第二十四節
午後六時。
西の空には、まだ夏の陽が残っていた。
大阪平野の上には薄い霞がかかり、その向こうで、傾いた陽が赤みを増していた。
生駒山の西斜面にも赤い光が当たっていた。
日中に焼かれた石段や石畳からは、まだ熱が上がっている。
八城神社の周囲は、すでに人で埋まりつつあった。
浴衣姿の子供。
団扇を持った親子連れ。
皆、同じ方向へ流れていく。
石段の上から太鼓の音が落ちてきた。
腹に響く低い音だった。
鉄板の上で油が弾けた。
焼けたソースの匂い。
たこ焼きの湯気。
綿あめとりんご飴の甘い匂い。
八城神社の夏祭りが始まっていた。
「富田君、指どうしたん? 機材弄った?」
浴衣姿の剛三が保治の手を指さした。
夕日に照らされて眩しい。
保治は鉄板の焼きそばから自分の手に視線を移した。
指先には真っ黒なインクの跡。
何回洗っても落ちない。
「それ、新聞紙のインク!」
後ろから甘く幼い声がした。
振り返るとユーリがいた。
赤い浴衣姿。
左の掌を掲げている。
右の手には…。
フルーツ山盛りのクレープ。
「全然落ちないの」
声には苛立ちが混じっている。
「遼ちゃん、どうしてくれるの?」
その掌を後ろに立つ若の眼前に繰り出す。
「…申し訳ございません。そのクレープでなんとか…」
甚平姿の若は神妙な面持ち。
両手はインクで真っ黒。
さっきから謝罪の言葉しか吐いていない。
同情できなかった。
「喉乾いたんだけど?」
ユーリの流し目が若に刺さる。
「そんな甘いの食ってたら当たり前やん…」
蚊の鳴くような声だった。
「随分と気が利かないのね? そんなことで許してもらえると思った?」
ユーリが首を傾げる。
仕事の声だった。
若の背筋が伸びる。
「はい! 何がええでしょうか!」
「えっとね――」
少しだけ同情が湧いた。
「遼も西尾の男になってきたな」
剛三が口髭を弄りながら声を掛けてきた。
「西尾の男ですか?」
「せや、西尾の家は女系気味やねん」
「女系…」
「基本、女が強い」
「あぁ…」
納得しかなかった。
「ご親戚もそうなのですか?」
西尾家。
深く聞いたことはない。
気になった。
剛三の指が止まった。
「親戚、親戚かぁ」
声に先ほどまでの明るさがない。
これは。
聞いてはいけない事だったのかもしれませんね。
その時だった。
「焼きそば、7人前のお客様ぁ!」
屋台の店主が声を張り上げた。
「お、はい!」
剛三が慌てて懐から財布を取り出した。
女系。
女が強い。
今も使い走りにされている。
笑いが零れた。
沿道の屋台の並びを抜けて、石段に向かう。
焼きそばの入った袋から手に熱が伝わる。
ソースの匂いも立ち上がってくる。
生唾が出た。
ハンバーグは明日ですね。
明日の昼は、ハンバーグ。
夜は、ホイコーロー。
良い感じでしょう。
四人で石段を上る。
ふと立ち止まり、振り返った。
若とユーリが、楽しそうに言い合いをしている。
その遥か後ろ。
夕日に沈む東大阪の街並み。
綺麗だった。
息をついた。
「富田君、どうしたん?」
後ろから剛三の声がした。
「いえ、ちょっと休憩しただけです」
振り向かずに言った。
「そうか、無理せず、ゆっくりおいでや」
そう言って剛三の気配が遠ざかっていく。
手元の焼きそばの袋に目をやった。
初めてこの石段を上がった時から、遠くまで来たものだ。
ただ、そう思った。
石段を上った先。
鳥居をくぐる。
手水舎から涼しげな水の音がする。
境内はまだ混み合ってはいなかった。
社務所の横には、臨時の飲食スペースが設けられていた。
「こっちやでー!」
元気な声がした。
白いテントの下。
長机の向こうで、腕が大きく振られている。
声の方へ近づく。
そこには三人が座っていた。
銀髪が動いた。
ふらつきながら駆け寄る。
「ユーリ、ちゃんと食べてまちゅかぁ?」
呂律が回っていない。
いや、普段通りかもしれない。
スタシアはジーパンにチューブトップ姿だった。
銀髪はしっかりとまとめられている。
白い肌は真っ赤だった。
「ママこそ、お酒は控えてちゃんと食べてよね」
ユーリがスタシアを指さした。
スタシアはユーリの目線に合わせて屈む。
「嫌でちゅ…太っちゃうでちゅ! 太ったらユーリに嫌われるでちゅ」
声が大きい。
その頭にユーリが手を置く。
「ウチはママが太っても嫌いにならないよ」
その顔は凛々しい。
「ユーリ…」
スタシアはそのまま膝をつき、ユーリにしがみついた。
ジーパンに玉砂利がへばりついてもお構いなしだった。
ユーリがその頭を抱える。
「ママが健康でいてくれれば、それでいいからね」
その表情は優しかった。
「ユ、ユ、ユーリぃぃぃぃ」
スタシアが声を上げてユーリを抱きしめる。
ユーリは苦しそうに見えた。
「ええ親子やぁ」
後ろで恵が涙ぐんでいた。
白いホルターネック。
ローライズのジーンズ。
厚底のサンダル。
日に焼けた腹が覗いている。
その手にはハンカチでなく、缶ビールが握られていた。
「おとん、酔っ払いの世話って大変やねんな」
横で遼太郎が声を潜めて言った。
剛三も声を潜める。
「アホゥ、どこ見てんねん。ヤバいのが二人残っとるやろが」
「二人? おかんだけやろ?」
ああ、若は知らないのですね。
昨日の栞を。
その時だった。
「りょーおちゃん!」
若の身体が浮いた。
その胴には、褐色の腕が回っていた。
「え?」
若の困惑をよそに、小さな体がすっぽりと抱き込まれる。
そして。
「大好き!」
栞はそう言って、若の口に口づけをした。
口づけは長かった。
「お、栞! やるやんけ!」
恵がゲラゲラと笑う。
終わった時には若の顔は固まっていた。
栞はにこにこと微笑んでいる。
身体に張り付くようなチビT。
デニムのミニスカート。
足元には厚底のサンダル。
褐色の肌によく似合っていた。
下から声がした。
「ユーリ、痛いでちゅ!力が強い!首にキまってるでちゅ!」
「ああ、ごめんねママ」
声は氷のようだった。
その顔を見る勇気はなかった。
昨日の今日。
この状況。
「剛三、はよ焼きそば開けんかい…紅ショウガ入ってへんやないか!」
「え、嘘やん…」
「遼ちゃん、何してるの? は、な、れ、な、さ、い」
「ちゃうんや、ユーリ。ちょっ、栞姉ちゃん離れて…」
「りょおちゃん、お姉ちゃん寂しいなぁ」
「引きずってるでちゅ! 膝が痛いでちゅ」
もう、僕の手には負えませんよ…。
神様、助けてください。
その瞬間。
ブー。
ブー。
ウエストポーチが震えた。
電話。
神はいた。
「すいません! 電話です! すぐ戻ります!」
保治は目の前の光景に背を向けた。
「富田君、待っ――」
「ユーリ、ちゃう、これは…ひぃ」
後ろから西尾の男たちの断末魔が聞こえた気がした。
若。
社長。
ごめんなさい。
落ち着いたら戻ります。
西尾の男ですから大丈夫ですよね?
保治は人混みの方へと走り去った。
気づけば、手水舎まで来ていた。
保治は、ウエストポーチからPHSを取り出した。
まだ震えている。
ディスプレイを見た。
見慣れぬ番号。
真紀ではなかった。
ため息が出た。
それにしても。
誰でしょう。
通話ボタンを押した。
「はい、西尾興業株式会社の富田でございます」
『わたくし八城町商店会のもりたと申しますぅ。お世話んなってますぅ』
陽気な声。
どこかで聞いたことのある声。
もりた?
八城町商店会。
八城神社手前の商店街。
心当たりが出てこない。
「えーっと…」
『あ、肉の盛田屋の盛田ですわぁ。おやすみんとこすいまへん』
あ。
先月の松永理髪店。
ドーナツの禿げ頭が浮かんだ。
「あー!お世話になってます。どうされました?」
『大したことちゃいますねん。今日って西尾興業さんって八城の祭り来てはります?』
西尾興業。
その括りで呼ばれたのは初めてだった。
「はい。来てますよ」
『さいでっか。もし都合つきましたら、十時くらいに本部のテントまで来てもらえまへんやろか』
十時。
午後十時。
PHSの時計を見る。
『19:03』
三時間も余裕がある。
皆には先に帰っててもらいましょうか。
「良いですよ。因みにご用件は…」
『ありがとうございます~。用向きは会った時話しますわ。ほなよろしゅう』
そう言って、電話は切れた。
大したことではない。
何事だろうか。
西尾興業さん。
…あれ。
『会社としてなんかするときは役職者に確認取るんやで』
若のにやけ顔。
『指揮命令系統は絶対だよ?』
ユーリの睨み顔。
「やってしまいました…」
声が零れた。
これは、越権行為というものだろうか。
今からでも間に合うだろうか。
役職者。
社長。
剛三は素面。
大丈夫。
監査役は…。
ユーリにしがみついた姿が過る。
怪しい。
だが、話は通じると信じたい。
午後十時。
あと三時間しかない。
今すぐ戻るべきだ。
すぐに報告すべきだ。
しかし。
恵と栞の顔が浮かぶ。
『お。おもろそうやん。私も行くで』
『やすちゃーん、私も行くぅ』
ダメだ。
今は危険すぎる。
「まずは社長に伝えて…その後、監査役の酔いを醒まして…社長と一緒に話して」
やることを口に出す。
整理されていく気がした。
「先生と栞の世話は…」
若とユーリに頼む。
それしかないのか。
いや、あの二人も立派な上司。
尻を拭いてもらいましょう。
それでも、子供の身体では厳しいかもしれない。
…荷が重いかもしれませんねぇ。
これ以上、酔わせないようにしなければ。
あの団欒を壊さないように。
さりげなく。
実に難しい。
何かないか。
妙案はないか。
保治は境内の方を向いた。
屋台が立ち並ぶ。
たこ焼き。
ネギ焼き。
牛串。
今川焼。
ベビーカステラ。
食べ物がたくさんある。
――満腹だったら?
お酒は飲めない。
そうだ。
いっぱい食べさせればいいんですね。
そうすれば。
いや。
嘔吐したらどうする。
もう何度も片づけた。
境内で吐かれたら目が当てられない。
…違う。
どのみち放っておいても嘔吐しかねない。
ならば、ここは賭けるしかない。
ウエストポーチにPHSをしまう。
代わりに財布を取り出した。
8900円。
十分足りる。
いける。
大丈夫。
そんな気がした。
基本的には「好きに書くので、好きに読んでいただければ」という気持ちでおります。
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