締め出す。
自身にとって不利益を生じそうな物事ほど客観的であれ。何もできなかったと後悔するだけ、可哀想な自分が愛おしいなんて頭イっちゃってる悲劇のヒロインに成り下がるつもりはさらさらない。
大っ嫌いでしてねその手のヒロイン、虫唾が走るくらいには。おっと違う意味で感情的になりそうなのでやめよう。
では、まずは現状の再認識だね。ぐしゃりになってしまったお手紙を改めて検分しましょうか。
四筋の折り目だけだった真っ白な便箋に歪な皺が刻まれてしまったが、文字があるのは中央部のごく一部だけなので支障なし。フリーグレシアの花の香に至っては折り目が増えたことでより匂いが強くなった気がする。便箋全体から立ち上っている気がするのだが、どうやって香りをつけたんだろうか。
香水みたいに吹きかけるのでは当然斑ができるし、花から香りの成分を抽出したものだろうから精油による跡が紙に残るはずだが、ないな。お香っぽく焚き染めた、とか。
手法が法であるなら予測もできないし、わかったところで何がどうなるわけでもないので、これはまあ保留としておこう。レイジェル様も花の種類さえ察せば目的を達するはずだし。
ド直球に書かなかったのは万が一に備えたのか、それともただ単に書きたくなかったのか。
穿った考えをしなければ、捻くれた我が考えを実行に移す封さえ開けばこっちのもの対策だろう。
とはいえ、この文面では例え奪い去ることができたとしても事情がわからなければ正解になんてたどり着くことはできまい。知っているはずのボクでも花の香が何の花のものか話題にならなければ気付かなかった。
つまり、だ。名の重さによって私の情報を得られない現状況下、イルファにこの手紙の文面を読まれたところで恐がる必要性は何処にもないのだ。何せ理解できるのは初めから事情を知っている者か、マザーから答えを導き出せる程の情報を得ている者くらいで、イルファはどちらにも該当しない。
まったく、感情が先行すると思考が疎かになって悉く悪手ばかりを打つ。冷静に考えればわかることじゃないか。
私が恐れているのは我が生涯を賭して秘匿し続けなければならないことをイルファに知られてしまうこと。
ディルはなかなか問題が感じられる言い回しではあったが、如何にイルファが信頼に値するかを説いてはくれた。
ただ、申し訳ないがこういうのは実感しなければ信じきれないんだよボク。典型的な自分の目見たものでないと信じきれない、百聞は一見に如かずの体験して初めて納得するタイプでね。
まあ、たぶん大丈夫だとは思う。私宛ての手紙にえっぐい変化球を投げたように直球、読んでしまえば誰でもわかる内容では恐らく書かない。というか、きっと書けない。マザーがあれ程に保護する情報をこんな奪おうと思えば簡単に得ることが可能なものに書き記す愚かしさはないはずだから。
で、あればだ。恐らくイルファ宛ての手紙も知っている私が見れば、心臓乱れ打ちのどうしましょうと泡を食うものだろうが、知らぬイルファには理解に苦しむ不可思議な内容であろう。
ということは私が挙動不審にさえならず素知らぬ顔を維持できれば無問題。ただし私にポーカーフェイスは備わっていない大問題。
知らぬが仏知らぬが仏知りさえしなければこっちのものなんですよ!要するに見ざる聞かざる気付かざるで行けばいいんだよ!
よしきた大丈夫、怖くない恐くなーいですよ!思い込めばそれもまた真実!こんな時こそ発揮せよっ無駄な想像力と妄想力!信じる者は救われるんです!
イルファ宛ての手紙に対する心構えが開き直りに決まったところで、役目を終えたお手紙を四つ折りにし、念の為にぺちりと両手で挟み込んで開かないようにしてしまう。
うむ、一先ずこれでよい。処分の方法は後で考えよう。如何に理解に苦しむものであれ、残しておくのは問題あり。保存の難しさを考えると処分してしまうのが手っ取り早くて最も安全だ。
ふうっなんて一仕事終えて良い汗かいたぜ的な気分で息を吐いたところで、ついっと顎を持ち上げられて視界が強制的に上へと向けられた。
何事ですか?と思ったのは目が合う一瞬前まででした。
「リト」
何て言ったらいいんだろう、この表情。一言で言い表すなら複雑の言葉が適切なのだが、混ざってる感情がなんだか…うーん。
驚きに困惑、後悔に憤り、あとちょっと泣きそう?瞬間判断の印象が間違えていなければのものだけれど、どうしたのさ保護者殿。何かあったの?
イルファの表情とちょっぴり情けなさの籠る声音で呼ばれた我が名にこてりと小首を傾げて疑問を返すと、眉が片仮名ハの字を描かれた。何故だ。
「口」
はい?くち?
ぱちりと瞬いているとどうしようとでも言いたげな御顔になりました。察しが悪いボクがいけないのはわかったが、流石にどこぞの熟練夫婦の如き単語会話を出会って三日の我らに適用は難易度が高すぎると思われますよ。ですので主語や述語の文章を形作るに大事な文法をお願い致したく。
「口を開けて」
そんな無言の訴えが通じたのか、何をどうするに変わった文章が紡ぎ出されましたので要求が通った私は要求に応じましょう。あーんとな。
どうして急に口を開けろなんてお困り顔で要求されたのかなんて考えなかった私が悪いのでしょうかね。
大人の指二本も入ればそれ以上何も入らないその位に小さな我がお口にイルファの親指が触れる。
ちびっ子のぷるぷる瑞々しい唇にふよんと乗ってつぅっとなぞる、そんな触れ方で唇のやや内側を羽根が滑るように撫でられた。
ちょっと卑猥な感じに思えたのはボクの脳みそが残念だからなのかと何処かに問いかけることをしなかったのは、触れていった親指に色を付けた紅が見えたから。
その紅を見て、イルファが…自分を責めるような顔をしたから。
「…噛んだな」
何故気が付いたのかという疑問と共にどうしてと問いたかった。どうしてあなたが呵責を覚えるのだ、と。
肌色の一部を染めた紅がひどく、悪いものに思えた。消してしまわなければ、そう思った己の行動は後々思い返せば恥を知れと拳骨を落としたくなるものだろうな。
音にすると、ぱく、ぺろり、ちゅ、である。非常によろしくない誤解を招きそうな音だ。
「………」
予想外の行動に驚いて見開かれたお日様色とたっぷりの沈黙を頂いた我が行動は、
一、紅に汚れたイルファの親指を小さな口で咥える。
二、咥えた親指の腹を短い舌で舐めて紅を拭い去る。
三、可能な限り唾液を残さぬように吸い上げながら口内より摘出。
の以上三工程である。
そりゃあ驚かれて沈黙するはずである。何してんの私ですよ。証拠隠滅ですねと答えそうですが。
沈黙の中、イルファの目は紅が舐め取られた指先へと動き、驚くべきことに顎くい体験させてくれていた手が離れました。
おかしな方向に察しの良い脳みそが働いていなくて良かった。そんな状況じゃないのに赤面してそうだもの。
「リートー」
なんて思っていたらぷみっと頬が摘まれた。さっきより困った顔になってはいるが、その意味合いがどうしてくれようかに変化した感じがするのは、やや血色が良く感じる所為でしょうか。
「正直、色々と言いたいことができたけれど…」
溜息混じりのその発言とっても気になるが聞かない方がいい気がするので耳を塞いでもいいかな?なんて聞けないし実行もできないのはわかっています。
「自分を傷つけるのは、駄目だ」
懇願だった。言葉だけならば、咎めと取っただろう。だけど、ボクを映すお日様色の目に見えるのはお願いだった。頼むから、お願いだからやめてくれと訴えるもの。それ以外には思えない。
自傷行為は愚かなことだと思っている。だから他者がそれを為していた場合、自分のことは棚に上げての勝手な話ではあるが、ボクはその誰かを咎める。何をしているのだと怒鳴ることもするだろうし、二度とそんな馬鹿な真似をしないようにと五寸釘くらいの釘を刺す。
故に怒られることだとは理解しても、懇願されるなんて思わない。
どうしてそんなにも乞うのだろうという疑問を浮かべることもせず、気付けば私はこくりと首を縦に振っていた。
「約束だからな」
ほっと安堵する様子に微かに胸を過ったものは何だろうか。
「それにしても、唇を噛みきるような内容だったってことなのか」
もちぷに触感の我が頬から手を放しながら呟かれたボクへと向けられたものではない言葉は、視線と共に我が両手でサンドしたボク宛てのお手紙へと向けられている。
ふうっと吐息混じりに告げられたなんてことはないものが、一瞬後に激変するなんて誰が予想しえるのか。
知っている者がいたなら教えて欲しかった。
「本気で燃やせばよかった」
ちっと舌打ちが聞こえて震えあがりました。お手紙を見つめる視線の瞬間変化から視線を逸らしていたかったです。……こわい以外の言葉が出てこないとかない。
石像よろしく凍り付いたおかげで、イルファがゆっくり深く息を吐き出すことで何らかの感情を逃がしているのをしっかりと目撃しました。それが何かなんて絶対に言及しないし突き詰めない。
私は我が身と精神が可愛い!
動けぬ体の代わりに精神だけ逃避していると、見慣れた印象のイルファがボクへと視線を向けてくれるのだが、正直変化について行けない。
「手紙の内容は理解できたってことでいいのか?」
首肯するのに一拍間が空いたのは、間違いなく舌打ち付きの問題発言が脳内で鮮明な映像と音声付きで再生されたからです。
「じゃあ、処分は後に回して…俺も読むか」
自分宛ての手紙に視線を落とすイルファだったが、ちょっと待って。直前のお言葉があまりにもさらっとしていて反応が遅れたが、ねえ?
いや、処分方法は考えないといけないなと思いましたが…どうしても舌打ち発言が、うん。
「リト、ちょっと封筒持ってくれるか?」
そんな何とも言い難いことを考えているなんて思いもしないだろうイルファからのお願いに自分宛ての便箋を膝上に置き、差し出されたイルファ宛ての封筒を賞状を受け取る時のような両端を軽く握る形で手にしてから気が付く。片手がボクを抱き上げることで塞がっているので便箋が取り出せないことに。
受け渡しは片手でできても流石に封筒から便箋を取り出すのは難しいよね。うん。
抜き出されるやはり白い四つ折りの便箋を見送り、残った空の封筒を膝上に下ろし、自分宛ての便箋と重ねているとその間にイルファは器用に便箋を片手で広げていた。
視線が動いて文字を追っているのだと気が付き、同時にその文面がボクよりも長いことにも気が付く。
内容はさて置きボク宛ての簡潔な一文とは異なっているということだ。
中身が気にならない訳がない。けれどきっと不可解なものなのだ結論は出しているので怯えて震えることはない。…そわそわはするがな。
そしてボクの結論を裏付けるようにイルファの表情が変わる。それはそれは表現の難しい微妙なものへと。
たっぷりと沈黙して、文面をなぞり、また沈黙する。何が悩ましいのか想像できないが、眉間に皺を寄せて苦い渋い表情を浮かべるものであることはわかる。だからそっと心の中でだけ問おう。
レイジェル様、何をお書きになられたのですか。
きっとイルファを見ている全員が浮かべたであろう疑問に意識が向かった時、パサリと便箋を四つ折りに戻したイルファは複雑な表情のまま溜息を一つ。
「…共有した方がいいのか、悩む」
ああ、四大全員で調べ事していて更にリフォルドも半ば脅しかけてくる形でそこに参加しましたからね。
情報共有は複数人で行動している時には必須なもの。成程成程ちょっと待てい。
何故悩ましい御顔だったのかにふむふむと頷いていたのを止めてぱっとイルファの手にある白い便箋に目を向けた。
共有というのはアレだ、皆と分かち合うってことで、それは、つまり、お手紙の内容を教えちゃうよってことだね大丈夫なの?!
えぇえぇ勿論皆様がではなく私がですねちくしょい!
レイジェル様レイジェル様教えてくださいませ。イルファ宛てのお手紙に一体何をお書きになり申されましたのか。直接的なことではなくてひどく遠い間接的言い回しであっても真相にたどり着こうとなさる貴方様の身内がいて私のチキンなハートが壊れんばかりに暴れております。
これは一体何という危機的状況ですか!?
ぎゃーす、なんてコメントし辛い悲鳴を取り繕った外面の下で響かせていたら遠い目を白い色に遮られた。
あ、いや正確には白一色じゃない。黒い色が流麗に並んで……ってちょっと待てぇえぃ!!
「っ!っぅ!?」
きくんと咽喉が引っ掛かりを覚えても訴えなければならないことってあるんです。
はくはくとどうしても音にならない空気を吐き出しながら、ただ何でと視線を向ける。
無理にでも言葉を紡ごうとするボクを心配するお日様色へと。
「リト、落ち着いて」
落ち着けって無理だろうが何考えていらっしゃいますのかイルファ!
目の前に唐突に提示されたのは、イルファに宛てられた手紙。それも手紙の内容を読める表面をこちらへ向けての提示だよこんちきしょい!ちょっと読んじゃったよ!
人様に宛てられた手紙を読むのはよろしいことではないと認識しているが故に何であるかを理解した瞬間目を逸らしたが、何を思ってこんな行動に出たのだ!
見ざる聞かざる気付かざる、これでOKとか言い聞かせていた私に謝れ!
はくはくはくはくと音にならない訴えを続けるボクの様子に何を思ったのか、手紙を下げたイルファは重ねた手紙と封筒の上で余りある感情に震えるボクの手の上へ己の手を置き、ぽむぽむと叩いた。
「っ!」
落ち着いてと告げる行動により反発を覚えて出ない言葉を募ろうとするボクの視界をお日様色が独占した。
こつりと軽い衝撃が額に熱を伝える。
あ、これはついさっきも見ちゃった光景ですね。何故だ!!
『リト、聞いて』
「っぅ」
理解できぬと叫び出したいところに柔らかい声が耳ではなく頭に直接響いてびくっと跳ねた。
…やめて、宥めないで。ちょっときまり悪い。
『俺はまだリトの事情に詳しくないからどの内容が知られてまずいものなのかの判断ができない。だから人に知れてまずい情報ならば、信頼できる数人で共有してそれ以上外へと漏れないようにするのがいいんじゃないかって思うんだ』
至近距離で真っ直ぐにこちらを見つめる視線から逃れるために目を伏せて、動揺を呼吸で落ち着ける。
心声で伝えられることにボクは同意できる。当人が何を隠したがっているのかわからないのだからこちらは勝手な予測を立てるしかない。その勝手な予測を元にあれこれ考えて取捨選択するのだが…そうだよな、それはそうだ。判断材料である情報量が少なすぎるんだ。
マザーから直接の答えは得られず、当人は語れない。現時点でわかるのは当人が持ち得る力の制御関連での直接的な危険とちょっかいをかけてくるものがいるという外部からの危険だけ。
そこにどうしてと疑問は覚えど情報不足の中への貴重な情報源、それも魔王であるレイジェル様からの注意喚起だ。無視する選択は当然の如くなく、問題があるとすれば…。
『でも俺はリトが何を知られたくないのかわからない』
絶対に広めてはならないものと一部であれば知らせても平気なものの判断は、知っている者でなければできないってこと。
唐突で肝を冷やすイルファの行動理由がわかって喚いていたものは治まるが、もやっとするのはどうにもならない。だってボクの知らなければ大丈夫なんだよ作戦が見事に潰えましたので。
『御免な。保護者としてその判断をしなくちゃならないのは俺なのに頼りなくて』
謝る必要性が何処にあるのさ。やめてくれ、語れないのをいいことに黙秘決め込んでいるボクには突き刺さる言葉だからさ、それ。
開いた目に申し訳ないとわかるお日様色が見えて、苦笑する。本当に、どうしたものかね。
いっそ必要最低限すら伝えないお前が悪いんだとかひどいこと言ってくれればなあ、なんて怒られそうなこと考えてるなんて思ってないんだろうな。
「リト?」
いいよ、読みましょう。受け取った本人が読んでいいと差し出して、その上で私に共有するのか否かを求めているのだとおっしゃるならば、心臓乱れ打ちしてどうしましょうと泡を食いますよ。
重ねられていた手から己が手を抜き取り、もう震えていない手でイルファの手をお返しにぽむぽむと叩いてわかったからと示す。
笑顔も忘れてはいけない。表情が近すぎて見えないにしても目に映る感情は見えるでしょう?
何といっても駄々漏れですので。
熱が額から離れると、申し訳ないなって顔になっているのがよりはっきりしておかしい。
「御免な」
繰り返される言葉に首を横に振る以外の選択ができようか。そうだね、その謝罪は説明も了承もなくいきなり手紙を提示してきたことに対してのものとして受け取りましょう。なかなかに驚かされましたので。
てしてしと重ねられた手の指に挟みこんでいる四つ折り手紙を見せろと示せば、何処か躊躇いながらも開かれた便箋へと目を向ける。
それはボク宛ての短い文面と同じ綺麗な筆跡で、手紙としては短いはずなのに、比べると長いから何とも言い難い心地になる。
そう思って笑えるのは文字として見たからで、文章として読めば笑うどころか引きつりしか出てこない。
やだ、コレ知ってるものにはド直球もいいところじゃないか。最初の一つ以外は駄目でしょうよ。
貴方様は一体何を考えてこんな際どい文章を書き綴ってしまわれましたかレイジェル様。ああ、嫌ですよ。
これじゃあ…貴方自身にも返ってきてしまうじゃないですか。まさかとは思いますがお忘れではありませんよね?私は生まれてたった三日の吹かなくても飛んじゃう残念なくらいに脆い生き物なんですよ。
長く、永く生きてきた貴方様方と違って、前世を含めたとしても三十に満たぬ時しか生きていないんです。
そんなちびっ子に…いや、きっと貴方は私を幼子だとは思っていないのでしょうね。
嫌だな、聞かなきゃいけないことができちゃったよ。
零した溜息は自分が思っていたよりもずっと重いものに聞こえて、それはボクの様子を注視して見ていたやさしい人たちを不安にさせた。特に、一番近くに居るイルファを。
「リト」
名を呼ばれて視線を文面から動かせば、心配ですとでかでかと顔に書かれているイルファが見えて、ちょっとほっとした。
心配されてほっとしちゃう精神具合に呆れながらいつの間にか握り締めていた掌を開いて、手紙の文面へと指を伸ばして示す。
一文をなぞり、親指と人差し指で作るOKサイン。そして残りには紙の上で大きくバツ印を描くことでそれ以下は語るべからずと示すが、伝わるか?
「ん、それ以外は駄目なんだな」
様子を窺い見たイルファが、こくりと頷きながら返してくれた答えで伝わったことは確認できたけれど、その顔はやはりって感じですよね。
ひょっとしなくとも欲しかったのは、確証ですか保護者殿。
「わかった。リト、手紙を渡して。処分する」
方針が決まれば危険物にしかなり得ないものは早々に処分するに限ります。
そこには同意できるのですが、気になるので問いたいのです保護者殿。
どうやって?
膝上で重ねていた便箋と封筒を差し出せば、そこに自分の便箋も重ねたイルファは三枚の紙を握り、その手をボクから遠ざける。ちょっと嫌な予感がしたのはGの音が細く聞こえたからなのだろう。
あ、燃えるのかもと思った時、手紙と便箋の白い紙三枚はひょいっとこれまた色白な手によって奪われた。
「あ」
音にはできなかったが開いた口が刻んだ言葉は同じものでしたよイルファ。
きっと視線の動かし方も同じで、奪っていった手の主を見て止まったのも同じだと思う。
見事な線ですね、お師匠さん。
「その頭に詰まっているのは何かを燃やすための燃料なんだな火属性」
蔑むってこういう目ですね。嘲笑うってこんな笑みですね。物凄く、寒いです。
「どうしても燃やしたいならそいつを置いて外に行け極小脳」
遠回しに聞こえなくもない馬鹿発言ですね。
とある文字が誤変換で聞こえなかったことに密かに安堵しております。
「リフォルド、それも寄越せ」
「了解」
ピンッと指先で弾かれただけの空の封筒はひらひらと、ではなくすぃーっと大気の中を滑走した。
きっと精霊の関係ですね。音の感知はできなかったけれどそれ以外の説明つかない軌道だったもの。
すでに三枚を手にしている手で飛ばされてきた四枚目をナイスキャッチすると、躊躇いなくぐしゃりと握り潰したディルに瞬いた。
開いた掌の上で一塊にされた紙がさらさらと細かな粉末状に変わり、風に流されて消えていくのにあんぐりと口が開いた。
何ですかいまのは。何が起きたのですかいまのは。聞こえたのはDの音だったが、何か?いまのはディルの地属性行使によるお手紙解体作業ってことなのか?
理解できる気がしないよ!分解ってことなの?それはむしろ魔法要素より化学式の領域に感じるんですけれど全力で苦手分野だよ化け学はよぅ!記号は覚えても計算が全くできないんだよアレ。
水素が二個あって酸素一個と結合したので水になりましたっていうのはわかる。
でも答えと式の数が等分になるように数を調整してねって何だよ。二個水素+一個酸素→二個水って何だ。
頭についてる数字の意味が分かりそうでわからないんだよ。
林檎と蜜柑が五個ずつあります。林檎を一個、蜜柑を三個食べたのでまさお君は八百屋さんに林檎を四個、蜜柑を六個買いに行きました。残りは何個になったでしょうって回りくどく聞いてくる算数の文章問題と変わらない苛立たしさがあるからな!大体まさお君って誰だよっ林檎一個に蜜柑三個って食べ過ぎだよ!
ついでに言うなら態々買いに行くってことは食べちゃ駄目なものだったんじゃないのかっ隠蔽工作に走るくらいなら初めから食べるな阿呆か!
「それで」
一音一音はっきりと句切って発音されたディルの冷ややかにしか聞こえない声に我に返り、パンパンと手に残った元お手紙の名残を払い落とす動作を見て見ぬふりをする。原理が気になるけれどちょーっと考えるのやめよう。どうにも相性の悪そうな分野っぽいものね。思考の逃亡先がひどい場所だった。
「何を共有していいのか五秒以内に答えろ」
ふぅなんて密かに息を吐いていたらにっこりと表情筋だけで笑って無茶ぶりこわーい。
「利用接触より隠し情報与えず心身安寧最優先」
ぎゅっと縮められて共有可能部分が即答されたことに短いと突っ込むことすら許されないんだと理解しました。
一瞬にして取ってつけたようなにっこり笑顔が掻き消えて、ふんっと鼻息が返ってきたのに小さく震えが走りました。
イルファ、ボクを宥める前に自分の同僚を宥めて欲しい。切実に。
「要するにいまの状態を維持していいって魔王様からの許可ってことだね。表面上素知らぬ顔していれば、水面下で何やってても必要なことなら見逃して貰えちゃう。つまり、両王様方の暗黙の了解が揃ったってことだね」
明るいお声ではきはき発言。私はいまこの瞬間キミを空気を読めないものとして区分することを宣言しますねマリエル。
でも、よくやった!ディルが呆れた顔して溜息吐いたからね!
「逆に言えばそれくらいやれって言われてるってことだぞ。天王殿にも心身の安寧を守れと言われているのに重ねてくる意図が気にかかる」
「同意だ。心身を損なうことで生じる何らかの事態を何が何でも避けたいとも取れる。両王様方が揃って回避を告げる事態なんて絶対に碌なことじゃないだろう」
リフォルドに続いて意見を述べるディル。二人の意見にどうしてそうなるのかに唯一心当たりがあるボクだけが視線を逸らす。
たぶん皆凡そは想像しているはずなんだよね。心身を損なうってのは最終終着点が暴走にたどり着くから聖魔殿で見た爆心地映像が何処かで発生する可能性大ってこと。それも力の保有量による被害範囲の広大さ、イルファが保護者であることから現場になる確率が高いのは高位者の集う執務室近辺という厄介さもついてくる。後の業務に差支え、代えの利かない高位天魔の皆様方を危険に晒します。
わぁ、こう考えるとボクの存在って百害あって一利なしっぽい。
背後からいきなりさくっと殺られたらどうしましょう。
「同時に何が何でも生きていて欲しいってことでもあるよな」
頬を指の背で撫でられて不安に俯いていた視線を上げれば、大丈夫だよって聞こえそうな笑顔のイルファがいて…じわりと込み上げてきそうなものを我慢する。
「リトに生きて欲しい。心も体も健やかに。その為に必要なことなら何やってもいいって両王様方からのお墨付き。こんなに生きることを願われるなんてちょっと照れるかな?」
狡い、と思うこの感情は何処からくるものなんだろうな。
ねえ、たった三日なのにどうしてわかるの?どうして気が付けるの?
生きることを望まれていないんだろうかと、沈み込んでいこうとするどこまでも己に否定的なことを考えている私に…欲しい言葉をくれる。
「…確かに必死とも言えるほど生きることを望まれているか」
溜息ではない息を吐いたディルが同意を示してくれたことに驚いて、ぱっと視線を空色へと向ければ、ぱちりと一つ瞬いたディルは何を納得したのかふむと頷いた。
「成程、当の本人が己の存在価値に否定的なのか。それは周囲の方が必死にもなる」
顔を見るなりド直球。そういうところまで駄々漏れなのですかボクってば…。
「騒音兵器」
しょんぼりと俯きかけたところにこんな時でもぶれない呼び方ですか。
はい、何でしょうかと背筋が伸びてしまうのがおかしいですね。
「お前、繰り返し言い聞かせないと信じない面倒なタイプだろう」
ぐっふ。当たっているだけに反論の仕様がないけれどもう少し、もう少しだけ柔らかい表現がよかったですお師匠さん。面倒と言い切られるのは流石に凹むですよ。
「仕方ないから繰り返してやる。しっかり刻み込め」
は、い?何を繰り返して何を何処に刻み込めとおっしゃいますか?
なかなかに堪える発言で虚ろになりかけていたところに浮かぶ疑問は、淡々と告げられるお言葉に放り投げられる。
「俺はお前に危害を加えるつもりはない」
はい、聞きました。そして希少で貴重な笑顔を拝めました。ありがとうございます。
「イルファに全幅の信頼を寄せろ、例え何があろうと疑うな。イルファが信頼している俺たち四大も間接的に信用しろ」
はい、聞きました。省略されていますがつい先程のことを忘却するほど今世のハイスペック天使体は残念ではありません。
こく、こく、と頷くボクを見て口角を上げるディルは何を思っていらっしゃるのでしょうか。
駄々漏れのボクと違ってわからないです。精々楽しそうではあるくらいで、その楽しそうも皆目見当つきませんがね。
「両王様方、リフォルド、四大全員。少なくとも十一人、お前が生きることを望んでいる。わかるか?」
へ?
きょとんと予想もしない言葉が降ってきてぱかりと口が開いてしまうボク、それを見てより口角が上がるディル。反応を楽しまれている感じがしますが主導権はディルにあり、それに対抗できる程思考が回ってない私にできることは、笑みの種類は置いておいて笑っていると分かり易く表情に現れているディルをガン見して記憶に留めておくことでしょうかね。
ええ、予想外過ぎて軽く思考が飛んでます。
「欠片も好意のない相手にあれこれしてやるほど俺たちは博愛主義じゃない。むしろ薄情だろう。絶対に必要なもの以外に対する執着が薄いからな」
あ、いえ、それはボクにも共感できるものなので問題ないです。はい。
「その他大勢なんてどうでもいいと切り捨てられる奴らが誰の為に動いているのか、わかるな」
それは問いではなくて、はくりと意味もなく唇が動いたボクにディルはもう一度繰り返した。
「俺はお前に危害を加えない」
文章としてはほんの少し、けれど意味合いは全然違う言葉として。
「だから」
そっと伸ばされた手が、ボクの頭に触れる。
「もう少し生きることに肯定的になれ。そうでなければお前に生きて欲しい俺たちが滑稽じゃないか。本人を無視した道化を演じさせるな」
聞きようによってはきつく聞こえるかもしれない言葉、二度頭を撫でていった手。
不思議なことにそれを恐いとは、感じなかった。
ねえ、狡いと思うんです。この感情が何処からくるものなのかとか、どうしてそう思ってしまうのかとか、もうどうでもいい。
ただただ、狡いと思うんですよお師匠さん。基本無表情で言葉は辛辣、態度はドライの時折ファイアなお師匠さん。こんな、こんなタイミングでそんなにやさしく笑うのは、狡いと思うんです。
やさしい声で、恐いと感じない程にやさしく触れるのは、狡いと思うんです。
「必死に生きようとしろ。その為の手助けならしてやる」
「…っぅ」
何その男前な発言!涙腺決壊しちゃうでしょう!!
ぽろろっと零れた雫にディルが目を剥いたのが見えて、笑ってしまったけれど…。
「わぁーっ駆け抜けよ大気っ巡り回る界より隔絶し遮断する衣を成せ!」
「ナイスだマリエル!」
「うっわ何だコレ?!」
一気に騒がしくなったのは何ですかな。
「ディルってばっ泣かせるなら事前申告してよっ焦ったじゃない!」
「っ不可抗力だろうが!誰が意図して泣かせたんだっ」
「ディル以外の誰だっていうのさ!」
よくはわからないけれど、ボクが泣くと何か大変なのかもしれない気がする。
でも一旦流れ出したら止まらないんです。仕方ないと諦めてください。ちびっ子の涙腺ってとっても働いちゃうみたいなんですよね。
「~っ確かに俺だよっ悪かったな泣かせて!」
あーあー、やけっぱちですねお師匠さん。基本無表情は何処へやら、慌てていらっしゃるその姿がクールな印象と差があり過ぎて余計におかしい。
なんてくすくすと笑っていれば、ぎっと空色の目に睨まれてしまった。
「おっ前はっ!泣くのか笑うのかどっちかにしろっむしろ泣くな!泣き止め!」
あははははっ本当に慌てていらっしゃる。子供に懐かれなくてよく泣かれるとか言っていたけれど、実は内心でしょんぼりなっていたりするのでしょうか?
そうだと親近感がとっても湧きますね。そうでなくても湧いてますけれどね。
ああ、なんて濃い一日。なんて、やさしい一日。
「頼むから泣き止め!」
困っているディルには悪いんだけれど、もう少しだけ、ね。
だって、とっても嬉しかったから。嬉し泣きくらい、大目に見てくださいなお師匠さん。




