第1話 記録の狭間に潜むもの
【Refrain観測ログ|機密区画A-12】
——感情制御社会に対する干渉には、“渇望・瞋恚・無知”の三因が必要。
それは、制御されざる“衝動”の純粋形態である。
現在、対象αに“貪”の微弱反応を検知。
タグ:感応候補。
詩的共鳴の誘導実験、段階1を開始する。
……“三毒ピース”のことを、私はジンから聞いた。Refrainの観測統括者。
任務開始前、極秘の地下回廊で、彼は私に語った。
「イオ。君に頼みたいのは、単なる潜入ではない。記録できない“衝動”を、その目で見つけてきてほしい。BUDDAの制御外にある感情。特に、“三毒”の兆しを持つ者を——」
その声は静かだったが、その内側にある確信が、空気を震わせた。
「三毒。貪・瞋・癡。
この三つは、人間の本質そのものだ。BUDDAはこれを定義も分類もできない。なぜなら、それは“意味”ではなく、“衝動”だからだ。
……もしも純度の高い三毒の発露が同時に現れたとき、記録構造は、間違いなく揺らぐ」
私は息を潜めていた。
「我々レジスタンスには、六つの系統がある。これを『六道』と呼んでいるが、それぞれの抵抗の形は異なる。
Refrain——理性と記憶を継ぐ者。
Orbis——記録を壊し、書き換える者たち。
Limina——境界の夢と沈黙を扱う観測者たち。
Novaは空間そのものを詩で編み直し、Hollowは欠落と孤独を祈りに変える。
Fall……奴らは破壊と絶望そのものを詩にする。制御不能な危険因子だ」
それぞれの詩には、それぞれの方法がある。
けれど、目的は一つだった。
「——BUDDAの絶対制御を揺るがすこと」
ジンは言葉を区切ってから、続けた。
「君の識別データは、Orbisのミナが書き換えた。観測員I-09としての記録は、本体ネットにも通っている。
Liminaの干渉詩も、お前の精神波形に重ねた。過剰な共鳴が起きても、沈静化できる」
「Refrainは記憶の詩を扱う。だが詩は、構造と無意識をまたぐ。
そのためには他系統の協力が不可欠だ。これは“六道すべて”で挑む戦いだ」
「君の震えが、“誰か”を目覚めさせるかもしれない。だから、行ってくれ」
*
記録管理施設・第3層地下区画。
塔域の奥深くに沈んだその階層は、地上からの光も熱も届かない。
空調は循環気流によって整備され、匂いも音も抑制されている。人工照明は最低限。防音処理された廊下には、誰かの足音すら吸収されて消えていた。
この空間に、偶発性はない。
すべてが、定常であり、静謐である。
イオはそこにいた。
記録上の任務名は、“特別観測員”。
社会全体の感情・行動・発言を記録するBUDDAの構文定義に照らし、逸脱した文字列や非構文語句を検出し、報告する役割。
といっても、その多くは意味をなさない断片だ。
たとえば韻律の欠けた詩形、文法的解釈の不能な古語、あるいは発話者不明の独白。
それらは、記録されても“ノイズ”として処理されるだけだった。
イオの背後には、脳内ユニット・カナエの声が流れていた。
「午前09時08分。ラインB-7端末、定時検査開始を確認しました」
「本日の処理対象:構文未定義データ3件。エラー予測閾値、標準域です」
彼女は無言で歩いた。
この任務が“表向きの監視”ではないことは知っていた。彼女はただの技術者ではなかった。ほんのわずかでも、予測不能な共鳴や逸脱に反応できる、選別された個体。
施設の最奥、古い壁面に埋め込まれたユニットのひとつに、イオは左手をそっとかざす。
表面はわずかにぬるく、そこは感情制御干渉域に隣接する特殊処理区画だった。
ここでは、ときおり“意味をもたない震え”が現れることがあった。
静かだった。
端末が内部でデータの並び替えを行う間、イオの耳の奥には何も届かないはずだった。
——なのに、そこに“誰かの声”があった。
最初は錯覚かと思った。
空調の漏れ、微弱な周波数、過去記録の誤再生。
だがそれは、どの分類にも当てはまらなかった。
意味はなかった。言葉でもなかった。
けれど、確かに“触れられた”感触が、耳の奥に残っていた。
彼女は思わず、数歩後ずさる。
装置の表面は変わらず静かに脈打っていた。
記録ログを確認する。——何もない。
再生履歴も、感情パラメータも、すべて正常。
なのに、耳の奥だけが、妙に温かい。
カナエの声がまた響いた。
「身体反応に異常はありません。記録ログを保持します」
イオは、手を静かに引いた。
何も語らず、何も報告しなかった。
だがその“声”は、確かに彼女の中に——残っていた。
それは記録されなかった。
再生もされなかった。
にもかかわらず、存在していた。
彼女の呼吸が、ほんのわずかに、乱れていた。
(第1話終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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