第108話: 王の降臨
ゾアは、ABCが繰り出す不気味な空間の「断裂」に、ようやく適応し始めていた。絶え間なく動き続け、時に紳士が仕掛ける消失点から紙一重で身をかわす。獲物の鋭敏さを察したABCは、特異な能力の使用を控え、代わりに出力に満ちた直接攻撃へと切り替えた。
両者の実力差は、依然として埋めがたい深淵のごとき隔たりがあった。ゾアにとって、爆砕を伴う一撃を数発浴びれば、死は免れない。彼が今なお立っていられるのは、彼が強いからではなく、ABCが自身の推測に確信を持てていないからに過ぎない。紳士はゾアの能力を限界まで見極め、誰が真の「鍵」なのかを確定させようとしていた。
ゾアとセシリア、二人とも殺すのは容易い。だが、ABCはその先を見据えていた。「鍵」の能力が代替可能かどうかを知る必要があるのだ。もし即座に殺したとして、ヒトミが同質の能力を持つ代わりを見つけ出せば、彼の未来図は瓦解する。対戦相手を深く理解することこそが、後に運命を支配する鍵となる。現在、ABCの能力は空間に関わるものであり、セシリアが空間を破壊できるという事実は、彼の心を激しく揺さぶっていた。ゾアが仕掛けた罠により、紳士はセシリアこそが至高の標的であると信じ込みつつあった。
そして、疑念が晴れた時、ABCがゾアに引導を渡す瞬間は刹那のうちに訪れるだろう。彼のような達人を前にすれば、わずかな隙が命取りとなる。風前の灯火とも言える絶望的な状況下で、ゾアに残された選択肢は二つ。死を待つか、あるいはABCを戦慄させるほどの狂気的な力を覚醒させるか。だが非情な現実は、後者の可能性がほぼ皆無であることを示していた。
あらゆる不利がゾアを包囲していた。標的を誤認させることはできても、消滅という結末は避けられない。時間稼ぎは、ただの絶望的な足掻きに過ぎなかった。ゾアの覚醒を促すべきアックは今、バハムートによって完全に封じ込められている。
監視室にて、アコウはすべてを見抜いていた。周囲の焦燥とは裏腹に、彼は奇妙な安心感を抱いていた。その安心感は自らの計画からではなく、ブラックウィングスの首領からもたらされたものだ。アコウは気づいた。首領の準備が百パーセント完璧であったのは、二つの要素――「未来視」と、アックの「時間加速」によるものだと。もしゾアが本当に死ぬ運命にあるならば、アックはすでに時間を巻き戻して彼を救っているはずだ。アックが動かずにいるということは、現時点においてゾアは安全であるという証左に他ならない。
「……彼は、今この瞬間に目覚めるというのか?」
アコウは画面から目を離さず、独りごちた。
覇主の荒波
戦場へと視点を戻せば、ゾアは窮地に立たされていた。ABCの打撃は重さを増し、残虐性を帯び始める。もはや手加減するつもりはない。ゾアを無用な存在と断じ、一刻も早くセシリアの元へ向かおうとしていた。ABCにとって、今セシリアと対峙しているのは足止め役に過ぎぬ配下の一人だ。彼女はまだ無事だが、ゾアにその保証はない。
ABCがとどめの一撃を放とうとしたその瞬間、粘りつくような濃密な「覇主の権力」が爆発し、目に見えぬ巨大な津波となってゲーム全体へと広がった。ABCは、自らの肩に置いていた不気味な腕が、凄まじい圧力の下で突如として霧散したことに驚愕した。彼は地面に膝を突き、荒い呼吸を繰り返す。今しがた通り抜けた驚異的な圧迫感に、肉体が抗えぬほどに震えていた。
「……一体、何が起きている? この力は……」
赤黒い稲妻が空を引き裂き、信じがたいほどの規模で拡散していく。その威圧の波に呑まれ、ゾアはいつの間にか意識を失い、その能力も自動的に解除されていた。
全世界の観客が息を呑み、次の瞬間、熱狂の渦が巻き起こった。廃墟と化した戦場、森の奥深くに佇む古き教会の尖塔に、見覚えのある人影が舞い降り、人々の視線を釘付けにした。彼は地へと降り立ち、周囲の人間をことごとく失神させた相手に立ち向かうべく、濃密な「覇主の権力」を放った。
「……何故、戻ってきた。皆が貴様を追っていると知りながら」
対峙する者がフードを脱ぐと、そこには血走った紅い瞳と、真っ白に脱色された髪があった。アコウが驚愕の声を上げる。
「市川……!」
市川は、かつて命を落とし崩れた場所へと戻ってきた。だが今回、彼は自らの脱出を助けてくれた者への恩義を返すため、そしてアスタリオンを阻止するために現れたのだ。
「……思った通り、険しい道のりのようだ。だが、彼女への恩を返すため、私はこれらの者たちと対峙し続ける」
市川の前に立つ者は、絶え間なく威圧を放ち続けていた。彼が外套を脱ぎ捨てると、そこには生気を欠いた、枯れ木のような白髪が額を覆う、形容しがたい陰鬱な姿があった。
「我はこの場に現れる必要はない。だが、汝が『女王』の言葉通り必ず戻ってくると確信していたゆえ、ここにいる」
市川は苦笑した。「貴殿の解説など不要だ。結局のところ、交戦は避けられぬ運命なのだから」
この時、アスタイル、バハムート、アック、ヴェスパー・ケイン、ツバサ、アスタリオン、そしてABC――最強の実力者たちが一堂に会していた。彼らは目の前の存在を前に、言葉を失い立ち尽くす。
それこそが、白の王国の主、「白亜の座」。世界最強の一角を担う王であった。
バハムートが焦燥に駆られて叫ぶ。
「市川!? 戻ってきて何をしようというのだ! 愚かな真似はよせ! 貴様の前にいるのは、私のような並の強者ではない。実力の差は計り知れん、退くんだ!」
市川は揺るぎない眼差しで答えた。
「……愚かにも彼を相手に選んだわけではない。ただ、運命が私をここに立たせているだけだ」
死神の舞踏
市川は自らを誇示するように「覇主の権力」を爆発させた。バハムートは、市川の力が前回とは比較にならぬほど狂気的に成長していることに気づいた。彼はまるで原始の実体、戦うたびに進化を遂げる「ガイア」の代行者のようであった。
しかし、王の前ではすべてが矮小化される。白亜の王の「覇主の権力」が爆発し、周囲の者たちが窒息せんばかりの圧力に膝を屈した。彼は透明な剣を抜き放つ。市川は危機を察知し、即座に後退を図った。だが、その足が地を離れた瞬間、白亜の王はすでに目の前に現れ、剣を振り抜く体勢に入っていた。
――閃光。
無駄を削ぎ落とした、あまりに鮮やかな一撃。市川は、二人の間に割り込んだアックが背中に深い傷を負ったのを見て、冷や汗を流した。アックは吐血し、膝を突く。彼は市川を救うべく、持ちうる最速の時間加速を用いたが、それでもなお、王の速度はそれを凌駕していた。王が剣を振ると、鮮やかな血飛沫が地を染め、透明な刃は今や深紅に染まっていた。
白亜の王は冷徹に市川を見下ろした。
「……先ほどの威勢のいい言葉は、若さゆえの自尊心に過ぎなかったのか?」
市川は微塵も揺るがなかった。アックを傍らへと支え、再び立ち上がる。その佇まいは自信に満ち溢れていた。
「……どうやら今回は、身の程を知らぬ強敵を相手にしてしまったようだ。だが、貴殿が神であろうとも、私は立ち向かう」
市川は白い稲妻と化して奔り、敵へと雷鳴のごとき突きを放った。空気を震わせる衝撃波が沸き起こり、吹き荒れる風に周囲の者たちは踏ん張るのを余儀なくされる。しかし、市川の瞳が驚愕に見開かれた。白亜の王は、刹那のうちに彼の手首を掴み取っていたのだ。
「……若者とは、行動よりも先に、自らを危険に見せたがるものだな」
王は無慈悲に市川を地へと叩きつけた。吐血した市川は、続く刺突を逃れるべく瞬時に光の転移で距離を取る。白亜の王はもはや遊びを止めていた。経験が彼に告げていた。将来有望な芽は、長引かせることなく摘み取るべきだと。彼は終焉を決断した。
赤黒い稲妻が奔り、白亜の王は亡霊のごとき速さで肉薄した。凄絶な威力を伴う一閃が市川を岩壁へと吹き飛ばす。立ち込める煙と塵の中、市川は深い切り傷を負い、意識を失って倒れ伏した。完全なる敗北であった。
白亜の王はそこに立ち、身に纏う赤黒い電光を明滅させ、恐怖に駆られる周囲の者たちを後退させた。彼は静かに告げる。
「……終わりだ。任務は完了した。女王の憂いは、これで潰える」
彼が市川に止めを刺そうと腕を振り上げた瞬間、眩いばかりのルビーの棘が突如として爆発し、鉄壁の防壁を形成した。王は間一髪で腕を引き戻す。背後にはアスタイルが姿を現し、覚醒した「覇主の権力」が渦を巻いて白亜の王の傍らを通り抜けた。
沈黙を守っていた王が、ゆっくりとアスタイルへと顔を向けた。
「……自分だけがここにいると思うなよ」アスタイルは声を荒らげ、その瞳に激情を宿した。「俺たちの個人的な因縁は、まだ終わっちゃいないんだ……。なあ、古き友人よ」




