史実では、私が妹を殺す
目を覚ました瞬間、締め切りに間に合わなかった、と思った。
大学の資料室で寝落ちしたのだ。紀要の原稿の締切までは三日しかなく、机の周りにはストラボンもカッシウス・ディオも積み上がっていた。三十六歳、独身、古代地中海史専攻。徹夜明けに文献の山を枕にするのは、もはや研究者の生活習慣病である。
そこまでは覚えている。
だが、背中にあるのは固い床ではなかった。沈み込むほど柔らかな寝台。鼻を打つのは紙と埃の匂いではなく、乳香と没薬と、ひどく甘い花の香り。私は反射的に手を持ち上げた。
知らない手だった。
白く細い。小さい。乾燥でひび割れた指先でも、ペンだこが固く盛り上がった中指でもない。喉の奥がひやりと冷えた。
そのときだった。
「お目覚めですか、クレオパトラさま」
私は固まった。
枕元に立つ少女は、孔雀の羽の団扇を持ったまま、不安そうにこちらを見ている。褐色の肌、黒い瞳、亜麻の衣。問題はそこではない。彼女の言葉を、私は完璧に理解していた。
ギリシャ語だ。
しかも教科書の中の乾いた言語ではない。宮廷で日常的に使われる、よく馴染んだコイネー。大学院時代に七年も格闘したはずの語形変化が、いまは呼吸みたいに自然にわかる。
「……今は、王の治世何年」
自分の口から出た言葉までギリシャ語だった。ぞっとした。
「二十二年でございます」
プトレマイオス十二世治世二十二年。
頭の中で年表が弾けた。紀元前五十九年。アレクサンドリア。父王はまだ健在で、ローマへの巨額の献金に財政は疲弊している。だが王家の兄弟姉妹は、まだ誰ひとり欠けていなかった。
そして、クレオパトラも。
私は寝台の縁を握った。青銅の鏡を持ってこさせる余裕すらなかった。見なくてもわかる。この若い身体、この部屋、この言葉。誰かが悪趣味な歴史再現をしているのでなければ――いや、していたとしても規模が大きすぎる。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「姉上!」
小さな嵐が飛び込んできた。
六つか七つほどの少女が、裸足のまま絨毯を蹴って一直線にこちらへ走り、私の腰に全力で抱きつく。寝台が揺れ、私は危うく後ろへ倒れそうになった。
「聞いて、今朝、にわのいけにね、すごくおおきなカエルがいたの! これくらい!」
両手をいっぱいに広げてみせた顔を見た瞬間、私は息を止めた。
栗色の髪。日に焼けた頬。笑うと風が抜ける、前歯の欠けた口元。史料の文字列としてなら何度も読んだ名前が、血の通った子どもの姿で目の前にあった。
アルシノエ。
クレオパトラの妹。のちに王位を争い、ローマの凱旋式で鎖につながれ、最後には殺される。
そして――
殺すのは、私だ。
そういう歴史になっている。
私はこの子を殺すのだ、と頭のどこかが冷たく告げた。
「姉上?」
アルシノエがきょとんと首をかしげた。蜂蜜と寝汗と、子どもだけが持つ太陽の匂いがした。史料に匂いは載らない。体温も重さも載らない。こんなふうに無防備に抱きついてくることも。
「……ないてるの?」
「泣いてない」
「ないてる」
「蛙が大きすぎたのよ」
我ながら意味不明だったが、アルシノエは真面目に頷いた。
「わかる。おおきいものはこわいよね」
小さな手が、私の頬をぺたぺたと撫でた。慰めているつもりなのだろう。そんな仕草ひとつで胸の奥が切れるように痛んだ。私は思わず笑ってしまい、そのせいで涙が一筋こぼれた。
だめだ。
これは史料ではない。紙の上の合理ではない。生きた子どもだ。
「姉上、きょうは、いっしょにおいけを見に行ける?」
迷う理由がなかった。
「行く」
私が即答すると、アルシノエは花が咲くみたいに笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は理解した。ここがどれほど危険な場所でも、この子を史実どおりには死なせない。そう決めてしまった以上、もう後戻りはできない。
ただの感傷だと笑う声が、研究者の私の中で冷静に囁く。王家の兄妹姉妹が殺し合うのは珍しいことではない。国家運営とは綺麗事で動かない。いずれこの子が私の敵になる可能性だって高い。
知っている。
知っていてなお、私はこの子を抱き返した。
「ほんとう? やくそく?」
「約束」
アルシノエは満足そうに頷くと、ようやく私から離れた。その背中を見送りながら、私は息を吐く。泣いている暇は終わりだ。ここが本当にアレクサンドリアの宮廷で、私が本当にクレオパトラなら、生き残る条件はひとつしかない。
頭を使え。
私は侍女に衣を整えさせながら、矢継ぎ早に質問を投げた。父王の所在、王子たちの近況、昨夜の宴席、宮廷に出入りするローマ人の名。侍女は戸惑いつつも答えた。断片を拾うだけで十分だった。史料の空白に肉がつき、記憶の中の年表が現実の配置図へ変わっていく。
父王プトレマイオス十二世。民衆には不人気だが、ローマへの献金で王位をつなぎとめる男。長女ベレニケは父王への反発を強め、弟たちはまだ幼い。宮廷は香を焚き、宝石を磨き、笑顔で毒を隠す場所だ。
なるほど。最悪だ。
だが、最悪であるほど私には理解しやすい。大学の研究室政治を十倍ほど悪辣にして、剣と毒杯を足せばたぶん近い。
朝の講義では、教師が王家の系譜について当たり障りのない説明を始めた。私は一通り聞いてから、穏やかに二つ訂正した。ひとつは王家が主張するアレクサンドロス大王との連続性。もうひとつは、シリア王家との婚姻関係の説明だ。
教師は笑顔のまま凍った。
「……さすがはクレオパトラさま」
その声の奥にあるのは称賛ではなく警戒だった。結構。侮られるよりははるかに良い。
*
昼前、私は約束どおりアルシノエと庭へ出た。蓮の池の縁に並んで座り、二人で蛙を探す。王宮の庭はよく手入れされていて、白い石畳に日が照り返し、水面には青空がちぎれて揺れていた。
アルシノエは水を覗き込みながら、ちらちらと私を見上げた。
「姉上、きょう、やさしい」
「いつも優しいわ」
「ううん、きょうはちがう。なんだか……ずっとここにいてくれそう」
その言葉に、胸が詰まった。
未来を知らない子どもの願いほど残酷なものはない。だが私は知っている。父王は失脚し、王家は裂ける。兄弟姉妹は王座を巡って争い、血を流す。アルシノエもまたその渦から逃れられない。やがて彼女は、私と敵対することになる。
だが、それはまだ未来だ。決まった事実ではない。少なくとも、私がここにいる限りは。
「いるわ」
私は妹の頭を撫でた。
「何があっても、あなたをひとりにはしない」
アルシノエは目を丸くしてから、猫みたいに目を細めて私の手に額を押しつけた。その無防備さに、胸の奥で何かが決壊した。
私はこの子を守る。
そのために必要なら、史実でも、常識でも、王家の作法でも、全部ひっくり返してやる。
*
夜、私は眠れなかった。
身体は疲れているのに、頭だけが冴えている。寝台を抜け出して薄い外套を羽織り、裸足のまま廊下へ出た。夜番の衛兵は柱にもたれて半分眠っている。王家の警備としては三流だが、忍び歩く側にとってはありがたい。
昼間、ふと気になった場所があった。宮殿の外れ、古い回廊の壁面に刻まれた文様。プトレマイオス朝の装飾にしては古すぎる。むしろ、王朝以前の宗教意匠に近い。あの違和感が喉に刺さった小骨みたいに抜けない。
研究者の悪癖だった。気になるなら確かめるまで眠れない。
回廊の奥には、小さな扉がひとつあった。昼には気づかなかったが、近づくと下から湿った冷気が流れてくる。鍵はかかっていない。
開けるべきではない、と理性は言った。
開けなければ一生気にする、と好奇心が返した。
後者が勝った。
石段は長く、地下へ地下へと続いていた。降りるほどに空気が冷たくなり、香の匂いは消え、かわりに生水の気配が濃くなる。やがて視界がひらけた。
広い空洞だった。
天井は闇に溶け、壁には古い文様が淡く青白く光っている。その中央に、湖があった。
宮殿の地下に、こんなものがあるはずがない。
そんなはずはないのに、水面は鏡のように静まり、見えない月を映したみたいに銀色にひかっていた。私は湖畔で立ち尽くす。ここは史料にない。発掘報告にもない。私の知識のどこにも存在しない。
背後で衣擦れの音がした。
振り返ると、女が立っていた。年齢のわからない女だった。若くも見え、老いても見える。長い黒髪は濡れたように肩へ貼りつき、白い衣もまた水を吸った布のように身体の線へまとわりついている。足音は聞こえなかった。
女は私を見ると微笑んだ。そこには同情と諦めと、ほんのわずかな愉快さが混じっていた。長く待ち続けた客がようやく現れたものの、どうやら予想より頼りなく見える。そんな笑みだった。
「あなたはまだ 何も知らないのですね」
骨に直接触れるような低い声だった。
女は私の隣に膝をつき、白い指を水面に差し入れた。波紋が広がり月の影がいくつもの形に崩れた。
「ご覧なさい」
のぞきこむと映っているはずの私の顔はそこになく、かわりに一つの王冠が浮かんでいた。黄金の蛇が額を飾る古い王冠で、その黄金は血に染まり、赤黒い雫が縁を伝ってゆっくりと水の底へ落ちていく。波紋が広がるたびに、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。前歯の抜けた、蛙の話をするときの笑い声だった。
女は、私の肩に冷たい手を置いて歌うように言った。
「湖にまた来なくてはいけませんよ」
慰めのようでも宣告のようでもあった。
「いつ」
ようやく出た声は自分のものと思えないほどかすれていた。
「どうして」
女は答えず、水面へ目を戻した。血に濡れた王冠の下に、小さな栗色の何かが沈んでいるのが見えた。
私は、愛というものが厄介な病であることを思い知った。一度かかれば、未来が見えていてもいなくても、人を愚かな賭けへ駆り立てる。勝ち目も保証もなかった。それでも蛙の話を聞き、約束を交わしたあの瞬間、私は賽を投げていた。
何もしなければ、アルシノエは死ぬ。
あまりに単純で、あまりに残酷な答えだった。
だが同時に、それは救いでもあった。未来は決まっていない。少なくとも、何もしなければそうなる、という程度には。
私は湖畔に膝をつき、水面に映る自分の顔を見た。
クレオパトラ。いずれ滅びの女王と呼ばれる娘。男を惑わせ、国を傾け、最後には自分も滅ぶと後世に書かれる女。
だとしたら結構。
どうせなら、史料の行間まで裏切ってやる。
「聞いているんでしょう」
誰にともなく、私は言った。
「王座が要るなら取る。妹を守るために必要なら、父の寵愛も、宮廷の舌も、重臣どもの腹の底も、全部利用してやる」
湖は何も答えない。だが静かな水面の奥で、銀の光がひとすじだけ揺れた。
「だから見ていなさい」
私は立ち上がった。
「私はあの子を殺さない」
たぶん、今日から忙しくなる。
父王は無能ではない。ただ臆病で、ローマに依存しすぎている。重臣たちはその隙を埋めるふりをして、自分の利益を数えている。王子たちは駒となり、王女たちは婚姻の名で政争へ投げ込まれる。
その中でアルシノエを守る方法は、もうわかっていた。
隠すことではない。
私が王座に近づくことだ。
誰もあの子の運命を勝手に決められない場所まで、自分を押し上げることだ。
まだ何も始まっていない。
けれどもう、始めるしかない。




