午前三時のノクターン
次の日の朝もよく晴れていた。「ミンミン」とアブラゼミが元気に鳴いている。
燃は「まだまだ熱くなりそうだ」と思っていると、食卓で朝食を済ませようとしている仁に出くわした。
食卓には、生の食パンとパックのままの牛乳が並んでいる。
「おまえ、これで朝を済ませようとしていたのか」燃は呆れた。
仁は家事全般にだめだと聞いていたが、ここまでひどいとは。
「時間はまだあるな。ちょっと待ってろ」 燃はテキパキと動き出した。
トースターを出し、食パンを入れ、お湯を沸かし始める。
冷蔵庫からレタス、キュウリ、トマトを出し、氷水に叩き込む。
フライパンを温め、スクランブルエッグを作り、皿に盛る。
氷水から取り出したレタスを手でちぎり、キュウリ、トマトを輪切りにしサラダボールに盛る。
ボールにレモンを絞り、オリーブオイル、塩、胡椒入れてよく混ぜサラダボールの野菜にかける。
パンが焼きあがった頃、氷を入れたグラスに濃い目のアールグレイを注ぎ、完成。
この間、約5分。
「どうだ、こ・れ・が・朝飯だ」
燃は自慢した。
「すげえ!どうやったらそんなことできんだよ」
「ごたくはいいから早く食え。遅れるぞ」
「いけねえ!いただきマース。久しぶりにまともな朝飯だ」
仁はがつがつと食い出した。
燃は朝食を食いながら、廊下をずるずるとスリッパを引きずる音に気づいた。
のれんをくぐって、かれんがパジャマ姿のまま現れた。
「姉貴、血迷ったか。まだ7時前だぜ」
仁が驚いて言うが、かれんはぼうっとしたまま椅子に座ってしまった。
「私があ、はやおきい、したら、わるい?」
「いや、珍しくて地震でも起こるんじゃないかって」
「わたしいって、なまずさんなの?」
(ボケに磨きがかかっている。いつもの三倍ぐらいか)
燃は吹き出すのを抑え、状況を見守っていた。
仁との漫才が終わって、かれんは燃に焦点を合わせる。**「あれ、なんでこの子がここに?」から、「ああ、そうかあ」**という思考の流れが、すべて顔に現れる。
燃は耐え切れず吹き出した。
「おはよ、もえちゃん」ばつが悪そうにかれんは言った。
「おはよう。まだ休みなのか」
「うん。ああ……ふ、眠い」
かれんは顔を洗いに洗面所へ向かい、15分ほどぼうっと座り続けた後、コーヒーを淹れる。
それを一気に飲み干し終わると、ようやく目の焦点が合うようになった。
一連の儀式を終えて、かれんは燃に向き直った。
「ねえ、もえちゃん。あたしはハムエッグ食べたい」
やさしく甘えるようにかれんが言った。
「ハ、ハムエッグはいいが、その呼び方なんとかならないか」
燃は、かれんの甘えるような声にドキリとしながらどもった。
「だってえ、もえちゃんはもえちゃんでしょう?」
といって彼女はうふふと笑う。
燃は諦めてハムエッグを作り、かれんに渡した。
「上手ねえ、とってもおいしいし、いい焼き加減だわ」
「よせやい。誰が作ったってハムエッグはこんなもんさ」
照れくさくてそっぽを向くと、かれんは吹き出した。
「あららー、素直じゃないわねえ。誉められることに慣れてないの?」
「なに」
意外な一言に燃は言葉を失った。
続けてかれんが言う。
「これ、すごくおいしい。ほんとにすごくおいしいわよ」
「そ、そうかな」
「でも、ひとつだけわがまま言っていい? 黄身はもう少し固めの方が好きなの」
「おぼえとくよ。そうだ、この際だから好き嫌いリストを作ってもらえると有りがたい」
「そうね、つくっておきましょう」
かれんはまじめな顔で言い、そして付け足した。
「あなたみたいな子は好きなリストに入ります」
再び注いだコーヒーカップから立ち上る湯気の向こうで、かれんはいたずらっぽく笑った。
(詐欺だ、絶対、だまされんぞ、きっとからかっているんだ、罠に違いない)
燃がそう思っていると、食事を終えたかれんはせっせと後片付けをはじめていた。
「もえちゃん、引っ越したばかりなんだからまだお部屋片付いてないでしょう。せっかくあの部屋使うんだから楽器弾いてあげれば」
燃は素直に部屋に戻り、一日中ミキサーやドラムの調整に費やした。
一日中叩いても問題ない防音室の環境に、燃は感動していた。
その夜、燃は夢を見ていた。
周りは黒い服を着た人たち。正面の祭壇には母さんの写真が飾られていた。写真の脇には白い小さな花、勿忘草。母さんの好きな花だ。
親父は……居なかった。
仕事でどこか遠い所に居たと思う。
「キットカアサンガキライナンダ」
俺は駆け出し、翌檜の木にすがり付いて泣いていた。
誰かが俺の頭を撫でてくれた。
「もえちゃん。あたしがお母さんのかわりになってあげるから泣かないで……ね」
そう言って声の主は俺を抱きとめてくれた。
「おねえちゃん、だれ」
「あたし、あたしはね……○○○」
ベッドからずり落ちる燃。母さんが死んだ時の夢だ。
思い出したくない夢の中の女の子。
あの人は一体……。
燃は寝付けず、部屋から出た。
時間は午前3時。
かれんの部屋から明かりが漏れていた。
(全く朝弱いくせにまだ起きてるのか)
そう思った燃は、かれんの部屋へ近づいた。
かれんは起きていた。 そして、声を殺して、泣いていた。
燃は、かれんのことが気になって、あれから一睡もできなかった。
次の日の朝、朝が弱いかれんは血の気のない顔で起きてきた。
燃の第六感は「聞いてはいけない」とささやいていた。
しかし、好奇心は抑えられない。
かれんが泣いているのを発見してから約二週間。
燃はずっと観察していたが、毎晩泣いているわけではなかった。
夜遅くまで起きているときがあり、そう言うときに限って……泣いている。
そして、泣いた週末には、必ずどこかに出かけている。
なぜだ、なぜ泣いているんだ、わからん。
気になる、こうなったら今度の週末、後をつけてみよう。
ようし、ファイト、ファイトだ。
燃は、行動を起こす前に、マスターなら何か知っているかもしれないと思い、久しぶりに風見鶏へ顔を出した。
客の少ない時間帯を狙ったが、先客がいた。
それがかれんだった。
燃はあやしいという思いを隠せなかった。
ともかく風見鶏に入ってみることにした。
「どうだい、一緒に暮らしてみた感想は」
いきなりマスターが声をかけてきた。
「飯がうまい」素直に燃は答えた。 「そうか。まあ座れ」
燃はカウンターのかれんの隣に腰掛けた。
「紅じゃなくてブレンド」
燃がここでしか頼まないコーヒーを注文すると、かれんも「あ、あたしも」と言った。
(注文もしないでしゃべってたのか)
燃はますますあやしい思いを抱いた。
マスターは無言で、いつもの入れ方が手抜きに見えるくらい丁寧な手つきでコーヒーを入れる。
カップもわざわざ奥から上等なやつを出してきた。
燃の記憶では、こんな淹れ方をしてくれたことは今までにない。
燃はそのコーヒーを飲んでみた。
「うまい」思わず叫んでいた。
「本当美味しい」かれんも言う。
「当たり前だ」
マスターは言った。
そして、かれんに向き直る。
「おまえ、まだ彼氏できんのか。理想が高すぎるんじゃないか」
少しあわててかれんが言う。
「そんなんじゃなくて。こんなコーヒーを入れてくれる人なら、彼氏にしてあげてもいいかな」
そのかれんの台詞を聞いた燃の頭は妙な焦燥感に襲われた。
燃の動揺を無視して、マスターは淡々と続けた。
「良さそうなやつがいたら連れてこい。見込みがありそうなら、そうさなあ、うちのオリジナルブレンドを教えてやる。それよりどうした? 調子でも悪いのか。目の下にくまができてるぞ」
マスターがそう言った時、燃の頭にある直感がかすめて走った。
(このあいだの週末もかれんは行く先を告げずに家を空けた。そのことと、かれんの目の下の黒いくまとはなにか関係があるのでは?)
かれんの秘密のすぐ側まできているのではないだろうか。
かれんは少し困ったように笑って「心配しないで」と言った。
千載一遇のチャンスが到来した。
燃は一気に問いただそうとした、その瞬間。
チリン、チリン。
客が来た。
シャケ、登夢、雷だった。
(なんと言うタイミングの悪さ!)
燃は機会を失った。
「マスター、その人、ひょっとしてこれ?」と言ってシャケは右手の小指を立てる。
(シャケ……後で殺す。三枚におろして登夢の朝飯のおかずにしてやる)
燃はそう思った。
シャケにマスターお得意のボディブローが見事に決まる。
「ごふ……な、なんで」シャケの叫びを無視してマスターは言った。
「燃の親戚だ。燃、紹介してやれ」
「引っ越し先の親戚の杠葉かれんだ。シャケ、手だすなよ。かれん、こいつはシャケ、そんでもって奥の二人が雷と草薙」
かれんは、登夢を見て優しく微笑んだ。
「登夢くん大きくなったね。お父さんそっくり。昭おばさまはお元気ですか?」
「…………おかげさまで」
いつもより台詞の出る間が長いことを、燃は見逃さなかった。
登夢の奴、明らかに動揺している。
「登夢、何をあせっている」
燃が言うと、登夢は困ったように言った。
「………この人の前では、なにか落ちつかん」
「そんなこと言っていいのかな。あの娘に言っちゃうぞ」
シャケがここぞとばかりに攻撃する。
(全く懲りない奴だ)
燃はシャケのこりない行動を見守っていた。
「登夢くん、ちゃんと心配してくれる娘いるんだ。なんだかその娘がうらやましいなあ」
かれんはあのいたずらっぽい笑みを浮かべながら登夢に言った。
「………シャケ、後でおぼえとけよ」と、登夢が言う。
マスターの鶴の一声でみんな席についた。
みんなでたわいのない話をはじめる。
引っ越してからのこと、かれんの料理の話、話が進んで行く。
「あ、もうこんな時間。そろそろ夕食の準備をしないと」
そう言ってかれんが席を立つ。
燃も手伝いがあると言うことで一緒に帰ることにした。
「…燃、大兄さんと週末ツーリングに行くが一緒にどうだ」
「週末かあ……ちょっと無理っぽいなあ」
「…8時にうちに集合だから気が向いたらこい」
「わかった。また連絡する」
燃は、かれんの後を追った。
今日出かける気配はない。
買い物を済ませて素直に帰ってきた。
(やはり週末か……どうやらツーリングは無理だな)
燃の頭の中は、強烈な関心を抱くかれんの秘密と、その秘密に動揺する登夢の姿で満たされていた。
週末、燃は無自覚の探究心のために、かれんを追跡することを決意した。




