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アリーのトイレー5

 アキちゃんが出て行った後、定期的な来客は一気に減る。

あとは皆、会議の前だったり後だったりとか、それぞれのタイミングで僕のところへやってくるだけだ。

 会議に遅刻しそう、と言いながら入ってきたのは、ダイスケくんだ。

 彼はこの前も、会議に遅刻しそうだと言いながら、太田部屋へ駈け込んでいったんだっけか。そして、そのとき、あまりにも慌てていたからか、ペンをトイレの便器の中に落としてしまったのだった。

 しかもどうもそのペンは、彼女の海外旅行のおみやげらしく、ダイスケくんはいさぎよく、便器の中に手を突っ込んで、そのペンを取り戻したのだった。

 自分でいうのもなんだけど、僕の中はそんなに汚い方じゃないと思うのだが、ダイスケ君はそのペンを持って、そそくさと洗面台へ行き、会議に遅刻するのも忘れて、かなり念入りに洗ってから出て行ったのを覚えている。

 ん?今日もあのペンを胸にさしている。落とすなよ、ダイスケ君。

 ダイスケ君は今日はペンは落とさなかった。

 はぁ、とため息をつきながら、トイレの水を流すと、ダイスケ君は個室をあとにした。

 一応、今日はペンを落とさないか気にしていたみたいで、最後まで、左胸ポケットのペンをきちんと押さえていたのが、ダイスケ君らしい。

「わー!今度は携帯かよ!!」

 なんだなんだ。

 ダイスケ君、無事にトイレから出てきたかと思いきや、なんと、今度は洗面台に携帯電話を落としたようだ。

「やべー!!」

 とっさの動作で素早く携帯電話を拾いあげると、彼は備え付けのペーパータオルで携帯の水気を取り始めた。

「ったくー!!なんだよー!!俺!!ついてない!」

 まぁ、ついてないというか、なんというか。

「俺、トイレに嫌われるようなことしたかなぁ」

 懸命に携帯電話をふきながら、ダイスケ君が独り言を叫んでいる姿は、少し面白い。まぁ、僕に嫌われるようなことは何一つしていないから、安心していいと思うけど。

 というか、多分、ダイスケ君、もっと余裕もって会議に行った方がいいと思うよ、と誰か彼に言ってあげるべきだなぁ。

「とりあえず、乾かすしかないな」

 大事そうにペーパータオルに包むと、ダイスケ君はそそくさとトイレを後にした。

 ん?

 太田部屋のトイレットペーパーの上に、何かがのっかったままだ。

 白い電卓だった。

 これは確実にダイスケ君の忘れ物だ。

 まったく、誰かちゃんと彼に指導してやってくれ、と思わず僕もため息が出てしまった。

 と、これまた慌ててダイスケ君がトイレに帰ってきた。

「あー。よかった。トイレに忘れてたんだなぁー、俺。電卓ないと殺されるよー」

 ばたばたと電卓を持って、ダイスケ君が出て行った。

「ホント、あいつはアホだな」

 出ていくダイスケ君と入れ替わりに太田さんがやってきて、そうつぶやいた。

「会議始まるまであと三十分もあるのに、何をそんなに急いでいるんだか」

 太田さんはそう言って、誰に指示されることもなく、自然に太田部屋へ入っていった。

 彼はお昼頃と同様、あっという間に個室から出て、あっという間にトイレから去っていった。

 僕のところで過ごす時間は同じくらいだというのに、太田さんの余裕具合とダイスケ君の慌て具合の差は、なんなのろうか。

 そんな一騒動のあと、少し甲高い声を響かせながら、山本さんと柏木さんが僕のところへやってきた。

「それで、本当にむかついちゃって」

「それは支店長にも非があるわねぇ」

「柏木さん、そう思います?」

 何やら久しぶりに見かける山本さんは、少し怒ったような感じで柏木さんとしゃべっている。

 支店長からゴルフ接待ツアーを組むように頼まれた山本さんは、早朝一番のゴルフの予約を取ったそうだ。

そこまでは何の問題もなかったのだが、お客さんが海外から来ている間で添乗に出ていたにも関わらず、ゴルフに来るように言われたようだ。

 なんでも今回の接待の相手は、肝いりのゴルフ好きで、山本さんの噂を支店長から聞いたらしく、ぜひ一緒にまわりたいと言っているらしい。

「で、ない、ない、ないです、って言ったんですよ」

 大切なツアー客の添乗が終わる翌日だったこともあり、山本さんは普通に断ったのだそうだ。

 二人は並んだ個室に入ってからも、おしゃべりを続ける。

 本当に女の人はよくしゃべるなぁ。

 というか、多分、山本さんはかなり本気で怒っていたようで、どうしても誰かに話さないと気がすまないという雰囲気だった。

どうやら一度は断ったそのゴルフの前日に、突然電話がかかってきて、明日朝ぜひ迎えに来るときだけでも来てほしいと言われたのだそうだ。顔を出してほしいのだけれど、というお願いをされたそうだ。迎えに、というのは朝の七時に顔だけ出してほしいという意図のようだった。

結局のところ、彼女は支店長に電話で、お言葉ですが支店長、当日になってからのご依頼は引き受けかねますと丁重にお断りしたのとのことだったが、電話をもらった日、山本さんは添乗の最終日で、ようやくおわった、というすがすがしい気分になれた日だったのに、と思った瞬間の出来事だったと山本さんは説明した。

 そこまで話し終えると、トイレの水洗ボタンを押して、山本さんが先に個室から出てきた。彼女は、はぁ、と思いっきり短くため息をついて、手を洗った。

「まぁ、大人の対応じゃないわね、それは」

 柏木さんはそう言いながら個室から出てきた。

 本当に、そうですよ、と山本さんは強い口調で鏡の中の誰かをにらみつけた。

「酔っ払いのおっさんが、夜中の十二時過ぎに電話してきて、セクハラですよ」

 ちょっとだけ大きな声で山本さんがそう言った瞬間、トイレのドアが開いて、支店長が入ってきた。

 山本さんは入ってきた人が支店長だということで、少しだけ目を見開いたが、何もなかったかのように、ペーパータオルで手をふきながら、最後の一言を柏木さんに言った。

「世の中には常識と非常識がわからない人もいるってことですよ」

 捨て台詞らしきものを残して、彼女はさっさとトイレから出て行った。

「そうねぇ。常識と非常識って難しいわね」

 柏木さんはそういいながら、洗面台の鏡をながめた。

 入ってきた支店長は、先に入っていた二人の殺伐とした雰囲気に少し驚いた表情を見せたものの、何食わぬ顔で個室へと入って行った。

「ぜひ常識ある方に偉くなってもらわないとね」

 支店長が個室へ入るのを確認してから、柏木さんはわざと聞こえるような声の大きさで独り言を言いながら、トイレから出て行った。

 いやぁ、実に怖いことに、人のうわさ話をしていると、その人がやってくるというのはまんざら嘘でもないと思う。

 トイレで繰り広げられる数々の会話のうち、他人の話をしていると、その人がやってくるというのは本当にしょっちゅうある。

 今回のターゲットは支店長だったけれど、誰もがみんな偉い人の話をしているわけではなくて、時には今日の誰かさんのスーツはいまいちだとか、そういう噂話もあるし、飲み会の席での無礼な出来事の話の日もある。

 会議のあとは、あの発言はない、と切れ気味に話している人もいたりする。

 普段、会社のデスクで話しにくいことを話すとき、なんとなく僕のところへやってくる人が多いと思う。

 その人たちの多くは、皆、鏡を見ながら、手を洗いながら口々に自分が思っていることを話し始める。 きっと彼らは自分の顔を改めて見つめたときに、自分が今、何を思っていて、何を他人と共有したいのかに気が付くんじゃないかと僕は思う。

 普段、人は自分の顔をまじまじと見る時間は、あまりない。きっと朝の身支度の時か、女の人が化粧をするときぐらいなんじゃないかと思う。その時間を除くと、自分自身を改めて見つめる場所は、僕のところくらいしかないんじゃないだろうか。

 ふと、自分の顔を眺めていると、顔の変化に気が付く人もいれば、自分の心の中にある不思議な思いに気が付く人もいるのだろう。

 きっと鏡を見ながら自分自身と対話している人も何人かいるんじゃないかと思う。

実際、一人で個室に入っていったあと、独り言を言いながら手を洗っている人は少なくない。もちろん、ため息をついたり、伸びをしたりと思い思いの姿で鏡の自分を見つめている人もたくさんいる。

 家族がいたりすると、普段、一人になる時間はなかなかないのだろうと思う。少なくとも僕のところの、それぞれの個室の中では、たいていの場合は一人になれる。もちろん、酔っ払いの場合は除いてだけれども。

 そう思うと、短い時間だけれども、僕のところで過ごす時間は、本当はとても貴重で大事な時間なのかもしれない。

 そしてそれが本当だとしたら、僕はトイレであることを、ちょっとだけ誇りに思ってもいいような気がする。ましてや僕には、名前まであるわけなのだから。


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