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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第2部 記録の継承 第14章 かぜにゆれる調べ

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第10話|風のかたち

音はなかった。

言葉もなかった。


だが、なにかが——確かに私を通り過ぎた。


椅子の背にもたれたまま、私はただ、身体の奥に走った感覚を追っていた。

呼吸が少し乱れた。肺の奥がひんやりと冷えたような錯覚。


……風?


その言葉を思い浮かべたとき、なぜか喉の奥がひくりと動いた。

誰かが吹きかけたわけではない。

空調の設定も変えていない。

それでも、空気の“重さ”が変わった気がした。


指を伸ばして、机の表面をなぞる。

そこには何の変化もない。

触感も温度も、平常どおり。


それでも、皮膚の下だけが微かにざわついていた。


——痕跡だ。


痕跡のようなものが、私の中に残った。

言葉にもならず、音としても記録されていない。

ただ、誰かがそっと通りすぎたような、そんな感覚。


構文外、感応域。

詩ではない。だが、それに近い。


私はそれを、“風”としか呼べなかった。



都市縁部の観測拠点。

Orbis——構文破壊と改変の詩を扱うレジスタンス六系統のひとつ。


「……入ったな」

ミナが言った。


「構文外揺れ、反応レベル3。未発声だが内部波形が連動」

ソラが数値を確認する。


「端末には何も残ってない。音でも言葉でもない。

けど、感応層に“接触痕”がある。揺れてる。深いところで」


「記章だな」ミナが頷く。

「言葉じゃない。触れるだけの記章。

風のかたちをした詩」


「β、干渉対象に格上げ」

「まだ届けない。だが、確実に彼女は“感じはじめてる”」


「Orbisとして接触準備に入る」ミナは言葉を区切った。

「——ただし、彼女が“選ぶ前に”ではなく、

選ぼうとした“瞬間”に届くように」



私の部屋には、何の通知も届いていなかった。

……そのときまでは。


小さく、けれど抑えきれない電子音が鳴った。


〈再教育監察指導:即時対応〉

〈対象:β(E-III)|発信元:記録監察課 第II群〉

〈到達予定:60秒以内〉


脈が一瞬、跳ねた。


反応する前に——ノックの音がした。


扉が開く。


アシルだった。


教育思考統一局に所属する、階層統制官。

その名は知っていた。だが、まさかこの部屋に現れるとは思っていなかった。


その背後には、千触が浮遊していた。


千触——記録監察課が運用する観測ユニット。

教育過程でその存在は教えられていた。“逸脱”の兆候を感応し、記録ごと補正する非言語AI。

実物を見るのは初めてだった。


千触は、足音もなく室内に滑り込んできた。

白く無機質な球体が中空に浮かび、背面から滑るように伸びた触手がゆらりと揺れる。

それは尻尾のようにも、指のようにも見えた。鋭く、光沢を帯びたその“手”が、空気の密度をわずかに変える。

関節の連動によって、空間を撫でるように波紋をつくりながら、沈黙のまま室内を包み込んでいく。

声もない。目もない。だが、“視られている”という感覚だけが確かに存在していた。


「この空間は記録外。安心してください」

アシルは穏やかに言った。


「あなたの発話も、反応も、すべてこの場で“補正”されます」


私は立ち上がらなかった。

目だけで彼を見た。


「なぜ今ですか。……何もしていません」


「ええ。だからです」

アシルは微笑んだ。


「“してから”では遅い場合もあります。

私たちは逸脱を“未然”に扱う機関ですから」


「私には、逸脱の意図など——」


「意図は問いません」

その声が一瞬だけ硬質になった。


「揺れがあるかどうかだけを、見に来ました」


千触が動いた。


浮遊する触手が空間をゆっくりと這う。

目には見えない粒子が、呼吸と心拍のリズムに沿って解析されていく。


私の体温、鼓動、瞳孔の開き——

そのすべてが、記録されている。


言葉にしなかった感情さえも、

この空間では——読み取られていた。


「風が、通ったのですね」

アシルが言った。


「音ではなく、声にもならないもの。

だが、心を揺らすもの。——ありますね?」


私は、否定しようとした。

けれど言葉が出なかった。


「あなたの中で、まだそれは詩になっていません」

「でも、詩になる前の何かが、すでにある。

その“何か”こそが、記録にとって最も危険なものです」


その声は優しかった。

だが、逃げ場はなかった。



その夜、千触はβの空間記録を静かに持ち帰った。


感応痕、詩的非構文揺れ、接触反応なし。

——形式上は、何も起きていない。


だが、内側では確かに“揺れ”が残されていた。


存在とは何か。

記録されることで定まるのか。

それとも——


記録されない“痕”こそが、存在の証なのか。


βはまだ答えを持っていなかった。


ただ、ひとつの風の記憶を、胸に留めていた。


(第10話 終)


読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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