父王の命令
翌朝の私は、一言でいえば最悪だった。
頭は鉛のように重く、目を閉じるたびに昨夜の湖がまぶたの裏によみがえった。血に濡れた王冠。白い衣の女の声。
夢だった、と言い張ることもできたはずだ。だが足の裏にはまだ石段の冷たさが残っている。おまけに胃の奥まで冷えていて、どうにも現実感がありすぎた。
私は寝台の縁に座ったまま、現実逃避のために朝食へ意識を集中させた。無花果入りの平たいパンをひとかじりする。美味しい。何しろ転生である。状況は良いとは言えないが、パンは優秀だった。
「本日は正午に父王さまがお召しでございます」
背後で髪を梳いていた侍女のイラスが、淡々とした声で告げた。
「お支度は念入りに、とのことです」
「念入りに、ね」
「重臣の方々もお揃いだそうです」
鏡の中の私は、たしかに王女だった。金の飾り紐を編み込まれ、目元には青が引かれ、昨夜の寝不足は白粉で丁寧に隠されていく。
隠されるだけで、消えはしない。
それは隈に限らず、この宮廷にある大抵のものに当てはまりそうだった。
私は鏡の中の自分に向かって、心の中だけで言う。
来たか。
父王が重臣を揃えて娘を呼ぶとき、議題はたいてい本人のいないところで大筋が決まっている。大学の教授会でも似たような光景は見た。“相談”の形をした決定ほど、信用ならないものはない。
アルシノエの顔が脳裏をよぎる。
昨夜、あの湖で見たものがただの幻でも構わない。問題は、幻でなくても十分に起こり得る未来だということだった。
*
正午前、私はイラスを従えて宮殿の長い柱廊を歩いていた。金と青で彩られた柱列のあいだを、香の匂いが薄く流れていく。謁見の間へ続く途中で、私はふと足を止めた。
声がした。
「……されば、下の姫君は幼いうちに神殿へ預けるのがよろしいかと」
しゃがれた男の声。財務官カリクラテスだ。
イラスが不安そうに私を見上げた。私は指先だけで黙るように示し、柱の陰に身を寄せる。盗み聞きなど品のいい趣味ではない。だが歴史を学ぶ者は、一次史料の誘惑に抗えない。
「神殿へ?」
低く応じたのは宰相格のヘリオドロスだった。
「巫女として仕えさせれば、王位継承からは外れましょう。幼いうちなら反発も少ない。姫君ご自身の御身のためにも、静かな暮らしができます」
「静かな暮らし、か」
その声音には、薄い笑いが混じっていた。
「姉君と妹君が並び立てば、いずれ必ず争いが起こります。芽は小さいうちに摘むべきです」
「摘む、とは穏やかでない」
「比喩でございますよ」
比喩。
私は無意識に掌を握りしめていた。爪が食い込む。昨日、私に全身でぶつかってきた小さな体温。前歯の抜けた口で蛙の話をしていた笑顔。あれが今、比喩ひとつで整理され、処分されようとしている。
腹の底が冷えた。
怒りは、熱くなるとは限らない。一定の温度を超えると、むしろ澄んで冷たくなるらしい。
私は一度だけ深く息を吸った。顔の筋肉を緩める。口角をほんの少し上げる。
研究者の表情筋は愛想笑いに鍛えられている。権威ある年長男性の機嫌を損ねずに反論する技術は、大学でも宮廷でもそれなりに有効だ。
「クレオパトラさま……」
イラスが小さく囁く。
「大丈夫」
そう答えた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
*
謁見の間は眩しかった。金と青の壁画、磨かれた石床、香木の煙。玉座には父王プトレマイオス十二世が、半ばもたれかかるように座っていた。
後世の歴史書では、彼はしばしば笛吹き王と呼ばれる。遊興好きで、浪費家で、ローマに金でしがみつく愚王。
実物は、想像よりずっと小柄だった。頬は赤く、指には指輪が重たげにはまり、足元には本当に笛が転がっている。だが、酔った目の奥に、ときおり鋭い光が走る。完全な愚者ではない。ただ弱く、怯え、王座から降りられない男だ。
「おお、来たか。我が娘」
父王が手を振った。
「座れ。……いや、立っておれ。やはり座れ」
酔っている。間違いなく。
私は一礼して席に着いた。居並ぶ重臣たちの視線が一斉に集まる。歓迎ではない。観察だ。値踏みだ。
カリクラテスが一歩進み出た。
「陛下。かねて申し上げておりました件、姫君の御前でお諮りしてもよろしゅうございますか」
「ああ、あれか。やれ」
父王は興味なさそうに杯を傾けた。
カリクラテスは、いかにも国家を憂う忠臣らしい顔で口を開く。
「王家の安定のためには、継承の筋道を早くから整える必要がございます。アルシノエ姫殿下は、まだ幼く、政に関わることもございません。ならば神殿へお入りいただいても何も失われはいたしますまい」
流れるような論旨だった。丁寧で、理性的で、一見すると慈悲深い。
恐ろしいのは、そのどこにも露骨な悪意が見えないことだ。
殺意は、もっとも礼儀正しい形で現れることがある。
「いかがですかな、クレオパトラさま」
カリクラテスがこちらを見た。
「姉君としてご賛同いただければ、陛下も安心なさりましょう」
なるほど。欲しいのは同意そのものではない。姉が妹を差し出した、という印だ。
私は微笑んだ。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「何なりと」
「神殿に預けられた王族が、のちにまったく政治と無縁でいられた例を、どれほどご存じですか」
カリクラテスの眉が、わずかに動いた。
「……と申しますと」
「王家から外された者は、消えるのではありません。保存されるのです」
重臣たちの顔を見回す。
「本人に野心がなくとも、周囲は勝手に旗印にします。王位に近かった、というだけで価値が生まれるからです。神殿に入れれば静かになるどころか、いずれ不満を抱く者たちの拠り所になります」
言いながら、私は心の中で綱を渡っていた。
この理屈は通る。通るはずだ。だが通ったところで、次に来る問いもわかっている。
ヘリオドロスが、案の定その先を引き取った。
「では、姫君は妹君を宮廷に置き、将来の争いを待てと?」
柔らかな声だった。
だが鋭い。こちらが穴をひとつ塞げば、別の穴をすぐ刺してくる。
私は一拍、沈黙した。ここで言葉を選び損ねれば終わる。
私は自分の膝の上で、指先をそっと組み直した。
「いいえ。争いが起きないよう、先に王家を立て直すべきです」
数人が顔を上げた。父王の杯が止まる。
「立て直す、だと?」
父王が初めてこちらを正面から見た。
その視線に、酔いだけではないものが混じる。私はそこで初めて、自分の喉がからからに乾いていることに気づいた。
ここから先は賭けだ。
「陛下。昨年のナイルは十分には増水しませんでした」
言ってしまってから、一瞬遅れて背筋が冷えた。早すぎたかもしれない。父王の無知を責めているようにも聞こえる。
だがもう引けない。
父王は眉をひそめた。
「……そうだったか」
「そうでした。ですが税は例年通りです。収穫が減った年に同じ額を求めれば、農民は隠します。隠された穀物は市場に出ません。市場に出なければ値は上がります。そうなれば民は陛下を恨みます。けれど国庫は、それほど潤いません」
広間に沈黙が落ちた。
カリクラテスが口を開く。
「姫君。税とは国家の柱にございます。年ごとに揺らげば、かえって混乱を招きましょう」
来た。反撃だ。
私は内心で息を吐く。ここで議論が一往復増えたことが、むしろありがたかった。この場が私へのお情けではなく、ちゃんと勝負の場になる。
「ですから、揺らぎを見越して基準を決めるのです」
私は答えた。
「ナイルの水位に応じて徴税額を変える。基準は官吏の報告ではなく、神殿が管理する水位記録に置く。そうすればごまかしにくい」
ヘリオドロスが髭を撫でる。
「神殿の力を強めることになりますな」
「王家に逆らう神殿なら問題です」
私は言った。
「けれど、王家が穀物価格を安定させ、民の不満を抑え、神殿の記録を公の基準として認めるなら、神殿は王家に恩を感じます。敵に回るより、味方にしたほうが安い」
少し言いすぎた、と思った。安い、は王女の言葉としては露骨だ。
案の定、何人かの重臣が顔をしかめる。
だが父王は、逆にそこへ食いついた。
「安い、と申したな」
赤い頬の奥で、目だけが光っている。
「はい」
私は腹を括った。
「もうひとつ。増水のよい年に、王家が穀物を買い上げて蓄えます。不作の年にはそれを放出し、都の値を抑える。全部を一度に変える必要はありません。まずはアレクサンドリア周辺だけでもよい」
これなら絞れる。昨夜までなら、私はもっと細かく制度設計を語っていただろう。だが今は論文審査ではない。欲しいのは納得ではなく、父王が“使える”と思うことだ。
「民は飢えにくくなり、王家は値上がりのたびに恨まれずに済みます。徴税が安定すれば、借りる金も減らせる」
借りる金。
その一言で空気が変わった。
父王の指先が、杯の縁を強く叩く。重臣たちの視線も揺れた。ここが傷口なのだと、あまりにわかりやすかった。
私は続けるべきか迷った。これ以上踏み込めば、父王の矜持を潰しかねない。
だが迷った一瞬を、ヘリオドロスが見逃さなかった。
「借りる金、とは、つまりローマへの支払いのことですかな」
罠だった。
ここで曖昧に濁せば腰砕けになる。はっきり言えば、王の傷を公の場で撫でることになる。
私は心の中で舌打ちした。
やはりこの男は厄介だ。
「……はい」
広間が水を打ったように静まる。
父王の機嫌を損ねたかもしれない。胸の奥で心臓がひどく嫌な打ち方をした。十歳の身体は小さすぎる。いざとなれば簡単に握りつぶせると、周囲に思い出させるには十分な小ささだ。
だが、父王は怒鳴らなかった。
しばらく私を見つめたあと、ふいに笑った。
「は、はは……」
乾いた笑いだった。
「面白い。余の前で、その言葉を口にするか」
私はすぐには返事ができなかった。言い訳を探したところで見苦しいだけだ。
「恐れながら」
やっと声を出す。
「ローマへ頭を下げる回数を減らせるなら、それは陛下のためです」
賭けだった。父としてではなく、王としての自尊心に訴える賭け。
父王は黙ったまま、指で杯を回した。重臣たちの誰も口を挟まない。少しでも空気を読めば、ここが王と娘の駆け引きの場に変わったことくらいわかる。
やがて父王は、小さく鼻で笑った。
「書物を読んでいるだけの娘だと思っていたが」
目が細まる。
「書物から、なかなか厄介なものを拾ってきたな」
「お役に立てるなら」
私は答えた。心の中では、お願いだからこれ以上突っ込まないで、と半分祈っていた。
するとカリクラテスが、やや硬い声で言った。
「陛下。姫君のお考えは興味深くございます。ですが、税も穀物も、軽々に王女のお遊びへ委ねるべき事柄では――」
「お遊びか」
父王が遮った。
声は静かだったが、先ほどまでよりよほど冷たい。
カリクラテスが口を閉じる。
父王はゆっくりと立ち上がった。背は高くない。だが王座の段上にあるだけで、人はたやすく見下ろせる位置に立てる。
「ではおまえに問う、カリクラテス。余にローマへ借りずに済む策があるのか」
「……今すぐには」
「ならば試す価値はある」
父王は私へ視線を戻した。
「よかろう。クレオパトラ、おまえの申したこと、試しにやってみよ。すべてではない。まずは水位に応じた徴税の見直しと、王家の穀物蓄えについて、案を形にしろ」
思ったより絞ってきた。
そのことに、私は逆にぞっとした。酔っているようでいて、この男はちゃんと聞いている。使える部分だけを抜き出している。
「財務官と神殿側の記録係をつける」
父王は続けた。
「失敗すれば、おまえの責めだ。うまくいけば、余の功だ」
広間のあちこちで、ごく小さく息を呑む音がした。
私は頭を下げる。
「かしこまりました」
胸の内側では、ようやく通った、という安堵と、通ってしまった、という恐怖が同時に広がっていた。口にした以上、もう引き返せない。これは“賢い娘だね”で済む座興ではない。実務だ。失敗すれば笑われるだけでは済まない。
そして父王は、まるでそれが本題だったことを思い出したように、杯を持ち上げた。
「さて。もうひとつの件だ」
アルシノエ。
その名が出る前から、私は背筋を固くしていた。
「下の姫を神殿へやるか、宮廷に置くか」
父王は面倒くさそうに言った。
「余には、どちらが正しいのかよくわからぬ。だが」
そこで彼は、ほんのわずかに口元を歪めた。
「おまえは守りたいのだろう」
私は黙って頷いた。
「ならば、おまえに任せる」
広間にざわめきが走った。
カリクラテスが一歩出かけ、だが父王の顔を見て止まる。ヘリオドロスだけは、薄く笑っていた。ああ、この男はわかっている、と思った。
これは信頼ではない。
父王は続ける。
「妹の行く末は、姉であるおまえが決めよ。神殿へやるも、ここに置くも、おまえの裁量だ。余は口を出さぬ」
やはりだ。
優しさに見える言葉ほど、宮廷では疑うべきだ。
アルシノエに何かあれば、それは私の責任になる。ここに置いて争いが起これば、私の責任。外へ出して利用されても、私の責任。姉妹の首に同じ縄をかけ、その端を私に握らせるつもりなのだ。
しかも重臣たちの前で。逃げ場がないように。
父王は愚かかもしれない。だが愚かであることと、責任を押しつける嗅覚を持たないことは別だ。
私は立ち上がった。膝は震えそうだった。だが震えを見せるわけにはいかない。
「お任せくださいませ、陛下」
自分でも驚くほど声は静かだった。
父王は満足げに頷き、杯を傾けた。話は終わりだという合図だった。
私は深く一礼して、謁見の間を辞した。
廊下へ出たところで、足が止まった。
すぐには歩けない。喉がひどく渇いている。手のひらに汗がにじんでいた。あの場では平気な顔をしていたくせに、身体だけが遅れて怯え始める。膝が笑うとは本当らしい。
「クレオパトラさま」
イラスがそっと呼ぶ。
「お水をお持ちしましょうか」
「……お願い」
情けないほど小さな声になった。
イラスが下がるのを見送り、私は柱にもたれた。石の冷たさが背中に触れる。
やってしまった、と思った。
妹を守るために前へ出る。昨夜そう決めた。決めたのは私だ。ならば後悔すべきではない。
それでも怖いものは怖い。
私はたった今、重臣たちの前で自分を“使える駒”として差し出したのだ。父王は面白がって拾った。うまく動けば前に出され、失敗すれば切られる。
そしてアルシノエの未来まで背負わされた。
遠く、庭のほうから蛙の鳴き声がした。
続いて、あの笑い声が聞こえる気がした。前歯の抜けた、あけすけで、無防備な笑い声。
胸の奥が、妙に静かになった。
怖い。だが、それでも。
私は顔を上げた。
あの子に何と言えばいいのだろう、と思う。
けれど本当は、もう答えは決まっていた。
守る、と言うしかない。
願いではなく、責任として。




