39 混沌のその先へ行け
夕食後、お勉強タイムがやってきた。
......ケンちゃんが心なしかウキウキしているように見える。
気のせいかもしれない。本当に気のせいかな?
ケンちゃんが用意してくれた、目の前にある語学のテキストは、相変わらず抽象の暴力みたいな文字で埋め尽くされている。
私はカウンターテーブルに突っ伏したまま、顔だけ横に向けて呻いた。
「......ねえケンちゃん。これ、初心者コースっていったよね?」
「はい。もちろん初心者向けです」
「初心者向けで“音のない音”が出てくる世界、絶対おかしいと思うんだけど」
ケンちゃんは少し考え込むように首を傾げた。
「師匠......もしかして、概念文字が“動いて”見えたりしませんか?」
「動く!? 文字が動くの!? えっ、そんなホラー要素があるの!?」
「いえ、動くというか“揺らぐ”といいますか。
使う者の心の向きが定まらないと、文字が落ち着かないのです」
「落ち着かないのは私の心なんだけど!!」
犬モンたちが、そっと視線をそらした。
“また始まった”そんな顔だ。もはや夜の風物詩。
ケンちゃんは、そんな犬モンたちの空気をまったく読まず、真剣な顔で続けた。
「師匠の心がざわついていると、文字もざわつきます。ですから、まずは深呼吸をして......」
「いや、深呼吸しても“水の影”は読めないよ!? 影だよ!? 影を読むって何!?」
「影は“存在の証明”ですから」
「だからその証明がわかんないんだってば~」
私はまたカウンターに突っ伏した。
突っ伏しすぎて、そのうちカウンターと一体化しそうだ。
ケンちゃんは、そんな私の背中を撫でながら、さらに優しく言った。
「大丈夫です。焦らなくていいんです。師匠はとても感覚が鋭いですから、きっと“音のない音”もすぐに聞こえるようになりますよ」
「聞こえちゃダメな音じゃないそれ!? 幻聴の領域じゃない!?いや、アラフィフだから耳鳴り!?」
「幻聴ではありません。“世界の根源的な振動”です」
「だからその根源的な振動ってものはなんなのさ~」
ケンちゃんは、私の叫びを受け止めるように、ふっと微笑んだ。
「では、まずは“風の気配”だけに集中してみましょうか。風が通り抜けるときの、あの......ほんの一瞬の、肌に触れるか触れないかの......」
「ケンちゃん、それもう文字じゃなくて詩なんだよ......!」
犬モンたちが、ついに耐えきれず、ぷるぷる震えながら笑いをこらえている。
私は、カウンターに顔を押しつけたまま、かすれた声で言った。
「ねえケンちゃん。
“あいうえお”って、偉大だったんだね......」
「はい。そうですね。あの単純さは......とても扱いやすいと思います」
「単純って言っちゃったよこの子ってば!!」
ケンちゃんは、そんな私の絶望をよそに、朗らかに、そして明らかに嬉しそうに言った。
「では師匠。今日の課題は“風の気配”の概念を理解したら“水の影”との区別へ移りましょう」
「最初の一歩が、”気配”とか”影”とか......もう入口からカオス!!」
リビングに、私の悲鳴が虚しくこだました。
ケンちゃん、それ、絶対初心者向けじゃないと思うよ




