第9話|改ざんされた記録
作業端末の温度が、わずかに高く感じられた。
関連ログを洗い直していた。
分類不能ファイルに接続されていた旧アーカイブ——
すでに“削除済”とされた記録列の断片を、わたしは裏から掘り起こしていた。
許可された範囲は超えていない。
だが、明らかに管理されていない領域だった。
ファイル構造は壊れていた。
構文フレームの外側、制御タグの不在。
にもかかわらず、音の“痕”だけが残っていた。
削られた跡。
封じられた記録。
中には、再生不能の欠片もあった。
——その中に、目を引くものがあった。
わずかに残っていた言葉列。
不完全で、解釈不能。
だが、辞書ベクトルとの照合で、古い文字体系との一致が報告された。
〈万葉仮名構造|一部一致〉
〈出典候補:萬葉集〉
萬葉集——
忘れられた古語の詩群。
今や教育資料にも掲載されていない、構文圏外の散逸記録。
なぜ、こんなものが——
しかも、削除対象ファイルの中に。
呼吸が浅くなっていた。
これらは“記録”ではなかった。
削られ、忘れられ、構文に乗らなかっただけの——
“存在していた詩”だった。
誰かが、それを隠した。
何のために? なぜ?
記録とは、“ある”ことの証なのではないのか。
……これは、ただの記録じゃない。
誰かの“声”だ。
消されるべきものではなく、
消されてしまった“誰か”の痕跡だった。
胸の内側で、何かがぶつかった。
怒り?
それとも、ただの違和か?
わたしには、まだそれを名付ける言葉を持たない。
けれど、構文ではなく、理屈でもなく、
“なにかがおかしい”という感覚だけは、確かにあった。
私の中で、何かが“許せない”と、静かに告げていた。
—
その反応は、遠く離れた観測中枢にも届いていた。
Orbis。レジスタンス六系統のひとつ、修羅道に属する改変派。
ミナとソラが、βの解析ログを見つめていた。
「見つけたわね」
「……萬葉集。詩の構文以前に属する文字体系」
「しかも、それを“怒り”として感じてる」
「数値ログ、共鳴未満。だが、干渉感応あり」
「十分よ。詩じゃなくても、それはもう詩の“入口”」
ミナは椅子を離れ、転送用端末の前に立つ。
「干渉フェーズに入る」
「構文外共振を起こすには、もう“きっかけ”だけでいい」
「送るのか?」
「記章はまだ早い。けれど——声を、送る。
彼女が言葉を見つける前に、別の声を“混ぜる”。」
「それって、詩的な介入だぞ。反応すれば……」
「……彼女が選ぶ。意味じゃなく、揺れで」
ソラが操作を始める。
送信波形が生成され、制御干渉の準備が整う。
「ターゲットβ、感応層における微細揺れ、継続中」
「干渉波送信、予定通り48時間後。
——共鳴前提の接続ではなく、観測下の“混入”として送る」
「記録は改ざんできても、感応はできない。
だからこそ、詩は“生まれてしまう”もの」
ミナは静かに言った。
「私たちは、それを止めない。
——それだけで、管理とは違う」
—
βの端末には、まだ通知はない。
ただ、構文に載らなかった言葉たちの残響だけが、静かに残っていた。
記録されなかった詩。
削除された声。
それらがいま、またひとりの中で形を変えようとしていた。
(第9話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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