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遥かなる居場所 その値段  作者: 茶川屏
第三章 1999年 Revenger,again
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第二十六節

 8月24日。

 東大阪は、朝から晴れていた。

 日が高くなるにつれ、町工場の波板屋根が白く光り始めた。

 路地のアスファルト。

 コンクリートの壁。

 鉄製のシャッター。

 どれも日差しを受け、熱を溜め込んでいる。

 風はほとんどない。

 換気扇から吐き出された熱気と機械油の匂いが、建物の間に留まっていた。

 西尾興業事務所。

 二階では、道路側の窓が閉められていた。

 冷房の送風口が、ゆっくりと左右に動いている。

 階段へと続く扉には一枚の張り紙。

 『夏休みの宿題中。邪魔するな』の文字。

 鍵もかかっていた。

「はーい、ここ、ばーつ!」

 楽しそうな声が容赦なく赤を付ける。

 嘘やん。

「えぇー。そこまで赤つけんのぉ?」

 遼太郎が声を上げた。

 身を乗り出した拍子にソファの生地が擦れる音がする。

 応接スペース。

 漢字ドリル。

 筆箱。

 マグカップ。

 カップラーメンの空き容器と割りばし。

 昼に二人でやった悪事。

 親に黙ってカップヌードル。

 宿題と証拠が低い机の上に散在している。

「遼ちゃん、字の汚さ悪化してない?」

 ユーリが遼太郎の漢字ドリルから顔を上げた。

 漢字ドリルにはチェックが付いていた。

 はね。

 突き抜け。

 点の有無。

 担任に提出する前に採点がされていた。

「読めるんやからええやんけ」

 チェックが付けられた漢字は、ガイド線から少しだけはみ出していた。

 そのくらい許してほしかった。

「遼ちゃんさぁ、せっかく字を直すチャンスでしょ?」

 ユーリが赤鉛筆の尻でこちらを指した。

 白い襟付きのブラウス。

 細身の膝丈スカート。

 うっすらとアイシャドウ。

 手には赤鉛筆。

 女教師だと思った。

 好みに寄せてくんなや。

「はい、感謝してます」

 着てくれたのは嬉しかった。

 スパルタなのは嬉しくない。

 消しゴムを手に取った。

 ダメ出しされた漢字を消し始める。

「そ、れ、と、もぉ~」

 ユーリが口角を上げる。

「もう少しイチャイチャするぅ?」

 声は低く甘い。

 あぁ。

 その声はあかんて。

 好みを完全に握られてしまった。

 いや、昔から無警戒に喋り過ぎたのか。

 苦笑いが出た。

 遼太郎は壁掛け時計を見上げた。

 午後三時十四分。

 今朝、あの張り紙を貼って籠城を始めてから八時間が経っていた。

 夏休みの宿題。

 大嘘だった。

 二人ともとっくに宿題は終わっている。

 丸一日二人だけで生活したい。

 ユーリがねだってきた。

 可愛い望みだった。

 スパルタ特訓が始まって三十分も経っていない。

 それまでは。

 トイレ以外ずっと触れ合っていた。

 唇ふやけてまうわ。

「うーん、悩ませてくれ」

 そう言うとユーリが頬杖をついた。

 こちらを見つめている。

「なんや?」

「別にぃ~早く決めたらいいのになってぇ」

 煽るような顔。

 本当に悩ましい。

 鉛筆を手に取る。

 悪筆の矯正。

 悪筆?

 俺の字が読めへん世界がどうかしてんねん。

 ……通じへんか。

 世知辛いわぁ。

 まぁ、直してもらえるのはありがたい。

 しかし。

 ユーリと二人きり。

 くっついていないと落ち着かない。

 いつから、こんなんなったんやろなぁ。

 高校一年生。

 有理と出会った頃。

 あいつは初めから距離が近かった。

『ちょっと距離近ないか?』

 そう言い放ってしまった。

 あの時の有理の顔。

 未だに後悔している。

 以来、距離を気にしなくなった。

 いや。

 気にしないようにしているうちに、慣れた。

 近いのが当たり前になった。

 二人でどこにでも行った。

 男同士でネズミー。

 何が悪いんや?

 そう思ってさえいた。

 息を吐いた。

 指が痺れてきた。

 今では、離れている方が落ち着かない。

 ユーリは俺がおらんとあかん。

 それだけやない。

 俺も、ユーリがおらんとあかんねや。

 鉛筆を転がした。

「イチャイチャするわ!」

 もう特訓は嫌や。

「膝枕してぇや」

 甘えたかった。

「ええぇ~。涎垂らさないで欲しいんだけど…」

 そう言いながらもユーリは膝を差し出した。

 早かった。

 満更でもないくせに。

 口元が綻んだ。

 ソファに寝転がって膝に頭を乗せる。

 はぁ~。

 心地いい。

 これでテレビ見ながら過ごしたら極楽やな。

 目でリモコンを探す。

「んー!」

 声がした。

 仰向けになる。

 目の前には唇があった。

 ユーリが身体を曲げていた。

 身体柔らかっ!

 そのまま唇を重ねる。

 美少女。

 相棒。

 嫁。

 キス。

 最高。

 極楽。

 頭の中がチカチカする。

 もう死んでもいい。

 いや、死んだらあかんやろ。

 だが、それほどまでに心地よい。

 ほのかにキスの味がする。

 死の味のキス。

 最近見た刑事ドラマの副題。

 死の味はカップヌードル味だった。

 …こういうところは有理やなぁ。

 胸の奥が緩んだ気がした。


 唇が離れた。

「今日はやたらキス魔やんけ」

 普段の倍はしていた。

「ふふ~上書きだよ」

 ユーリが笑いかける。

 八重歯が見えていた。

「まだ気にしてんのか」

「目の前で旦那が寝取られたんだもん!」

「寝取られで草」

 その言葉はツボに入った。

 笑いが止まらなくなった。

 祭りの日。

 酔った栞にキスされた。

 ユーリはそのことをずっと根に持っていた。

「笑わないで!」

「ぶっ」

 肘鉄が下腹部に入った。

 加減は…してるよな?

 痛かった。

「痛ぇ。栞姉ちゃんもああいう子やねんから許したってや」

 ユーリが真顔になった。

 …また地雷を踏んでしまったか。

 背筋が冷える。

「栞ちゃんが普通じゃないの、遼ちゃんは気づいてる?」

 声は静かだった。

 普通じゃない、か。

 鋭利な言葉だった。

 栞。

 いつの間にか我が家に入り込んだ娘。

 自分を見る目。

 母を見る目。

 家族という言葉に拘るところ。

 普通かと言われれば。

 普通ではない。

『栞が息できる場所。俺も手伝うから』

 あの時。

 あの裏山で自分は言い放った。

 腹を括った。

 その因果だとは分かっていた。

 この状況を受け入れることで栞が息をできるなら。

 おかんを母にしたいなら母でええ。

 俺を弟にしたいなら弟でええ。

 家族にしたいなら家族でええ。

 それで生きられるんやったらそれでええ。

 俺が選んだことや。

 そう思っていた。

 …おとんの事はどう思っとるんやろ?

 それだけは分からなかった。

 まぁ、ええか。

「気づいとる。言いたいことも分かっとる。あの子は感情の出し方がへたくそや。それでも…」

 言葉を切った。

「それでも?」

「家族や。お前らも含めてな」

 静かに言った。

 三人家族がえらい大家族になったもんや。

 ユーリは少しの間、固まっていた。

「ふーん」

 そして、愉しげに目を細めた。

「本来、遼ちゃんの近くに、栞ちゃんはいなかったよね?」

「せやな」

 剣道をやり始めなかったら、知り合うことはなかった。

「ウチは最初、泥棒猫だと思った」

「泥棒猫て…」

「今は違う。壊れ…いや、不器用な子だと思ってるよ。だけどね」

 ユーリが息を吐く。

「ウチは、栞ちゃんは嫌いだよ? 遼ちゃんに意地悪したって聞いたし」

「なんでや。意地悪もとうに許しとる」

「嫌いなものは嫌いなの」

 ユーリが頬を膨らませる。

「だけど」

 声が少しだけ柔らかくなった。

「遼ちゃんが気づいてて、それでも覚悟を決めた結果なら……」

 ユーリの目元が和らぐ。

「ちょっとくらい、仲良くしてあげるよ。家族割ってやつ」

「なんじゃそりゃ!」

 大きな声が出た。

「何? 不満?」

 ユーリが肘を向ける。

「いえ…」

 肘鉄をもう一発くらったら涎では済まない。

「ふんっ」

 ユーリが鼻で笑った。

 肘を収めてくれた。

「でも、遼ちゃんが気付いてたのは意外だったよ」

「俺の事なんやと思ってたんや」

「女心の分からない珍獣。気づいてくれなかったの、ウチはまだ許してないからね?」

 辛辣だった。

 妥当な評価。

 前科者には滲みる。

「二十年の恨みは重く受け止めてますぅ」

「これからずっと償ってね? ダーリン?」

 ユーリがウィンクした。

 随分と幸せな償いやんけ。

「もちろんや」

 優しく言った。

 

 それから、三十分近くが過ぎた。

 遼太郎は膝枕に頭を預けたままだった。

 事務所には、冷房の音だけがしていた。

 二人は目を瞑ったまま、じっとしていた。

 幸せの時間だった。

 その時。

 ガタッ。

 窓が音を立てた。

「うぉっ!」

 遼太郎が跳ね起きた。

 ユーリの胸に額が当たる。

「痛ったぁ」

 ユーリが声を上げる。

 びっくりした。

 心臓の鼓動が速い。

「遼ちゃん、風だよ。ほんと小心者なんだから」

 ユーリが胸元をさすっている。

 風?

 窓の外を見た。

 黒い雲が立ち込めている。

 電線も大きく揺れている。

 風が強まってきていた。

「マジすまん。…外暗いなぁ」

「ゲリラ豪雨っぽいよね…あ、まだ言葉ないんだっけ?」

 ゲリラ豪雨…あったようななかったような。

 線状降水帯とかも無かったっけ。

「わからん。とりあえず夕立や」

「厳密には違うんだよ?」

 ユーリがじとっとした目で見てくる。

 役人は言葉尻にうるさいなぁ。

「とりあえず、天気予報見るか。リモコン…」

 さっきから無いんやけど。

 ピッ。

 え。

 テレビが付いた。

 何もしていない。

 ユーリの手には、リモコンがあった。

 定位置、定品、定量やろがい。

 これやから役人は。

 口には出せなかった。


「天気予報…やってないねぇ」

 ユーリがチャンネルを次々に切り替える。

 ニュース番組で止まった。

「ニュースやってるからやるかもね」

 ユーリがリモコンをクッションの上に手放した。

 テレビ画面にはテロップと共に濁った川が映っている。

 川。

 増水。

 中州。

 最近起きた河川事故の特集だった。

 事故映像は令和でも目にする有名なものだった。

 しまった。

 思いっきり見てもうた。

 覚えていた。

 いや。

 覚えていたと言えるのか。

 事故が起こってから思い出しただけ。

 画面から逃げるように、横を向いた。

 ユーリはテレビを見ていた。

 その横顔は静かだった。

 ユーリには包み隠さずなんでも話してきたと思っている。

 しかし、一つだけ言っていないことがあった。

 これから起こる事件や事故を覚えていたとして。

 俺は何をした?

 何ができた?

 防げなかったら俺のせいか。

 覚えてるもん全部、止めるんか?

 覚えてなかったら、仕方ないんか?

 俺は神様やない。

 救うなんておこがましい。

 それを、死んだ人ら、その家族の前で言えるのか。

 そう自問するときがあることは、誰にも言ってない。

 言えるわけがない。

 遼太郎は、ため息をついた。

 家族を守りたい。

 後悔しないように力を付けてきた。

 それでも。

 皆は救えない。

 この二年。

 ことあるごとに浮かんできては消してきた。

 見ないよう、考えないようにしてきた。

「遼ちゃん、どうしたの?」

 ユーリが顔を寄せる。

 テレビの音が、耳に戻ってくる。

「あ、いや。ぼーっとしてもうた」

 取り繕う。

 この問いは。

 きっとユーリを不安にさせる。

 何を言うかも大体わかる。

 尚更言えない。

「そう。膝枕は?」

 ユーリが膝をポンッと叩く。

「お言葉に甘えて」

 遼太郎は再び、その膝に頭を預けた。


 番組は天気予報のコーナーに移っていた。

 大阪府には大雨注意報。

 夕方には止むようだった。

 ポツ。

 ポツ。

 雨音が始まった。

 眠気を誘われるリズムだった。

「降ってきたね」

 ユーリは窓の外を見ている。

 ユーリ。

 今ここにいる。

 おとんも。

 おかんも。

 栞姉ちゃんも。

 富田兄ちゃんも。

 性悪女も。

 ジョニーも。

 みんな生きている。

 ……問いはもうええか。

 良くはない。

 良くはないんやけど。

「ずっとこうしてたいなぁ」

 零れた。

 瞼が重くなってきた。

 半目になる。

 ユーリが顔を覗き込んできた。

「おねむだねぇ。おやすみ、遼ちゃん」

 優しく微笑んだ。

 意識が遠のいた。


「9月の試合、名古屋まで来てくれるんやぁ」

「勿論ですよ。ママと一緒に行きます」

「ありがとうなぁ」

 気が付くと、どこからか声がしていた。

 ユーリと…母の声。

 体が揺れている。

 足。

 地についてない。

 遼太郎は薄目を開けた。

 目の前には茶髪。

 そして日に焼けて黒いうなじ。

 うっすらと香水と汗の匂い。

 母の匂い。

 懐かしい景色。

 母におぶわれていた。

「傘持って迎えに来たけど、晴れてもうたなぁ」

「いえ、来てもらって助かりました。遼ちゃん、全然起きないから困ってたんです」

「勉強で疲れたんやろ」

「えぇ~疲れるほどしてませんよ。すぐギブアップして寝ちゃったんですよ」

「ヘタレは剛三譲りやな」

 二人の笑い声が聞こえる。

 薄目で見る外は夕暮れだった。

 母の鼓動を感じる。

 膝枕とは違った心地よさ。

 三十四歳では、もう味わうことのできなかった心地よさ。

 ヘタレでもええ。

 なんでもええ。

 もう少しだけ。

 もう少しだけ、このままで。

 子供のままで。

 遼太郎は再び目を閉じた。

基本的には好き勝手に書いております。

ただ、評価をいただくと露骨に喜ぶ程度には俗物です。

「面白かった」「続きも読みたい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆評価で応援いただけると、たいへん筆が乗ります。

よろしくお願いいたします。

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