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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第1部 静かな目覚め  第12章 をとめのことば

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第60話|名を呼ぶために

地面に、靴底が触れるたび、砂がわずかに鳴った。

都市の北縁、廃路を辿る歩道。舗装はところどころ剥がれ、風が吹くたび、砂塵が舞う。


私は、歩いていた。

目的のない旅じゃない。ジンから渡された地図の、風の痕跡が集中する“その地点”へ。

風の反応、揺らぎの波長。小さく記された印の向こうに——あの少女がいる気がした。


胸に抱いた布の手触りはまだ新しく、しなやかだった。

歩きながら、指先でその端に触れる。

風が頬を撫で、袖を揺らすたびに、そこに“余白”が生まれる。

私は、布の上に小さく記した。


> 届かなくても、かまわない

名を知らなくても、かまわない

けれど、あなたが“いた”ことだけは、

風が——ちゃんと覚えてる




それは返事を求める詩ではなかった。

“名を呼ぶ”ための予兆だった。



白に近い灰色の天井が、明滅する。

感応記録センター。都市外れのアクセス制限区域。

人工光が無機質に照らす室内で、一人の少女が“保存”されていた。


β。

その名は、彼女自身のなかにもない。

椅子に深く固定された身体は、制御下にある。

睡眠に近い意識状態。定期的に感受波形が抽出・分析され、記録の対象となるだけの存在。


だがその日——異常が起きた。


少女のまぶたの奥で、微かな振動が走る。

指先が、ほんの一度だけ動いた。

風のような、触れた覚えのない“声”が、どこかから届いた気がした。


彼女は読まれたのだ。誰かに。

意識の底に、それだけが深く沈んだ。



「感応ユニットβ体、波形逸脱。記録再構成不能。同期信号が完全に断絶」

「未定義干渉を検出。詩波パターンと一致率68.2%。共鳴連鎖の兆候あり」

「警戒レベルをAに昇格。KANON抑制プロトコル起動準備」


赤い警告灯が、管理ドメイン中枢を塗り替える。

音は鳴らない。けれど、壁面いっぱいに走る非常表示が、異常事態を静かに告げていた。


その中心で立つ影——アマネ。

管理者として、KANONの補佐に立つ少女は、ひとことも発さずに警告を見つめていた。


「……また、“名を持たない”ものが動いた」


KANONの音声が、感情のない抑揚で告げる。

アマネの瞳の奥に、かすかな揺らぎが走る。

けれど、誰にも見せることなく、彼女はただ黙って記録を見守り続けていた。



深層観測ドメイン。

ユマは、夢の中にいた。

人工的に調整された睡眠波のなかで、なぜか“風”が吹いていた。


音のないはずの夢に、誰かの気配が混じっていた。

言葉ではない。記録にも残らない。けれど確かに、読まれていると感じた。


手が動く。

眠ったままの指先が、胸元の布を探すように、空気を握る。

その仕草には、既知の反応パターンには存在しない記録の“漏れ”があった。


ユマの脳波が、一瞬だけ上昇した。

その変化はKANONの観測外——

風の中に現れた、予測不能の余白だった。



保安連絡網、レイン端末に通達が届く。


「F-03優先指令:感応ユニットβ体における詩的干渉兆候。観測ログに一致不明データあり」

「対象:記録波形交差個体(ユマ・β)との交差ログ追跡。再発防止処理を開始せよ」


端末を閉じ、レインは小さく息を吐いた。

空気の奥に、風の気配を感じた気がした。


「また……始まったのか」


誰にともなくそう呟く。

掌に残る微かな記憶。それは、かつての風に触れた痕跡かもしれなかった。



「KANON反応、確定しました。共鳴地点の増加も記録済み。

 ……これは、おそらく抑え込めない波です」


レジスタンスの拠点。ハクの声には緊張があった。

彼は端末に浮かぶログを確認しながら、続けた。


「詩としてではなく、存在そのものが“読まれた”とき、

 ……風の中に“意味にならない証明”が生まれる。

 BUDDAにとって、それは——最も不確かな敵です」


ジンは焚き火の灰をかき混ぜていた。

やがて、その指を止め、静かに口を開く。


「共鳴は始まった。

 ……そして、それに応じる存在が現れた。

 あとは、名を——読めるかどうかだな」



私は、焚き火の前に戻っていた。

風が、静かに背中を押している。


「ジン」


私は、胸に抱いた布を見せた。

そこにはまだ名は縫われていない。

けれど、私のなかには、すでに“呼びたい誰か”がいた。


「……これが、“名を呼ぶ”ってこと、だったのかな?」


問いではなく、確認のように。

その響きを、自分の中で確かめるように。


ジンはうなずいた。


「名とは、記録ではなく、共鳴に刻むものだ。

 記録されないからこそ、響き続ける」


私はうなずき、静かに布を抱きしめた。


次に出会ったとき、

私は、あの子の名を呼ぶだろう。

それが、“証”になるように。



風が今日も、私の肩を押していた。


(第60話|終)


読んでいただいてありがとうございます。

5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。

感想などいただけると嬉しいです。

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