アリーのトイレー11
お昼休みが終わって、ちょうど僕が昼寝をし始めたころ、珍しく柏木さんがやってきた。
今日は会議とかないのかな?
「アリーのトイレ、かぁ」
入ってくるなり、柏木さんは神妙な顔つきでそうつぶやいた。
そうです、柏木さん。あなたが僕をそう呼んだんですよ。
「ちょっと不思議な気もするけれど」
柏木さんはそっと洗面台の鏡と洗面ボウルをなでながらそう言った。
「どうせなんだから、やりますかね」
そして、一人、うん、と大きく頷いた。
「トイレの送別会」
そうか。
やっぱり、僕はみんなとお別れすることになるんだ。
柏木さんは僕の中を見渡して、さわやかな笑顔で僕に話しかけた。
「アリーのトイレ、ありがとう。大好きな場所だったわ、ここは」
いや、ありがとう、柏木さん。
僕もお礼を言いたいよ。
そうか。
ちょっと思い出した。
柏木さんは最初このオフィスに移ってきたとき、男女兼用トイレなんておかしいじゃないのかと言っていた若い女性の部下をなだめていたことがあった。
いまどき、トイレが男性と女性と別になってないなんて、非常識すぎます、セクハラもいいところです、とその女性従業員は言っていた。
確かに、そんな人が過去にいた。
その時、柏木さんが言ったのだ。
ねぇ、アメリカのドラマでアリー・マイ・ラブっていう素敵なドラマがあるの。見てごらんなさい。そうすれば、この場所の魅力がわかるわ。セクハラだなんて言えなくなるから。
と。
彼女は知っていたのだ。
男性と女性が同じトイレを使うことが、今のこの社会では一般的ではないこと。でも、それでもいいことだってあるということを。
最初から。
それから、男女兼用のトイレでいいことがあると言っていた人がいた。
これはたぶん呉さんだか誰かが言っていたことだけれど、男性はトイレを綺麗に使おうと無意識に努力するんだって。だから、本当にトイレがいつもきれいなんだと。
そんなことを言っている人たちだから、僕もここまで一緒にやってこれたんだろう。
多分、最初に僕を作った人は、女性下着メーカーの人たちで、僕は本当に女だけの世界のために作られたはずだったんだ。
もちろん、その人は僕がこんな風に今思っていることを想像もしなかったと思うのだけれど。
柏木さんは個室に入って、用事を済ますと、使ったあとの洗面台の周りをやさしく拭いた。
「もうすぐお別れかもしれないわねぇ、本当に」
柏木さんの顔は笑っていたのだけれど、しんみりした声でそう呟いた。
もうすぐ、お別れ。
正直その言葉の真意はわからなかった。
それは、みんなが言うとおり、柏木さんが転勤になることか。
それとも、僕は何かしら改築されてしまうのか。
だけど、僕にはただ黙ってみんなを見守ることくらいしかできない。
最初からわかっていたことだけれども。
「まぁ、お別れ会だからね」
彼女はそう言い残して僕のところをあとにした。
そうか。
僕は察した。たぶん、僕は改築されてしまうんだろう。
いまどきの男女別々のトイレに。
それはそれで、受け入れないといけないことなんだろう。
そして、僕自身がどうなるのかも正直分からない。
きっとその時がくれば分かるのだろうけれど。
僕が自分のことについていろいろと考えているとほどなくジョンがやってきた。
「さぁて。アリーのトイレを飾り付けるにはどうしたらいいかな」
ジョン、今日は午後から外出するんじゃなかったのか?
彼は片手にペンと小さなメモ帳を持って、トイレの簡単な図面を描きはじめた。
そして、天井やら鏡やらに何かを貼ったりつるしたりできるのかをメモしているようだった。
「よし、さ、行こう」
ジョンはあっという間にメモを取り終えると、そそくさとトイレを後にした。
こういう時、彼の行動はとても俊敏だ。
察するに、柏木さんはジョンの提案に賛成をしたのだろうから、営業に出る前にどうしても、何かをしたくなったのだろう。
図面を描きとってジョンが出ていった後に、ダイスケ君がやってきた。
ダイスケ君もなぜかジョンと同じようにペンとメモを持っている。
「うーん」
彼はうなりながら、トイレの図面を描きはじめた。
まったく、なんなんだ。二人して。
同じことを二人でやらなくてもいいのに。
ダイスケ君はジョンと違って今日は余裕があるようだ。
彼は長さを自分の歩幅ではかりながら丁寧にメモを取る。
ちょうど彼が図面引きに夢中になっているとき、珍しく出勤している支店長が入ってきた。
「あ、支店長お疲れ様です」
ダイスケ君の挨拶に、あ、お疲れさん、と、そっけなく手を振って個室へと入って行く。
支店長の態度にまぁ、しょうがないな、この人は、と言いたげな表情だったが、気を取り直して、また図面に戻る。
「あ、ダイスケ君、お疲れ様」
手元に集中していて、山本さんがトイレに入ってきたことにダイスケ君は気が付かなかったようだった。
「お疲れ様です、すいません、気が付かなくて」
ダイスケ君は山本さんにすまなさそうな顔を見せた。
「あ、全然気にしないで。支店長の無愛想よりましだから」
山本さんはそういいながら、ふふふと笑いながら個室に向かって足を運ぼうとした。
咄嗟にダイスケ君があわてて、メモに、‘今、してんちょうがこしつに!’と殴り書きをして山本さんに手渡した。
そのメモを見て特に驚く様子もなく、山本さんは冷静にオッケーというサインをしてみせてから個室へと入っていった。
おっと。
ここで支店長が出てきたら、ダイスケ君はどんな表情をするのだろうか。
さっきまで図面に集中していたダイスケ君とは打って変わって、彼は普段のダイスケ君に戻っていた。
「やべ!」
今日は持っていた定規が洗面台に落ちた。
幸いにも洗面台はそんなに汚れていなかった。
丁寧に定規を拾って水で洗い流してから、ペーパータオルで定規をふく。
まったく、ダイスケ君、いつになったら物を落とさないようになるんだろうか。
「定規、落としたのか」
無愛想な支店長が無愛想な声でダイスケ君に話しかける。
個室から出てきて手を洗う横で、ダイスケ君が、はい、そうなんです、いっつも何かを落とす癖がありまして、と棒読みで台詞を返した。
その言葉を珍しく最後まで聞いていた支店長は、そうか、気を付けるんだよ、と一言声をかけてトイレをあとにした。
支店長がそんな風に人の話を聞いて、回答するなんて。
ダイスケ君は開いた口がふさがらず、しばらくぽかんと突っ立っていた。
「山本さん、支店長、愛想よくなったんですけど」
「薬が効いたのよ」
支店長が出て行くタイミングを見計らって、山本さんが個室から出てきた。
「さっきの私の言葉が聞こえてただけでしょ、きっと」
ふん、と彼女は笑い声にも怒りにも似た声をあげて、トイレから出て行った。
その姿に、ダイスケ君もさすがにふう、と小さくため息をついた。
「あ、やべえ」
ダイスケ君、また何か落としたのか。
いや、違うようだ。
「山本さん!!」
彼はあわててトイレから出ると山本さんをおいかけた。
せっかく描いた図面の裏に、さっき殴り書きをしてしまったのだ。
まったく。
誰か、頼むから彼を一人前の大人にしてやってくれ。
しかし、ダイスケくんはついていた。
山本さんはメモ用紙を丁寧に折って捨てずに持っていてくれたのだった。
彼女からメモ用紙を返してもらうと、もう一度アリーのトイレに戻ってきて、数字をいくつか書き足してから、彼はトイレをあとにした。
本当に、ここの会社の人たちは個性豊かだ。
毎日飽きることがない。
こんな風景ももうすぐ見納めだと思うと残念でならないけれど、僕自身、ある種のあきらめというか割り切りみたいなものがすでに芽生え始めていた。
柏木さんが、あんなこと言ったからだ。
お別れ会。
その言葉を聞いただけで切なくなる。
お別れを記念してやるわけだ。
それってある意味お祝いってことか?
いや、そうじゃない。
多分、思い出作りのためにやるんだろう。
だから、お別れの会なんだ。
まぁ、その日、どんなイベントになるのか、まったく想像もできないのだから、無理して考えてもしかたない。
ただ、そのお別れ会とやらが、きっと間違いなく、僕のアリーのトイレ人生の最後の大きな思い出になることだけは確実だった。
その日がそんなに遠い未来でないことを、僕は知っていた。
でもきっと、その日は相当楽しい日になるに違いないということも知っていた。
ジョンとダイスケ君が僕の図面を描いたその日から、いろんな人が僕のトイレの図面を描くようになった。
朝一番にやってくるシマちゃんとアキちゃんの二人組でさえトイレの見取り図を描きはじめたのだ。二人はおしゃべりしながら、やっぱりここに机を設置すべきかなぁと相談していた。
なるほど、みんな、アリーのトイレをどうやってパーティ会場にするのかをアイデアを出し合っているようだった。
確かにこの場所でパーティをしようにも、洗面台くらいしかテーブルとなる場所がない。しかも洗面ボウルがその大半を占めているので、何か台を載せないと大きなテーブルにすらならない。
トイレの個室一つ一つに何かを置くとしても、正直ちょっと狭い。
だからみんな、どうやってここをパーティ会場に見立てるのかを必死で考えているようだった。
僕自身もそんな風に飾り付けてもらったことなど一度もないから、正直楽しみだ。
そうだなぁ。
せっかくだから、個室にも何か飾り付けをしてくれないかなぁ。
たとえばクリスマスのリースとか。
それともみんなの思い出の写真とか。
こういうことって考え始めるとわくわくしてくる。
立食パーティだよね、とか言っている人もいたけれど、トイレで何かを食べることに抵抗がある人もいるはずだ。
でも過去には、どこか適切な場所がなくて、コンビニエンスストアで買ってきた棒状のチーズケーキが食べていた事務員のアルバイトの女の子がいたなぁ。
確か彼女は支店長の秘書として、アルバイトとして雇われていた女の子だ。
周囲から孤立していたとかそんな風ではなかったのだが、いつもキレイな容姿を保っていたし、みんなが旅行先や仕事先で買ってくるお菓子たちも断っていたような彼女だった。
でも多分、あの日は相当ストレスでも溜まっていたのか、何か甘いものが食べたかったんだろうなぁ。
甘いものは、ちょっと。
彼女がお菓子を断る台詞だったと噂好きな営業の人たちがトイレで話していた。
それがまたちょっとセクシーで素敵な言い方なんだよなぁと幻想を夢見ていた人もいたと記憶している。
まぁ、そんな彼女がどうしても甘いものを食べたくなった時、隠れてどこかで食べるのに、なぜか僕のところを選んだという事実があっただけだ。
でもそんなアルバイトの彼女は三か月くらいで辞めていった。
支店長がゴルフ三昧のスケジュールにするものだから、秘書としての仕事がなくなったのだと柏木さんが言っていた。
一般的にトイレで何かを食べることがご法度であるかのように感じるけれど、僕自身のスペースは相当清潔に保たれていると思う。
もちろん、個室の便器はちょっと違うと思う。
使われていくうちに、いろんなウィルスだとかが住みつくようになっているかもしれない。
でも少なくとも洗面台の周辺はみんないつもきれいにしてくれているし、ましてや掃除のおばさんが毎朝消毒してくれているのだから。
だって、このオフィスの机の上の掃除、週に一回すればいい方じゃないかな、僕の知る限り。たまに山本さんだとか呉さんだとか割と綺麗好きな人たちは、僕のところからペーパータオルを濡らして持っていって、掃除に使ったりしているのを見かける。
まぁつまりは心の持ちようってことじゃないかなとさえ思うのだ。
例のチーズケーキを食べていた彼女の場合は、彼女自身のイメージを守るために、僕のところを利用したわけだ。
確かに会社の中で誰にも見られずに一人っきりになれる場所なんてない。
会議室だって、薄い窓ガラスに覆われていて人影はわかるし、いつ誰かが間違えてドアを開けてしまう可能性だってある。
それと比べると、トイレの個室にはそんな心配もない。
うーん、彼女は正しかったのかもしれないなぁ。
送別会がいつ行われるのかについては、僕はみんなの会話から容易に察することができた。みんながいよいよ来週だね、とか言い合うようになったからだ。