アリーのトイレー6
と、そんなことを考えているうちに、急ぎ足で大きな茶色いバッグを抱えたシマちゃんがやってくる時間になった。
シマちゃんは子どもを迎えに行くために、夕方十七時過ぎにみんなよりも一時間早く退社しているのだ。普段、僕の日常においては、決まった時間にやってくるお客さんという意味では彼女が最後だ。
シマちゃんはバッグを洗面台におもむろに置いてから、個室に駈け込んで行った。個室でもさささっと用事を済ませて、あっという間に洗面台に帰ってくる。
洗面台の前では朝と違って、ゆっくりお化粧を直すこともなく、おろしていた髪の毛を一つにまとめて、行かなくちゃ、とつぶやいて、さっさと僕のところから出ていく。
シマちゃんにとって、髪の毛をまとめることは、一人の会社員からお母さんに戻る瞬間の魔法みたいなものなんだろう。髪の毛をまとめたあと、行かなくちゃ、と言っているシマちゃんはどことなく、普段見かける姿よりも優しい笑顔をしているからだ。
時に忙しくて疲れ切っているときでも、彼女は帰る前に必ず僕のところに寄ってから帰るのだ。そしていつも同じように、髪の毛を後ろで一つに束ねてから出ていく。
母は強しとはよく言ったもので、本当にシマちゃんはどんなにつらそうな表情の日も、十七時過ぎには、愛情たっぷりの母親の顔に戻ることができるのだ。
シマちゃんが帰ったあとは、今日は皆、何時に帰るのかなというのが僕の関心事項だ。たいていの人は帰る前に僕のところに寄ってから帰るからだ。
唯一、水曜日だけは僕はみんなの帰宅時間を想像することができる。というのは水曜日は定時退社日と決められていて、みんな、十八時には会社を出て行くからだ。水曜日の十八時過ぎは、昼休みと同じくらいのラッシュが始まる。
帰りに用事があるのかないのかが、一目で分かる。たとえば合コンかデートに行く前の人たちは男女問わず、鏡の中の自分とにらめっこしてから出て行くし、何の用事もない人は焦ることなく、のんびりと用事を済ますことができる。
そういえば支店での飲み会の日なんかは、柏木さんがみんなに、早く、急いで、とみんなをあおりにくることもあった。皆、飲み会に行く前にここに寄るのだということを柏木さんは知っているからだ。もちろん、柏木さん自身も退社する前、必ず僕のところに寄ってくれる人の一人なのだが。
今日はなんでもない月曜日だから、十八時のラッシュは関係ない。
おっと。
一人だけ、比較的同じような時間にやってくる人のことを忘れていた。それは支店長だ。彼は大体いつも十八時過ぎになると、僕のところへやってくる。
彼は曜日を問わず、毎日が定時退社日だ。
むしろ水曜日はトイレや電車が混むことを知っていて彼は早めに帰る。水曜日はシマちゃんが出て行ったあとにやってくる来客が決まって支店長だ。
今日も彼は十七時半にアリーのトイレにやってきた。
そして鏡の前で大きなあくびをしてから、やっと一日が終わったという顔をしてから出て行く。
この支店長、本当にどんな仕事をしてここまで偉くなってきたのか、正直僕にも想像がつかない。たぶんこの支店をまとめているのは柏木さんだと想像できるからだ。
僕のところで交わされる会話から察するに、支店長は本当にゴルフ三昧で、接待に明け暮れている人に違いなかった。そして、何か重要な決断や契約の噂話には、必ず柏木さんの名前が出てくるのだった。
実際、この支店には営業部と人事経理総務部の二つの部門があるけれども、部長という肩書を持っているのは柏木さんだけで、人事経理総務部の部長は事実上、支店長が兼任することになっていた。
それでも支店長が会社に来ることがあまりないからか、いつも人事課長も経理課長の山口さんも柏木さんにいろんなことを相談していた。
ちょっと話しにくいことなんですけれど、相談にのってもらえないですかね?と山口さんはいつも鏡の前で柏木さんに話しかける。柏木さんも、トイレで山口さんに相談されることは、何かしら重要な意味があるということに気が付いているようで、二人はそのあと、だいたい別の場所で会議を設定しているようだった。
ふむ、思い出してみると、人事課長もトイレで手を洗っている柏木さんに、このあと、ちょっとお時間もらえないですかね、とよく言っているなぁ。
「やっと帰ったわね、接待大魔王」
「山本さん、本気で怒ってらっしゃいますよね」
「まぁ、ねー。そりゃあ腹も立つわよ」
支店長が会社から出て行くのを気にしながら、山本さんと細貝君がやってきた。
「っていうか、あんた、経理担当じゃないの?彼がどれだけの接待費使っているか、わかってるんじゃないの?」
山本さんが細貝君に詰め寄る。
「わからないわけじゃないですけれど」
細貝君はちょっとだけ、山本さんの突然の質問におびえながら、続ける。
「接待費についての管理は山口さんが直接やってらっしゃるので」
「なるほど。山口さんはグルってことなのね」
ちょっと怒りに満ちた声で山本さんが細貝君をにらみつけた。
「いや、そうじゃないと思います」
今度は冷静に細貝君が答えた。
「たぶん、いつもそのことで柏木さんによく相談されているはずなので」
「営業部長に?」
「毎月オーバーしているので、たとえばゴルフのお金とか、どうやって処理するのがいいか相談していたと思います」
「はーぁ。なんか、どうしょうもないわね、ここの支店」
山本さんは彼女がかわいそうだわと言いながら、大きなため息をついて、個室に入っていった。
山本さんと細貝君が個室に入っている間に、人事課長がトイレにやってきて、個室へと入っていった。
そんなことに気が付かないまま、個室から出てきた山本さんは手を洗いながら個室にまだいる細貝君に向かって話しかける。
「だいたい、うちの人事って何の仕事しているのかさっぱりわからないわよね。接待ゴルフが上手な人が出世して、業績をきっちりあげている柏木さんみたいな人が支店長にもならないなんて」
山本さんの台詞が終わるころ、細貝君が個室から顔を出した。
「確かに、柏木さんが支店長みたいなもんですからね。我々スタッフにとっては」
細貝君の台詞に本当に、頭にくるわ、あの接待大魔王、と吐き捨てて彼女はそそくさとトイレから出ていった。
鏡の前で、細貝君が丁寧に手を洗っていると、ひょっこり人事課長が個室から現れた。
「ねぇ。山本さん、支店長と何かあったの?」
「あ、呉さん」
さっき山本さんが思いっきり、うちの人事は何をやっているんだと怒っていたけれど、知らない間に呉課長にそのことを聞かれていたようだった。
「ま、本人に聞いてください」
細貝君は最初、ちょっとだけ、しまった、聞かれていた、という表情をしていたのだが、彼の場違いな質問に、全くこの人も無神経だなぁという気持ちになったようだった。
どれだけ、空気読む能力ないんだろうな、この人事課長。
今日は僕のところに来る度に山本さんは同じ話をしているわけで、彼女が普段と違う雰囲気であることくらい、気がつけばいいのに、気が付かないのが、この人事課長なのである。
「うむ」
呉さんはちょっと困ったような顔をしながら、細貝君を見つめた。
「やれやれ」
声になるかならないくらいのトーンで細貝君はそうつぶやくとトイレから出て行ってしまった。
と、彼と入れ違いにやってきたのは、柏木さんだ。
「あら、呉さん。何かあったの?ちょっとぼーっとしている感じだけれど」
柏木さんは唖然としている呉さんに話しかけた。
「あ、柏木さん」
話しかけられていることに気が付くと、呉さんは細貝君にしたのと同じ質問を柏木さんにしてみることにした。
「山本さん、支店長と何かあったんですか?」
その質問に、柏木さんはぷぷっ、と吹き出しながら細貝君と同じ回答を返すのだった。
「まぁ、本人から聞くのがいいんじゃないかしら?本当に支店長様も困ったものよねぇ。もう少しだけ、やり方を変えてもらえたら、彼女はあんなに怒らなかったと思うんだけど」
そして颯爽と一番奥の個室へと消えて行った。
個室へ入っていった柏木さんを追いかけるのもどうかと思い、呉さんはふむ、と納得できない表情でトイレから出て行った。




