39話
それから…1ヶ月近くが過ぎた。
私は毎日、志緒理さんのお見舞いに来ている。
このあたりでは、一番大きな市立病院。いろんな検査をして、いろんな治療がされたけれど…志緒理さんは、あれから一度も目を覚まさない。
お医者さんはみんな、口を揃えて「身体のどこにも異常はない」と言っているけれど…。扇柳さんが言っていた、魂の損傷が原因だとしたら、いったいどうすればよくなるのか…。私には見当もつかなかった。でも、なぜだろう。不意に目を覚ましてくれる気もして…。だからお見舞いを続けている。
志緒理さんの入院している部屋は、13階の角にある個室だ。長期入院を余儀なくされている人だけが集められているせいか、訪れる人も少なく、いつ来ても閑散としていて、時折看護師が見回りに来る以外は、物音もほとんどしない。
最初に来たときは、すごく不気味で怖い感じがしたけれど、毎日通ううちに、すっかり慣れてしまった。眠っている志緒理さんの横でする夏休みの宿題は、案外はかどる。
今日は夏休み最後の日だったけれど、特に行きたいところもなければ、遊ぶ予定もなかった私は、いつものように面会時間いっぱいまで病室で宿題に励んでいた。
「じゃあ、また明日来ますね」
そう声をかけても、志緒理さんは目を閉じたまま、やはり今日も微動だにしない。
私は寂しく笑うと立ち上がり、引き戸のレバーに手をかけようとした。
そのときだった。
コ、コ、コ…
──この音。
私は、ハッとして振り返った。
部屋の中から聞こえたように思えたからだった。
けれど、志緒理さんに変化はないし、部屋には他に誰の姿もない。
私は、いつのまにか吹き出ていた額の汗を拭うと、フゥと息を吐いた。
──気のせいだろうか。
うん、気のせいだろう。だってヒイミさまのわけがない。たぶん、ドアが軋んだ音だ。
だってあのときの仮屋町は…四方八方が炎で囲まれた状態だったのだ。ヒイミさまが生き残っているとは思えない。
──あの日の晩。
仮屋町はすべての建物が焼けた。
多くの焼死体が発見され…世間ではちょっとした騒動になった。
はじめのうちは、痛ましい事件として報道された程度だった。
けれど、仮屋町という名前が一般的になるにつれ、ネット上の誰かが気づいた。
先輩の撮った《呪いの動画》の舞台が、この町であることを。
それから一気に、報道が加速した。
今でもテレビをつければ、どこのチャンネルも特集を組み続けているし、ネットでも掲示板やSNSで連日のように書き込みが続いている。そのほとんどは、被害者を揶揄する目を覆いたくなるようなものばかりだけれど。
唯一救いなのは…。
あの日以来、自分で自分の首を絞める自殺がすっかりなくなったことだ。ヒイミさまの呪いは本当に解けたのだ。私は、それだけは誇らしい。戦った甲斐はあったと思う。
戦ったと言えば…。
森繁先生は、引っ張りだこのようだ。実際に呪いを取材し、解決に向けて活躍した学者として、講演やテレビ番組出演などが相次いでいる。
お父さんは警察を辞めることにした。今はたまりにたまった有給休暇を消化中で、毎日家でごろごろしている。お母さんが爆発するのも時間の問題だろう。
仮屋町の跡地は、江戸時代に呪術の町だったことが知れ渡ったせいで、近隣はもちろん、遠くの町からも、毎日のように心霊ツアーにやってくる不届き者が絶えないと聞いた。
以前の私なら、迷わず探索に出かけただろうけれど、今はとてもそんな気になれない。目を閉じれば今でも、あの晩見た燃えさかる炎がまざまざと蘇ってくる。そして、その炎の中に姿を消した、里桜の背中も…。
ああ、里桜。
彼女のことを考えると気分が沈む。
大火事のあくる日…。
私はお父さんに連れられて、仮屋町で見つかった焼死体を並べた倉庫のような場所に行った。正直に言うと、私は行きたくなかった。でも、遺体のほとんどは丸焦げで、歯や装飾品などの限られた遺品から身元を特定するよりほかなく…。警察の人にどうしてもと頼み込まれたら、お父さんのためにも、断れなかったのだ。
危惧していたとおり、遺体の前に立つと、足がすくんで動けなかった。この中に里桜がいるかと思うと、自分の気持ちを抑えられるか不安でいっぱいだった。だけどお父さんに励まされて、なんとか私は遺体を一つ一つ見ていった。全部で何体あったのかは、あまり覚えていない。でもはっきりと言えるのは…その中に里桜はいなかった、ということだ。
もちろん丸焦げで顔なんかまったくわからない。だけど骨格や背格好が里桜らしい遺体は一つもなかったし、なにより手鏡の遺品がなかった。いくら燃えたといっても、鏡面や柄の欠片くらいは残るだろう。
私はお父さんにその疑問をぶつけた。
遺体がないということは、生きているのかもしれないからだ。
お父さんは「なるほど」とつぶやいて、しばらく考えこんでいた。
でも結局、首を横に振りながらこう言った。
「おそらく骨が残らないくらい焼けてしまったんだろう。よく火葬場でも、灰だけになってしまうことがあるらしいからな」
私にはとってつけたような屁理屈に聞こえた。反論できるほどの根拠はなにもなかったから、黙っているほかなかったけれど、心のどこかで私は信じていた。彼女が、まだ生きていると。
だから、ずっと連絡を待ち続けた。実を言えば、志緒理さんのお見舞いに来続けているのも、里桜が志緒理さんを訪ねる可能性を考えてのことだった。
なのに…。
ひと月近くたった今でも、なんの音沙汰もない。やっぱり、思い過ごしだったのだろうか。そう考えると憂鬱になってしまうのだ。
私は首を小さく振ってため息をつくと、病室のドアを閉めた。
病院の廊下は薄暗く、20メートルほど向こうの曲がり角まで蛍光灯が消されている。発電所の供給量が間に合わない可能性があるとかで、節電が呼びかけられているからだ。
私はその薄暗い廊下を、コツン、コツンと靴音を鳴らして歩き始めた。
すると、そのコツンという音に混じって、不意に違う音が聞こえてきた。
コ、コ、コ…
私は足を止めて、耳を澄ませた。
また気のせいかと思ったのだ。
でも違った。
足を止めても聞こえてくる。
コ、コ、コ…
私の額に再び汗がにじみ出た。
コ、コ、コ、ココココ…
私は、全身に寒気が走るのを止められなかった。
目をこらすと、曲がり角の向こうに、もそもそと蠢く四つん這いの黒い影が見えた。
あの影には見覚えがある。
忘れたくても忘れられないあの異形の怨霊…。
──戻ってきたのだ、ヒイミさまが。私を呪い殺すために。
ココココ…ココココ…
曲がり角の向こうから、白く細い腕がヌッと現れた。1本、2本…。さらにもう2本の腕も見えてくる。そしてその腕にかかえられた髪の長い生首…。
ココココ…ココココ…ココココ…
喉の奥を潰したような音を発しながら、生首が私の方を向いた。
その顔を見て、私は思わず「あっ」と叫んだ。
「里桜…」
涙が一筋、頬を伝う。
ああ、こわい。
これが…これが死ぬということなのね。
おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。
私、頑張ったよ。
頑張ったけど、ダメだったの。だからゆるして。
できることならだれか。
だれかおねがい。
おねがいだから、この呪いを止めて。
そして、私はそっと目を閉じた。
(ヒイミさま - 幕 -)
応援ありがとうございました。




