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自室に戻ったステファン王子は、執務室から持ち帰った文机の上の書類を眺めながら考え事をしていた。
間もなくリブシャ王国からの使者が訪れるだろう。いや、もしかしたらワイルダー公国の者だろうか。
同盟国という立場上、婚約者でもある王女を救う為にあの国が立ち入ってくることは充分考えられる。
しかし平和との共存を誓ったリブシャ王国を挟んで森を戦火に巻き込む事がどういう結果を招くかを考えると、おいそれとあの王子も我が国に兵を差し向ける事は出来ない筈だ。
あの森は、どの国にとっても生命線なのだ。
諸国の王達は王女を獲得する事が国の安泰に繋がると考えているようだが、王女の取り成しで森の女王の協力を獲得することさえ出来れば、王女との婚姻などはどうでも良い話だ。
最終的に王女はあの第三王子と結婚すれば良い。
その前に、我が国の為に王女に一働きして貰えさえすれば、用は足りる。
すっかり冷めた茶を一口飲んで、王子は人知れず溜息を洩らした。
しかし、アリシアがあれほど王女に懐くとは。
市井で育ったと言っても、王女としての待遇を受け続けていれば高慢になって当たり前だ。そしてあの王女はそれが許されても良いほどの大国の王女なのだ。その王女が隣国とはいえ友好的ではない国の第三王女などに親切に振舞う筈がない…という予想が見事に裏切られた。
美しい姫に期待していたアリシアは王女に失望するどころか王女を心から慕い、王女が隣国の姫だと知らない使用人達は賓客としての王女の態度に概ね好意的だ。
城の殆どの者達は王女が私の花嫁候補であると思い込んでいて、しかもそれを大いに喜んでいる。気が早い者達は最初の世継ぎが男か女か、既に賭け始めているらしい。
アリシアを邪険に扱いさえしなければ、正直な話、結婚相手は誰でもいい。
私にとって結婚とは、世継ぎをもうける為だけのものだ。国の安泰が約束されていれば、相手が王族である必要すらない。
だが…王族同士の結婚は、国同士の取引だ。
王女が国の事を思うのなら、私の要求を呑むことも一つの選択だ。ワイルダー公国とハーヴィス王国の軍備には大差が無い。軍備の点だけを考慮するのなら、第三王子との結婚より第一王子との結婚の方が条件は良いはずだ。加えて、我が国には豊富な鉱物資源がある。これといった資源を持たないワイルダー公国よりも、はるかに分が良い取引だ。
婚約者とは名ばかりの、出会って間もない王子と心を通わせている訳ではあるまい。事実、あの王女から婚約者を恋い慕うような素振りは感じられない。アリシアの王女に対する態度を見ているとそれがはっきりと分かる。
あの数分の一でも王子を慕う様子が見受けられれば、これほどまでに逡巡しないのだが。
これ以上はない条件の姫だということは、国王に何度も釘を刺されなくとも分かっている。手中にある姫をむざむざ国に帰すことがどれほど愚かであるかということも。
だが、何かが引っ掛かるのだ。
確かに美しい姫だ。
そしてあの礼儀正しさは優れた美徳と言ってもいい。
だからこそ囚われの身でありながらもああまで使用人達の心を摑むのだろう。
しかし…あの王女の本心はどこにある?
「お兄様!」
俄に聞こえてきた声にステファン王子が振り向くと、かんかんに怒って乗り込んで来た様子のアリシア王女と、それを阻止し切れなかったことを恥じるような表情をした衛兵の姿が目に入った。
「エルマ様のご気分が悪くなられたと聞きました」
話し合いの後の茶会をあれだけ楽しみにしていたのだ。失望が怒りに変わるのは容易に想像出来る。
王子は怜悧な表情を崩さないままアリシア王女をじっと見つめた。しかし王女は怯むことなく王子に言い募る。
「昨日まであんなにお元気でしたのに…一体何を仰ったのですか!」
「国の話をして、国が恋しくなったのだろう。暫くそっとしておいた方が良い。王女は今、決断しなければならないことが沢山ある。だからアリシア、今日は姫に会うのは控えてくれ」
「そんな…」
アリシアの失望した表情は見たくないが、今回は仕方ない。王女の決断は早い方がいい。
この取引にあの王女はどのような答を出すのだろうか。
「王子、そろそろ」
「ああ」
デラが声をかけると、クレイは黒いマントを羽織った。
決行の時機が来た。
王女の迎えが人攫いのような真似をするなどとは、さすがにあの王子も思わないだろう。
…しかし、これではまるで盗賊だな。
クレイは周りを見回して苦笑いした。
夜闇に隠れて逃げる際に目立たないよう、暗い毛色の馬を揃え、服装も黒づくめだ。明るい髪の色をした騎士達は布を被って髪の色を隠している。
ジェスもサラも足元まで隠れる黒いマントに身を包み、頭に布を被っていた。こちらは髪の色を隠す為ではなく、一目で女性であることを見破られない為だ。
ジェスはクレイの馬の首筋を撫で、馬に何かを語りかけていた。その後ろでサラがジェスのその様子を見つめている。
デラの話では、ジェスはクレイの馬を自在に操れるようになったらしい。
城まではジェスとサラがクレイの馬に乗って向かう。そこで城から出てきたエリーとサラが交代し、サラはデラが用意した別の馬にセレナと一緒に乗ってリブシャ王国まで一気に走り抜ける。
ケイト達が別行動を取ることになったように、ここでも二手に分かれることになっていた。エリーをより安全に国へ送り届ける為だとサラが言い出したからだ。
クレイとしては四人の娘達だけでも先にリブシャ王国へ帰しておきたかったが、サラの決意は固かった。サラはクレイとエリーの安全を最優先にして欲しいと言って譲らず、ケイトもサラの意見に賛同した。
サラはケイト以外の娘達に自分のことを未だに隠している。ケイトが許可しているのなら、きっと何かの策があるのだろう。クレイとエリーがサラと一緒にいない方がいいと判断するような策が。
デラの命令に決して背かないと約束させてから、クレイは渋々サラの案を承諾した。
ありがとう、とほっとしたような穏やかな笑みを浮かべたサラの表情があまりにも儚く感じられ、クレイはその瞬間から言いようのない不安に襲われた。
出陣前の落ち着かない気分を振り切るようにしてクレイは夜空を見上げた。薄曇に隠れた満月が、時折柔らかな光を地上に注いでいる。
その光の色がまるでサラの髪の色のようだ、とクレイはぼんやりと思った。




