プロローグ~2026年4月17日
活動報告に、今後の感想・コメントへの対応に関する重要なお知らせを掲載しました。ご一読ください。
4月の東京は、春というには湿り気が重かった。
霞んだ夜空は鈍い灰色をしていて、高層ビル群の灯りが低い雲へぼんやりと滲んでいた。首都高速を走る車列の光は、濁流のように途切れない。
新橋駅から少し外れた雑居ビルの地下に、その居酒屋はあった。
木目調を模した安っぽい内装。障子の仕切り。個室と銘打ってはいるが、隣の笑い声も、店員のたどたどしい注文の読み上げも筒抜けだった。油と煙草とアルコールが混ざった匂いが、空調の弱い店内に澱んでいる。
金曜の夜ということもあり盛況の店内で、西尾遼太郎は、ネクタイを緩めながらジョッキを煽った。
喉を通る冷えた苦味が、胃の腑へ落ちていく。ようやく一週間が終わったという安堵感だけで飲んでいるような酒だった。
「…生き返るわ」
そう言って息を吐く。
ワイシャツの襟は汗で湿り、スーツは皺だらけだった。腹回りも以前より明らかに窮屈になっている。高校時代には丸顔で「アザラシみたい」と女子にからかわれていたが、今はもうその愛嬌のある姿はなかった。
向かいに座る有理が、苦笑混じりに枝豆を摘まんだ。
「遼ちゃん、それ毎回言ってる」
遼太郎は大げさにちゃうちゃうと手を振る。
「今日はいつも以上に地獄やったぞ」
「トラブル?」
むくんだ指を折りながら答える。
「緊急会議4つ。仕様変更2つ。客先からクレーム1本で7つ。ついでに若い奴に『西尾さん最近トドっぽいですね』って言われた。8つやな。」
有理が吹き出した。
肩を震わせながら笑う。
その笑い方は、高校時代から全く変わっていなかった。
「ははっ…トドかぁ言うねぇ」
「笑い事ちゃうぞ。7つのトラブルよりダメージあったわ」
「いや、でも確かにちょっと太っ──」
「お前も言うんか!」
遼太郎は大袈裟に卓を叩いた。
だが本気では怒っていない。こんなやりとりをできる相手は、有理しかいなかった。
店の外では、サラリーマン達の酔った声が時折通り過ぎていく。春先特有の湿った夜気が、地下へ続く階段から微かに流れ込んでいた。
有理はグラスの焼酎を揺らしながら、静かに遼太郎を見ていた。
相変わらず、母性を擽られる顔をする。
だが、その顔を見ると安心してしまう自分がいた。
高校時代から変わらない。
少し鈍くて、少し優しくて、妙に放っておけない顔。やっぱり、肉がかなり付いてきているね。
「でもさ、健康は気を付けた方がいいよ」
「分かっとる」
遼太郎は次に何を頼もうかメニュー表を覗きながら、有理の心配を受け流した。
「絶対分かってない」
「最近な、階段で息切れすんねん」
「それはかなり危ない」
「三十四でこれはあかん」
遼太郎は苦笑しながら、有理を見た。
その瞬間、改めて思う。
こいつ、本当に老けないな。
学生時代は「女子より綺麗」と冗談めかして言われていた顔が、年齢を重ねると更に洗練された。肌も綺麗だ。髪にも生活感がない。会社帰りの疲れがそのまま染み付いた自分とは、まるで別の生き物に見える。
細身のカジュアルスーツも妙に似合っていた。
自分の現状と比較したときに思わず疑問の声が出てしまった。
「お前さぁ…なんでそんな若いの?」
「努力してるから」
「努力?」
「走ってるし、ジムも行ってる」
遼太郎が目を丸くする。
「え、お前ジム通っとったん?」
「うん。朝ランもしてる。前に一緒に初詣に行った神社まで走ってるよ」
「あの神社?意識高すぎやろ…」
有理は少し笑って、シャツの裾を摘まんだ。
「ほら」
白い腹部が覗く。
薄く割れた腹筋。
過剰に鍛え上げた感じではない。だが無駄がなく、肌にはきちんと手入れされた清潔感があった。
その瞬間、ふわりと香水の匂いが漂った。
柑橘系に、少し甘さが混じる。
遼太郎は一瞬だけ視線を止めた。
色っぽい、と思ってしまった。
酒のせいだ。
そう自分へ言い聞かせる。
しかし今、目の前にいる有理には、学生時代にはなかった危うい艶がある。
シャツを戻す指先。
首筋。
汗に濡れた肌。
遼太郎は慌ててジョッキを掴んだ。
何考えとんねん俺。
親友だ。
男だ。
高校からの付き合いで、今さら意識するような相手じゃない。
情欲をビールで無理やり奥へ流し込む。
沈黙を誤魔化すように、遼太郎は笑った。
「いやいや、お前まだ女にモテる気なんか。有理」
「どういう意味?」
「今でも十分モテとるやろ。さわやかに腹筋見せてくる三十四歳とか反則やぞ」
「別にモテたくてやってるわけじゃないよ。健康第一。」
「嘘つけ。昔から女子にキャーキャー言われとったやん」
「高校の頃の話でしょ」
「今でも絶対モテるわ」
有理は笑った。
だが、その笑みの奥に、少しだけ痛みが滲む。
――女にモテたいんじゃない。
心の中だけで呟く。
――遼ちゃん。
――君に、振り向いてほしいからだよ。
だが、その言葉は喉を越えない。
男同士だった。
親友だった。
その距離を壊す勇気は、ずっと持てなかった。
二時間後。
コース時間が終わる頃には、夜気はさらに湿り気を増していた。
その湿り気は、アルコールで火照った身体へぬるくまとわりつく。
店内は金曜の酔客で溢れていた。笑い声、歌声、怒声。
遼太郎は手洗いから千鳥足で戻ってきて、ぽつりと呟いた。
「…最近なぁ」
「うん?」
「若い奴らの話、全然分からへんねん」
有理は黙っている。
「流行りの歌も知らんし、動画配信者も分からん。会社でもさ、感覚ちゃうねん。向こうはまだ未来ある顔しとるけど、俺らもう四十見えてきとるやろ」
遼太郎は自嘲気味に笑った。
「給料も別に大して増えへんし。実家帰っても、体弱いおかんが最近更に悪そうやし。親父も老けたし」
店の外から、救急車のサイレンが遠く響いた。
「親孝行もできとらん」
有理は視線を落とした。
昔の遼太郎は、もっと雑に笑う男だった。
「なんとかなるやろ」が口癖で、失敗しても翌日にはケロッとしていた。
三十を越えた頃からだ。自嘲が口癖になったのは。
本当は優しい人間なのに、自分ではそれを認めない。認められなくなってしまっている。
有理は哀しくなった。
「俺、何のために生きとるんやろな」
遼太郎はうなだれる。
「居場所っちゅうか…自分がおってええ場所が、よう分からへん」
有理の胸が締め付けられる。
言わなければ、と思った。
今しかない。
ずっと抱えてきた言葉だった。
「遼ちゃん」
「ん?」
有理は遼太郎を真正面に見据えた。
店内の間接照明が、その横顔を淡く照らしている。
「君は、僕の──」
僕の居場所であり、君の居場所になりたいんだ。言うんだ。今こそ。
「失礼しまーす! お会計こちらです!」
障子が勢いよく開き、店員が個室内に入ってきた。
二人の間へ、伝票が差し込まれる。
有理は口を閉じた。
タイミングの悪さに、遼太郎が吹き出す。
「タイミング悪う!いや解るよ、俺たちずっと親友だって言いたかったんやろ?…ありがとうな」
「…はは」
笑って誤魔化す。結局、言えなかった。
金曜の新橋駅前。帰宅客の喧騒。タクシーのクラクション。居酒屋の呼び込み。ネオンに照らされた舗装路が、薄く汗ばんだように光っている。
「また来週な」
「うん」
「店イマイチでごめんな 次はもうちょい良い店行こ」
毎週行く店から趣向を変えて有名店にしたというのに、提供時間が遅いわりに大した味じゃなかったこと、そんな店に有理を連れて行ってしまったことに腹立たしさと申し訳なさが、遼太郎にこみ上げていた。
その心中を察してか、有理は軽口をたたく。
「その前に痩せなよ トドちゃん」
「うるせぇ」
二人して笑った。
そのまま、手をひらひらと振りながら人混みへ消えていく遼太郎の背中が消えていくまで、有理は見つめていた。
呼び止めたかった。
今からでも全部伝えたかった。
世間が、周りが何と言おうと君を愛しているんだ。
後悔が残った。
翌々日。
早朝。
日曜の空は低く垂れ込めていた。
春の嵐が近づいていた。雲は重く、風は生暖かい。遠雷が空の奥で鈍く転がり、神社の木々がざわざわと不穏に揺れている。
有理は石段を駆け上がっていた。
白いランニングウェアが汗で肌へ貼りつく。
「降るかな…」
空を見上げた時、腰元のスマートフォンが震えた。
着信表示の名前を見て、有理は驚いた。
『西尾恵』
遼太郎の母だった。
遼太郎曰く小学生の頃までは地元の剣道教室で師範を務めるくらい元気溌剌だったそうだが、中学生の時に大病を患ったらしい。
有理が知っているのは、高校時代に会った瘦せ細った顔だけだった。
話すのは大学の卒業式以来だっけ。
「もしもし? 恵さん?」
『…有理くん?』
声が細い。
酷く掠れていた。
「ご無沙汰しています 如何されましたか?」
沈黙。
嫌な予感がした。
遠くで雷が鳴る。
『…遼太郎が』
有理の呼吸が止まった。
『死んじゃった』
世界から音が消えた。
『昨日…車に…外人が運転してた車が交差点に突っ込んできて…』
頭が理解を拒絶する。
不法滞在の外国人が運転する車が交差点に突っ込んで死傷者多数…朝見たネットニュースの要約された見出しがフラッシュバックする。
スマートフォンが手から滑り落ちた。
石畳へぶつかり、乾いた音を立てる。
「…嘘だ」
声が漏れた。
「嘘だろ…」
膝が崩れる。
喉が震える。
視界が滲む。
「なんで…」
涙が溢れた。
「なんでなんだよ…!」
境内に嗚咽が響いた。
自分の中の女を、ずっと押し殺して生きてきた。
生きていくために男として振る舞って。
笑って。
誤魔化して。
普通のふりをして。
だが遼太郎だけは違った。
あの人の隣にいる時だけ、自分は息ができた。
唯一の居場所だった。
あの人の隣に居られれば何にも要らなかった。
あとは、秘めた思いだけ、勇気を出してこの思いだけを伝えられさえすれば良かった。
雨が落ち始めた。
「僕は…!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
「僕は遼ちゃんがいたから、生きてこれたんだよ…!」
雷鳴が轟いた。
辛いことがあってもあの笑顔で頑張れた。報われなくとも一緒に居ることが救いだった。
「返せよ!」
神を呪い、鳥居を殴りつける。赤い鳥居に、拳に血がにじむ。
雨粒が頬を打つ。
「なんで盗るんだ!」
木々が激しく揺れた。
あの人の居ない世界なんて。あの人を苦しめた世界なんて。
「こんな世界なんて要らない!」
あの時、思いを伝えていれば。一緒に暮らしていれば。守ってあげれさえすれば。何のために鍛えて、何のために我慢して。何のために生きて。
涙が溢れ出てくる。
有理は空を睨みつけ、絶叫した。
「遼ちゃんのところに行かせてよ――!!」
その瞬間だった。
世界が白く染まる。
閃光。
雷鳴。
空気そのものが爆発したような衝撃が有理を包み込んだ。
初投稿となります。拙作ではございますが、お目汚しまでに。
長く温かい目で見ていただけますと幸いです。
よろしくお願いします。
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