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アリーのトイレー7

 この日の最後の来客は柏木さんだった。

 他の従業員が帰ったあと、柏木さんは最後にオフィスの電気を消してまわるついでに、僕のところへやってきた。

「あー。明日ね、ついに」

 彼女は扉を開けてそう言って、個室へと入っていった。

 どうやら明日、何かがあるらしい。彼女は個室から出てきて、手を洗いながら僕の中全体を見渡しているようだった。

「監査とか、そういうのって本当に面倒くさいわよね」

 柏木さんはそういいながら、ペーパータオルで手をふいて、鏡の中を覗き込んだ。

「さ、帰りましょう」

 明日の監査対応のために彼女は遅くまで残っていたようだ。

 彼女が僕のところをあとにすると、オフィスも僕のところも真っ暗になった。

 この暗闇の時間がはじまると、僕もひっそりと眠りにつく。

 今日も楽しい一日だった。

 明日の朝、掃除のおばさんがやってくるまでの間が僕の休息時間だ。

 個室の便器のふたは、一つしか閉まっていないから、少しだけさみしい気分になりながら、僕は眠りについた。

 今日はオフィスビルの見回りの人もやってこなかった。たぶん、今日の担当はアルバイトの若いお兄ちゃんだからだろう。彼が見回り担当の日は、半分くらいの確率でしか、彼はここのフロアまでやってこない。もちろん、他の見回りの人は、きちんとやってくるのだが。

 彼らは日付が変わる前後に、フロアをうろうろとしてから、トイレの中にも誰か人がいないことを確認するのだ。ただ、個室の一つ一つまで彼が見に行っていることはなくて、万が一誰かが個室の中にいたとしても、気が付かないんじゃないかと思う。

 そういえば、一度だけ、海外からやってきたお客さんが、僕の個室に閉じ込められたことがあった。

 トイレの個室のドアは、スライド方式になっているため、前後に開ける扉に慣れている人には、若干わかりにくいと思う。そんなわけで彼は扉の開け方がわからず、トイレでばたばたとしていたのだが、あいにく、そういう時に限って、来客がなくて、助けてあげることもできなかったりする。

 最後の最後は、偶然、横にドアを押したことで、彼は脱出することができたのだが、出てきたときの彼の笑顔には、表現しようのない安堵感に包まれていた。

 見回りにも来ないなんて、万が一僕のところで誰かが倒れていたらどうするつもりなんだろうかと思ったりもするけれど、今日はそんなことはどうでもいい。

 とにかく、途中で起こされることなく、眠れるのだから、こんなに素晴らしい日はないのかもしれない。


 翌朝、いつもと同じく、掃除のおばさんがやってきて、僕を眠りから目覚めさせる。

 この人は朝いちばんで誰もいないアリーのトイレに向かって、おはようと言ってくれる人の一人だ。

 おはよう、おばさん。今日もありがとう。って、いつも言っているのだけれど、聞こえているといいなぁ。

 おばさんはいつもと同じようにトイレの床を磨き、便器の一つ一つを丁寧に、豪快に洗い始める。そしてトイレットペーパーの補充をし、匂い消しやらの備品がちゃんとあることをさささと確認して、慣れた手つきで洗面台を磨く。

 すべての作業が流れ作業で、とても素早くて、きれいだと思う。

 彼女は無心にすべての場所を磨いてくれる。

 そして最後に点検をしながら、個室の便器のふたをしめてまわる。

 パタン、パタン、パタン、パタン、パタン。

 五つのふたがしまって、僕の心もぴかぴかになる。

「じゃあ、また明日ねぇ」

 彼女はそう言ってから掃除用具を整理整頓して片づけてから、そそくさと出ていった。

 今日も新しい日が始まった。

 掃除されたあとの清潔感に満ちたラベンダーの香りが本当に心地いい。


 ドアが開いて、最初に入ってきた本日の来客は、黒王子だった。

 黒王子が最初にやってくるなんて、珍しい。

 いつもはたいてい、シマちゃんか、シマちゃんとアキちゃんの二人組が最初の来客だ。

 黒王子は朝一番のトイレの香りに少し驚いた様子だった。

「こんなにきれいなんだねぇ。アリーのトイレ」

 それもそのはず、黒王子は営業として採用されたこともあって、入社翌日から外回りに連れて行かれていて、朝一番に誰よりも早くオフィスに来たことはない。

 朝一番のトイレの空気は澄み渡っている。

毎朝の掃除のおばさんのおかげでもあるけれど、誰にも汚されていない、何か神聖な香りさえ漂う雰囲気がすると、僕でさえも思う。

 黒王子は個室をのぞいて、また驚いた声をあげた。

「すげー。便器のふた、全部閉まってる」

 お。王子、いいところに気が付くね。そうそう、トイレのふた閉めてね。これから。

「ここの掃除のおばさん、すげー人なんだろうな。めちゃくちゃ綺麗じゃん」

 黒王子はそう言って、一番奥の個室に入って行った。

 彼は用事をすませたあと、もとにあった通りにふたをしめてから個室をあとにした。

 偉いぞ、黒王子。

 黒王子はそのまま洗面台に立って手を洗って、しばらく鏡の中の自分をながめていた。

 そこへシマちゃんとアキちゃんの二人組が入ってきた。

「あら。おはようジョン。早くない?」

「あ、おはようございます、グッモーニン」

 ジョンこと黒王子は二人に挨拶をする。

「早いのはお二人なんじゃないんですか?」

 子どものいる家は朝は早いのよ、とシマちゃんが苦笑しながらジョンと会話を交わす。

「朝一番のアリーのトイレ、こんなにきれいなんですね」

「まぁ、そうね。きれいっていうか、清潔?」

 アキちゃんが黒王子の横で鏡の中の自分を見つめながら返事を返した。

「清潔ねぇ」

 黒王子はなるほどなぁという顔をしながら、シマちゃんとアキちゃんを見つめた。

 三人は思わず顔を見合わせながら、なんとなくおかしくなって、笑い始めた。

「ま、綺麗で素敵なトイレだと思うわよ」

 シマちゃんはそういって、大きなカバンを洗面台の片隅に置いて、トイレの個室へと入っていった。

 その様子を確認しながら、黒王子はアキちゃんの耳元でこそっと囁いた。

「アリーのトイレは清潔かもしれないですけど、アキさんはマジできれいっすよ」

 突然耳元で黒王子が囁いた言葉に、思わずアキちゃんは目をぱちくりさせた。

 その様子にかまうことなく、黒王子はさっさとトイレから出て行ってしまった。

「ちょ、ちょっと」

 アキちゃんは言葉を失いかけて、出て行くジョンを引き留めようと声を出したが、黒王子には聞こえていなかったようだった。

 しばらく洗面台の前で茫然と立ち尽くしていたアキちゃんに、個室から出てきたシマちゃんが声をかけた。

「何かあった?」

 シマちゃんの声に我に返ったアキちゃんは、ちょっとふくれた顔をしながら、あいつ、なんかズルい、と低い声で小さくつぶやいた。

「ははは」

 シマちゃんはアキちゃんの様子にちょっと笑いながら、何を言われたのか知らないけど、まぁ、いいじゃん、彼は黒い王子様なんだから、と言いながら、化粧直しをしはじめた。

 アキちゃんは、もー、と叫びながら個室に入って行った。声は多少怒った感じがこもっていたけれど、アキちゃんの表情は満面の笑みだった。

 黒王子、にくいなー。朝から、女の子に幸せを振りまくなんて。

 個室の中でアキちゃんはもう一度、もー、と、笑顔で叫んだ。

 マスカラをつけながらシマちゃんは小さくつぶやいた。アキちゃん、黒王子の毒牙にかかっちゃったんじゃないのかねー、と。そして、続ける。私、今日もイケてる!と。

「先行ってるねー」

 シマちゃんは満面の笑みで怒っているアキちゃんをあとにして、トイレから出て行った。


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