アリーのトイレー4
ジョンのことを考えているうちに、入口の扉があいて、歯ブラシを持った人事課長が入ってきた。彼は皆と外食することがほとんどなかった。いつも愛妻弁当持参で、自分の席でお弁当を食べているようだった。彼は食事のあとにいつも歯ブラシを持ってここへやってくる。
人事課長は賢いと思う。なぜなら、お昼休みが終わりに近づくと歯磨きにやってくる女の人の集団が、ここの洗面台を占拠してしまうからだ。
人事課長はもくもくと歯磨きをしてから、そのあと、フロスを取り出して、一本一本の歯の隙間の掃除までする。大きく口をあけながら、長いフロスを指にまきつけて、本当に丁寧に歯と歯の間を掃除するのだ。
この光景はちょっとだけ愉快なものがある。
なかなか大口を開けて人が鏡と向かっている姿を見ることはあまりない。僕がそんな風に彼を眺めていることも知らず、彼はもくもくと、ただ、歯を掃除し続けるのだ。その様子がまた、なんとなく僕の中では笑える景色だったりもする。
歯磨きとフロス掃除を終えると、彼は一番奥の個室に入って、少し長い間その中に居座る。たぶん、彼にとっては至福の時間なんだろうと僕は思う。
この忙しいトイレに彼以外の誰もいない時間なんて、そうそうない。
ましてや、長い間個室に居座ると、下手をすると若い女の子たちに、あとで彼はトイレで何をしていたんだと噂されることだってあるかもしれない。そんな不安に駆られない、彼だけの時間が流れているのだから、きっと至福の時間に違いない。
そういえば、かつて、誰か忘れてしまったけれど、おなかを壊してしまった人がいて、どうやったら個室にこもった臭いを消せるんだろうかと掃除のおばさんに相談をしていた人がいた。それ以来、僕の個室にはそれぞれ、臭い消しなるスプレーが設置されているので、あのおじさんが入ったあとの個室は臭いとか言われる心配がない。
僕はそういう意味でも、毎朝掃除をしてくれるおばさんが大好きだ。彼女はこのトイレが男女兼用であることを知っていて、いろんな小さなところに気を使ってくれる。たとえばなぜだか女性陣はトイレで化粧直しだとか歯磨きだとかいろいろとやるべきことが男性よりも多く、たくさんの小物をトイレに置きたがる。
そんな要望に応えるべく、入口のそばに彼女は小さな棚を設置してくれていた。それぞれきちんと棚に扉もついていて、女性陣たちは男性陣たちにうっとうしい顔をされずに、化粧品だとか歯ブラシだとか女性に必要なものだとかストッキングみたいなものをしまっているようだった。
そんな彼女に掃除をしてもらえる僕は本当に幸せ者だ。
ただ、その戸棚は女性陣によって占領されてしまったために、人事課長は自分の歯ブラシとフロスのセットをいつも机にしまわなければならなかった。
人事課長がトイレから出て行ってしばらくすると、女性陣たちが一斉に僕のところへ集まり始める。
彼女たちは五つ設置された洗面台のうち、四つを占拠して、それぞれ歯を磨いたり、化粧直しをしたりするのが習慣だ。その様子を見たジョンが、化粧直さなくても、自然に崩れていく感じがいいのに、とつぶやいていたことがあった。その様子にさすがに女性陣も苦笑していたことをよく覚えている。
歯磨きをしながら女性たちは器用にもよくしゃべる。この前夕飯を食べた店がよかったとか今日のランチの店員の対応がいまいちだったとか、本当にどうでもいいことばかりのように聞こえるけれど、この時間、僕の空間は一瞬だけ女性トイレと化す。
誰が決めたわけでもないけれど、この女性陣たちの歯磨きの時間にトレイにやってくる男性は激減する。皆、女性たちが化粧を直すところを、見てはいけないとどこかで思っているに違いなかった。
ただ一人例外がいるとすれば、それはジョンだ。
彼は初日は歯磨きなんかするんですか、それはすごいですね。さすが日本人女性は違うとか適当なことを言っていたのだが、翌日から自分も歯磨きセットを持ち込みはじめ、その女性たちに交じって歯磨きを始めたのだ。
やっぱり食後は磨くべきだと思ったんですよ、と笑顔でジョンが言うと、なんとなく納得させられてしまったのか、今やすっかり黒王子も歯磨き仲間となっているのだった。
黒王子は歯磨きを済ませたあと、女性陣が化粧をしている風景を、まるで自分なんか存在しなかったような気配で眺めていることが多かった。化粧を直すなんて、とか時々茶々を入れながら、彼は自分がこの空間にいることをまるで楽しんでいるようだった。
僕は正直、黒王子がうらやましかった。
これまで、女子トイレと化した時間に、ほとんど男性社員はいなかったし、この女性陣の会話を盗み聞きするのは、僕一人だったに違いない。でも今は、この黒王子が現れたことで、彼はここでの会話を普通に社内に広めることができるし、むしろ女子トイレ化した僕の空間を楽しんでいるからだ。
とはいえ、黒王子もいつもいつも女性陣の話題についていけているわけではなく、話題がなくなると彼はそそくさと自分の席に帰っていく。僕はなんとなく、黒王子がいなくなるとほっとする。
黒王子が現れる前までは、僕にとっては昔、僕が誕生したときを思い出させる、華やかで、化粧品の香りが漂う女子トイレになれる時間だったのだ。そういう意味で、僕にとっては貴重な時間だったのだと思う。
おしゃべりな女性陣がトイレをあとにする頃、昼休み終了間際に駈け込んでくる人たちが必ずいる。外食から帰ってきた男性陣だ。
彼らは女性陣が出ていくか行かないかの微妙なタイミングをかぎわけ、女性陣が今洗面台をまさに去ろうという瞬間に、ドアを開けて個室めがけて入ってくるのだ。
男性陣が一斉に個室に入り、そそくさと手を洗って僕のところから出ていくと、大体昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。
このチャイムが鳴ってからの数十分間は僕の昼寝の時間だった。
皆お昼ご飯を食べた後で眠たいのか、それとも逆にパワーがついて元気なのか、仕事に専念する人が多い。再び僕のところへ皆がやってくるのは、だいたいチャイムがなってから三十分以上経ってからだ。
この間、僕は自分一人の時間を唯一楽しむことができる。
今日の午前中にあった出来事を思い出しながら、うつらうつらとしていると、静かな時間が流れていることに気が付く。
この平和な時間を壊そうとする人は、いつも決まっている。それはアキちゃんだ。
アキちゃんは昼休みの終わりに歯磨きをする人の一人だけれど、お昼休みが終わって三十分から一時間くらいする間に、必ず僕のところへやってくる。
しかももう一度歯磨きをしにやってくるのだ。
アキちゃんは鏡を見ながら、大きくあくびをしてから歯ブラシを口に運ぶ。アキちゃんはこの時間、相当眠たそうにしている。彼女にとって二度目の歯磨きは、目覚まし時計のようなものだと思う。
彼女はしばらく歯ブラシを動かしては、鏡をながめる、という動作を繰り返している。その姿は静と動の繰り返しで、はたから見ていると、眠気という魔物に、少しずつアキちゃんが挑んでいる様子がうかがえる。といっても、いつも最後の最後に勝利するのはアキちゃんの方で睡魔は洗面台からゆすいだ水とともに流れていく。
アキちゃんが眠気と戦っている様子は微笑ましいと思う。
彼女は歯磨きをしながら伸びをしてみたり、鏡を眺めながら、口を大きく開けてみたりする。この時の彼女は自分自身しか見えていないんじゃないかと思う。
確かにこの時間、アキちゃん以外の人がトイレに入ってきたことはなくて、彼女はいつも一人きりで鏡に向かうことができる。
一人であることのメリットは大きい。歯磨きも昼休みのときよりも大きな口を開けることができたし、何より彼女は鏡の中の自分と対話しているようにも見える。
歯磨きが終わるとアキちゃんは一番奥の個室へ入って行く。
たまにアキちゃんは奥の個室で居眠りをしている。睡魔が本当に凶暴でどうしようもないとき、アキちゃんは奥の個室でうとうとと、五分ほど居眠りをしてから席へ戻る。
歯磨きも無敵じゃないようだ。
今日のアキちゃんは普通に便器のふたを閉めてから出てきた。
トイレの個室で居眠りをするのは、悪くないアイデアだと思う。
仮に誰かがトイレの個室で居眠りを頻繁にしていたとしても、その姿を発見するのも難しいし、もしかしたら長い時間個室にこもっているのは、おなかの調子が悪いからもしれない。
それを個室のドアの向こう側から推測するのはかなり難しい。
まぁ、僕に聞いてもらえれば一目瞭然なのだが、トイレには花子さんだとかいうお化けしか住んでいないと思っている人たちには、そんなアイデアは浮かばないだろうけれど。
そういえば、居眠りをする人はアキちゃん以外にもう一人いたような気がする。確かそれは、はて、誰だったのだろう。
確か、いた。
でもちょっと思い出せない。
まぁ思い出せないくらいの頻度で彼は居眠りをしているのだから、そんなにしょっちゅうではないということだ。あ、でも男の人であることは間違いない。