第59話|届かぬものほど
拠点に戻ると、ジンは焚き火のそばで静かに待っていた。
その火はもう、赤く低くなっていたが、まだ芯の部分だけは熱を残していた。
私は、布を抱えたまま、何も言わずに近づいた。
ハクが、記録ユニットをジンに手渡す。
その間、私は火の音を聞いていた。
ぱちり、と木が割れる音が、風に吸われていく。
「……届いたんだね?」
ジンの声は、あくまでも静かだった。
問いではない。確認でもない。
ただ、そう“言った”だけの言葉。
私は、小さくうなずいた。
それが、返事だった。
「声に出さなくても、詩は届くんだね」
私はようやく、そう言葉にした。
自分の口から出たのが不思議なくらい、あたたかい音だった。
「本当に届いた詩は、声にならなくても心に触れる。
風がそれを運ぶんだ。たしかな“痕跡”として」
ジンはそう言って、ハクから受け取った小さな波形の記録に目を落とした。
一筋の記録。だがそこには、イオと“誰か”のあいだに流れた“風のしるし”が確かに残っていた。
「名前も、何も知らない。
でも、そこに“いた”って思えたの。……私と同じように、“読む”人がいた」
その言葉に、ジンのまぶたがわずかに動いた。
彼は長い沈黙のあとで、ぽつりと呟いた。
「——それは、おまえにとって、どういう存在なんだろうな」
私は答えられなかった。
けれど、あの背中が、風のなかで私に触れた感覚だけは、今もはっきりと残っていた。
「共鳴値、再解析中。……観測される範囲に、記号化されていない“揺らぎ”が複数見られる」
ハクが小声で報告する。
その指は、装置の小さなディスプレイを繊細に操作しながら、止まらない。
「言語でも信号でもない。……けれど、読まれた“痕跡”が確かに重なる。
前回のユマへの詩波と、周波のごく一部が一致していた。
……あれは、偶発ではない。意図がある。詩として、反応していた」
彼は静かに言うが、その声音にはわずかな揺れがあった。
彼自身がその“意図”を定義できないことへの、違和感——あるいは、興味。
私は、その違和感を抱えて風に触れた人間を、すでに知っていた。
「……で?」
焚き火の向こうから、ハクが問いかけてくる。
その目は、私に答えを強要するものではない。
ただ、確認するような目。
「君はどうする? ここで報告を終えるのか、それとも——」
私は、布を見下ろした。
風に触れた跡が、まだ消えていない。
誰かの震えが、確かに残っている。
都市の隅に、名もないまま立っていたあの背中。
その静けさの中に、なにかが生まれかけていた。
それを放っておくことは、できなかった。
「……行く。もう一度。
あの子の“詩”を、もっと読まなきゃいけない気がする」
それは、任務の延長ではなかった。
指示でも、義務でもない。
“自分の中に残った何か”に従って、もう一度風に会いに行く。
それだけのことだった。
ジンが、火の上に新しい薪をくべた。
ぱちん、と軽い音がして、空気が少し熱を帯びる。
「なら、もう一枚持っていけ。……今度は、おまえが“名を縫う”番だ」
彼はそう言って、新しい布を差し出した。
まだ詩も、名も縫われていない。
けれど、その余白こそが——次の言葉の、はじまりだった。
私はそれを受け取り、そっと胸に抱く。
(第59話|終)
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5/12(月)より平日の18:00頃に投稿することに変更しています。
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