無防備な朝と、秘めたる飢え
翌日。燃はマンションの管理人に礼を言い、登夢のバイクに二人乗りして、杠葉家へと向かった。
荷物は草薙運輸の特別班に任せてあるため、手間がかかるのはドラムセットとミキサー程度だ。
引っ越しは、親たちの強大なネットワークのおかげで、思いのほかスムーズに進んだ。
その日のうちに、燃の生活空間は杠葉家に移された。
杠葉家の次男、**仁**は、人懐こくよくできた中学生で、すぐに燃に懐いた。
「兄貴が出来たみたいだ!」 仁が素直に喜んでいるのを見て、燃は悪い気はしなかった。
孤独な生活が長かったため、年下に頼られるのは新鮮だった。
ただ、「兄貴」の方が自分より10cm近く身長が低いことには、燃は納得していなかった。
「どうも最近の中学生は発育がよすぎる……まだ育ち盛りだから、恐らくシャケぐらいには成長するだろうな」
いろいろ納得のいかないことは多かったが、頼られるのは居心地が良く、燃はさっそくこの家に馴染み始めた。
一方、もう一人の同居人、かれんの姿は家になかった。
「ふらっと出かけたら、二、三日帰ってこないんだ」 仁が申し訳なさそうに言った。
「一緒に暮らすのが嫌とかじゃないと思うんだけど」燃に気を使って仁が言った。
「どこへいってるんだ?」
「ここんとこちょくちょくいなくなるんだ。たいてい土日にかけてだけど」
仁は肩をすくめた。
「いつも**『ちょっと行ってくるねー』**ってそれだけ。
帰ってくると卒業作品の作成とかで大量にスケッチを持って帰って整理してるよ」
「よく叔母さんたち心配しないな」
燃が素直な気持ちを言うと、仁は寂しそうに顔を伏せた。
「いいんだよ、もう子供じゃないんだから、ほっときゃ。
それに、姉貴は俺と違って信頼されてっから」
その日、燃の引っ越しを祝って、風見鶏のマスターと谷神姉妹が夕食に燃と仁を招待してくれた。
夜遅く帰宅し、疲労のまま床についたときにはもう11時を回っていた。
ベッドで横になり燃は気になった。
かれんの奴、いったいいつになったら戻ってくるのか。
顔はなんとなくしか思い出せない。
ただのんびりしていることぐらいしか思い出せん。
そのときふっと思った。
(ひょっとしてかれんは付き合っている男がいて、そいつと旅行にでも行ってるのではないか?)
しばらく考えて、燃はそれを打ち消した。
(いや、あの勘の鋭い彪叔父さんや叔母さんが何も聞かないなんて、どう考えてもおかしい。
その手のことには異常に反応する叔父さんだから、放っている筈がない)
そうするとやっぱりスケッチをするための行動なのだろうか。
しかし、誰にも行き先を言わない**「訳」**があるんだろうか。
(訳……どんな訳だ。かれんはいったいどこに出かけているんだ?)
わからん。
だが、考えるのはやめた。
引っ越し疲れで燃はすぐに眠りについてしまった。
次の日、仁は陸上部の練習があると言って朝早く家を出た。
燃は引っ越しの片付けついでに昨日掃除をしてしまったのでやることがない。
仁の部活の体操着などを洗濯し、暇になった燃は、風見鶏へ向かった。
店の外から窓越しにのぞきこむと、先客が居る。カウンターに一人座っていて、マスターと何かしゃべっている。
カウンターに座っているのはどうやら女性のようだ。
(ひょっとしてマスターの彼女か……せっかくのところを邪魔するのもなんだが)
好奇心から燃は風見鶏のドアを押し開けていた。
カラン、カラン、とベルが鳴って、二人が同時に燃の方を向く。
「いいところにきたな、燃」
と、マスターが言った。
「今お前の噂をしていたところだ」
「どうせろくな噂じゃないんだろう」
燃はそう言いながら、その女性に軽く頭を下げ、カウンターの端に座った。
そして、マスターを手招きして呼んで小声で聞いた。
「あの人、もしかしてマスターのこれ?」
小指を上げた瞬間、お得意のボディブローが燃に決まる。
「ごふっ!な、なんで……?」
「全くしょうがない奴だな。馬鹿たれ。よく見てみろ」
マスターは呆れたようにつぶやいた。
言われて、燃は改めて女性をよく見た。
ま、まさか、ひょっとして……。
「か、かれん?」
燃は自分で気づかず、声に出していた。
「やっと気づいたようね、お馬鹿さん」
彼女は優しく微笑みながら言った。
「本当にかれんなのか?」
そう言うと、燃は自分の口があんぐりと開いていた。
それを見て彼女はぷうっと噴出し、クスクスと笑った。
「なーにーよー、本当にわからなかったのー?」
このとっぽいしゃべり方。
間違いない、かれんだ。
かれんは燃の好みにとても綺麗になっていた。
背は燃と同じぐらいで、女性では高い部類に入るだろう。
ほっそりした卵型の顔、上品に通った鼻筋、控えめな口元。
肩口までありゆったりと波打つさらさらの髪。
明るい切れ長の瞳は、何か夢を見ているように潤んでいる。
化粧っけは全くない。
白いニットのシャツにジャンパーのキュロットスカートという動きやすそうな格好だった。
飾りっけのない彼女だったが、燃の目には夏の海の青さのようにみずみずしく、鮮明に写った。
彼女が微笑んだとたん、まるで津波がきたかのように俺の頭はスパークしてしまう
(この人とこれから一つ屋根の下で暮らすのか)
燃は、衝撃のあまり深く考えることができず、ただ質問した。
「ど、どこへ行ってたんだ?」
「ちょっと卒業作品のためのスケッチにね。」
かれんは少しためらいながら答えた。
「で、いいのは描けたのか?」
マスターが尋ねる。
「うん。山菜もいっぱい取れたの。今日はご馳走よ」
そう言ってかれんは燃に微笑んだ。
その日の夕食はかれんが腕をふるった。
燃が手伝おうとしても「男子厨房に入るべからず」と言って追い出されてしまったため、燃は飯の仕度を観察することにした。
かれんの料理は手際がいい。
山菜を洗い、米を研ぎ、調味料と合わせて炊飯器へ。
残りの山菜を使って天ぷらの準備を始める。
すべての動きに無駄がない。
「どうしたの? さっきからずっとこっちを見てたみたいだけど?」
かれんが燃に話し掛ける。
「べ、別に。人の料理してるところってあんまり見ないんで珍しかったから……。しかし、ずいぶん手際いいなあ。仁とはえらい違いだ」
それを聞くと、かれんは目を丸くして言った。
「自分で作るの? 外食とかはしないの?」
燃は胸を張って答えた。
「食費を削ればその分小遣いが浮く。だから近所の特売日を狙って買い物する。
必然的に自分で飯を作ることが多くなる。と言ったところかな」
「えらいわねえ。仁に爪のあかでも煎じて飲ましてくれる?
あの子ねえ、家事全般全然だめなの」
仁が帰ってくると、かれんは「洗濯物ちゃんと洗濯籠に入れなさい」と、母親のように言いながら玄関へ行った。
燃は思い出していた。
もえ……その名前で呼ばれるのは何年ぶりだろうか
今は誰もそんなあだ名で呼ばない
いつからだろう、みんなが呼ばなくなったのは
かれんは仁を風呂に入れ、再び夕食の仕度を始める。
天ぷらの衣を混ぜ、油でタラの芽を試し揚げする。
きつね色に揚がった衣と、鮮やかな緑の山菜のコントラストを愛しげに眺めながら、彼女はつぶやいた。
「きれいね。恋に落ちちゃいそう」
そうつぶやいた彼女の瞳はあまりにも透明に澄んでいた。
燃はそのことに気がつき、訳もなくドキリとする。
(なんだろうこの感覚……もえと呼ばれた時と同じ感覚……なんだか妙にせつない)
燃、かれん、仁の三人で夕食をとる。
メニューは山菜の天ぷら、山菜ご飯、山菜のお吸い物。
燃にとっては、久しぶりに**「つくってもらった」**夕食だった。
「もえちゃんは昔からなんでも一人でできる子だった。……でも、いままで色々大変だったでしょう」
燃はあわてて打ち消した。
「べ、別に大変なんて思っちゃいない。一人になっちまったんだから、どのみち家の中のことはやらなくっちゃいけない。
まともな物を食うには自分でやらなけりゃいけなかった。
それだけのことさ」
「ただそれだけのことが難しいのよ。
本当ならそんな苦労しなくてもいい筈なのに。
でも、これからは私に任せてね。
あたし決めたの。
もえちゃんのためにがんばるって」
訳もなくはりきるかれんを見て、燃は登夢やマスターの想いの意味を理解できたような気がした。
自分でも気がつかないうちに母を亡くして以来、ある飢えをいだきつづけていた。
肉親から、特に異性の肉親から示される、さりげない気遣いや思いやり。
そう、一言で言えば**「母性」**みたいなものに対する飢えを、もうずっと長い間。
燃は何か懐かしい思い出に触れたように温かさを感じた。
そして、その温かさの奥に、もう一つの感情が芽生え始めたのだった。




