第57話 美人隊長にお持ち帰りされました。
ユーが資材の調達に没頭している隙を突き、搬入用カートの陰に身を潜め、閉まりかけた研究室の自動ドアを一気にすり抜けた。
(……こんなにも簡単に脱走できるとはな。まさか、わざと逃したのか?)
無機質な白銀の廊下を必死で駆け抜ける。
胴長短足のぬいぐるみボディは、思っていた以上に小回りが利く。
(俺を封印した特封隊とかいうヤツらを早く探さないと……)
床を蹴るたびに綿の詰まった腹がぽふぽふと跳ね、音もほとんど立たない。
視界が異常に低いことと、油断すると尻尾を壁にぶつけること以外は、悪くない機動性だ。
(問題は……ここがどこで、目的地がどっちなのかさっぱり分からないことだな)
立ち並ぶ重厚な気密扉。
頭上を音もなく滑空していく球体の監視ドローン。
壁面に埋め込まれた液晶パネルには、意味不明な魔導式と謎の文字列が高速でスクロールしている。
(……完全にSF映画の世界だな。やはり、天聖連は異様だ。ここだけ別世界のように感じる)
世界の常識からかけ離れた光景に圧倒されながらも、俺は物陰から物陰へと移動を続けた。
しばらくすると、前方から数人の職員が歩いてくるのが見えた。
(しまった……どこか隠れる場所は──!?)
俺は慌てて、近くにあった『非常階段・避難区画』と書かれた扉の陰へ滑り込んだ。
ペタリと長細い身体を伏せ、息を潜める。
通り過ぎる職員たちの話し声が聞こえてくる。
「……おい、さっき機動警備隊のフロアを通っただろ?」
「カノン隊長か? 見た見た。相変わらずスタイル抜群で……綺麗だったよなぁ」
「それな。あの美貌で強くて隊長だろ? 男なら誰だって見惚れる。ただなぁ……」
「ああ、中身がな。『だるい』『帰りたい』しか言わないし、デスク周りはゴミの山だし。見た目は完璧なのに、生活態度が完全に終わってるって噂だぞ」
「それでもいい。俺はカノンさんに撃たれたい!」
「ははっ! 気色ワルッ!」
「じゃあ副隊長はどうよ?」
「あれは論外だ。そもそも女かどうかも怪しい」
「違いないな! ははっ!」
職員たちは俺に気づく様子もなく、談笑しながら遠ざかっていく。
(カノン……警備隊の隊長か。気をつけよう……)
非常階段を降りて下層を目指そう。
そう考えて歩き始めた、その時だった。
カチッ。
暗がりの中で、小さな火花が散った。
(……ん?)
階段の踊り場。
非常口の誘導灯が放つ淡い緑の光の下に、人影があった。
金色の長髪に、澄んだ青い瞳、整った顔立ち。
背が高く、モデルのようにすらりとした体躯。
黒を基調としたロングコートを羽織り、腰には物騒な二丁の拳銃を下げている。
とんでもない美人が、壁にだらしなく背中を預けて、心底うんざりしたように肩を落としていた。
(非常階段に人がいる?)
彼女は細く白い指でライターを操り、咥えた煙草に火をつけた。
薄暗い空間に紫煙がふわりと漂う。
「はぁ……だる。帰りたい……。なんで隊長なのに巡回しなきゃいけないわけ……有給くれよ……」
漏れ出たのは、絶世の美貌からは想像もつかない、深すぎる溜め息と生々しい愚痴だった。
(まさか、噂の『カノン隊長』本人か……!?)
音を立てないよう、そろりそろりと後ずさりする。
床を擦らないよう、短い前足を慎重に引いたとき──
カラン、カラカラ……。
彼女が飲んだと思われる空き缶を、後ろ足で蹴飛ばしてしまった。
「……ん?」
気だるげな瞳が、足元へと向けられる。
(やばい……!)
目が合った。
奇妙な沈黙が階段を満たす。
カノンは煙草を指に挟み、無表情のまま俺をじーっと観察していた。
「……ぬいぐるみ?」
(ま、まずい……捕まる……!)
俺はイタチでありながら脱兎の勢いで身を翻し、扉の隙間へ向かって短い足をフル回転させた。
だが、懸命に床を蹴り出した瞬間──
スッ。
首根っこを、器用に指先でつまみ上げられた。
「ほい、確保」
(うわっ!? 放せ! 浮いた! 宙に浮いたぞ!!)
ジタバタと手足をバタつかせるが、相手の腕は微動だにしない。
カノンは煙草の火を携帯灰皿へ押し当てて消すと、俺を目線の高さまで持ち上げて、まじまじと見つめる。
「……テンちゃん? いや、さっきから動いてるよね? 魔導仕掛けのオモチャか何か……?」
切れ長の冷たい瞳に見つめられ、背筋が凍る。
(頼むから見逃してくれ! 俺はただの無害なぬいぐるみだ! とにかく放せ!!)
必死に身を捩り、カノンの腕から逃れようと前足を振り回した。
その勢いで、俺の丸っこい前足が、自分の胸の魔導プレートを思い切り叩いてしまった。
ポフッ。
きゅい〜ん。
(あっ、しまった……)
『ボク、だいすき!』
非常階段の静寂を切り裂いて、愛らしい合成音声が大音量で響き渡る。
(ぎゃあ!! 完全に誤爆したっ!!)
薄暗い緑の光の中で、カノンが静止した。
気だるそうにしていた瞳が、これ以上ないほど丸く見開かれている。
(壊される! 捨てられる! いや、撃たれる?)
俺は恐る恐るカノンの顔色を窺った。
カノンはしばらくの間、呆然と俺を見つめていたが、やがて、その形の良い唇が、ふっと小さく緩んだ。
「……ぷッ」
カノンは俺を両手で包み込むように抱き直し、少し照れくさそうに呟いた。
「……へぇ。ありがと」
(……え?)
見上げた先のカノンからは、さっきまでの人を寄せ付けないような雰囲気は消えていた。
どこか寂しげで、けれど柔らかい表情。
「誰もそんなこと言ってくれないんだけどね。……あたし、そんなに好かれるような人間じゃないよ?」
カノンは俺の丸い頭を、細い指先で優しく撫でた。
その手つきは、凄腕の隊長のものとは思えないほど、丁寧で、どこか不器用だった。
「……まあいいや。仕事サボる口実にちょうどいいし、連れて帰ろ。遺失物確保。お仕事終了」
カノンは俺を小脇にすっぽりと抱え込むと、だるそうに階段を上がり始めた。
(ちょ……待て待て! どこへ連れて行く気だ!?)
俺の脱走計画は、開始わずか十分で「お持ち帰り」されるという予想外の結末を迎えていた。




