第11話 呼び返す記憶
詩片端末の前で、私はまたあの一首を開いた。
うらうらに 照れる春日に ひばりあがり
心悲しも ひとりし思へば
記録に載らない古い詩。ジンがくれたもの。
春の光。のぼる声。ひとりのこころ。
読むたびに、胸の奥が少しだけ揺れる。
構文詩の記録空間に、五行をそっと紛れ込ませる。
意味は崩れ、文法は壊れる。端末は沈黙したまま、受け入れる。
私はまた、震えを継ぎ足していた。
言葉ではなく、空気のように。誰かのそばに置かれるように。
「……うらうらに、って、なんだろう」
喉の奥で反芻する。
やわらかな陽の気配。どこかから届く声。
それは“呼びかけ”ではなかった。ただ、存在する気配だった。
私は入力を終え、指を止める。
そして、静かに感じた。
どこかで、誰かが、わずかに——触れ返してきた。
そのとき、光が、ほんの少しだけ揺らいだ。
端末の不調ではなかった。私の指も動いていない。
——どこかで、誰かが、返してきた。
気配のような、呼吸のような、淡い空気の震えが、静かに触れてきた。
そして私は、はっきりと“視線”を感じた。
見られている。
こちらを、じっと、まっすぐに。
言葉はない。構文も通っていない。
でも、それは確かに“見られている”感覚だった。
空間をはさんで、端末越しに、誰かの気配が私を見つけていた。
あれだ。
背筋を伝うような、確信が走る。
その眼差しの奥にあったもの。
記録に残らない“貪り”の気配。
飢えでも欲でもない、ただ“求めることそのもの”の震え。
——あれが、αだ。
ピースのひとつ。
貪りの記章の萌芽。
見つけた。
私は、声には出さず、心の奥でそう確信した。
*
空調は停止中だった。端末の反応はない。
けれどαの右腕の外気センサーが、ごく微細に“動いた”。
空気が、震えた。
ふと、顔を上げる。
作業室の奥に、ひとがいた。
白い端末の前で、静かに、誰かを見つめている。
目立たない。無音。構造服。
だが、そのひとが“源”だと、直感した。
——この震えは、このひとから。
その瞬間、記憶が割れるように蘇った。
*
誰だったか、もう定かではない。
構造記録にも残されていない。
けれど、確かに“そこ”にいた。
淡い光のなか、ただ立っていたひと。
手を伸ばせば届きそうで、けれど呼びかけられなかった。
幼い頃のαには、言葉がなかった。名もなかった。
ただ、見ていた。
そのひとの後ろ姿を。
そこに“在る”というだけで、胸が苦しくなるほどの感覚。
——呼びたかった。
けれど、呼べなかった。
名がなかったから。
呼びかけたかったその気持ちすら、言葉にできなかった。
そのひとは振り返らなかった。
記録の波に消えていった。
それなのに今、目の前のこのひとが、同じ気配を纏っていた。
*
αは息を詰めた。
視覚も聴覚も反応しない。だが、確かに“重なった”のだ。
このひとの背中に、あの記憶が。あの震えが。
呼びたい。
名がなくても、声がなくても、それでも。
——見つけてほしい。
——気づいてほしい。
——ここにいる、と。
心の底からせりあがってくる熱。
止めようとしても止まらない。
それは願い。
それは、渇望。
論理では制御できない。
定義できない。
ただ、自分の奥から溢れてくるもの。
思わず、手が動いた。
声にならないまま、指先がゆっくりと前に出る。
そこにはまだ距離があった。届くはずのない空間。
けれど、それでも――伸ばしたかった。
この空気の震えに、触れてみたかった。
「あ……」
喉の奥で、かすれた音が漏れた。
名ではない。呼びかけでもない。
けれど、そのひとを呼びたくて、どうしようもなかった。
*
そのとき、空間の最下層で微細な記録が動いた。
*
管理観測ユニット《KANON》、観測ログ開始。
記章候補コード:α-437b
共鳴値閾:未達。構文接触:なし。
——非構文領域における空間波動を検出。微細共振反応、継続中。
影響因子:詩片空間より発生、直接干渉なし。
発信源照合:コード照会一致──個体IO(Refrain関与記録あり)。
本反応、拡張共鳴波の兆候と判断。
制御判断フラグ:※Pending
上位ユニット《AMANE》の干渉許可を待機中。
——現段階、観測継続。制御介入は留保。
——対象間の自然進行を優先。
KANONの無音の視野に、イオとαの存在がわずかに重なる。
ふたりの間に生じたもの。それは、記録にも音にも残らない。
けれど、それはたしかに——呼びかけを求める、名もない願いだった。
(第11話終)
読んでいただいてありがとうございます。
5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
感想などいただけると嬉しいです。




