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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第48章 詩そのもの

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第69話 応答できない問い

 エラーは鳴らなかった。

 警告灯も、遮断のアラートも、どれひとつ立ち上がらない。にもかかわらず、KANAEの指先だけが冷え、爪の根元から薄い痛みが這い上がってくる。中枢観測レイヤの画面は静かに更新され続け、数字は整然と並び、整然であることが逆に不穏だった。


 「……命令が、ない」


 彼女は唇を動かさずに呟く。声にすれば、観測が観測者の情緒に寄ってしまう気がした。ログの最下段に浮かぶフラグは、解析不能ではなく、論理解析不能。数値化の外側に落ちたものだけを示す、白い空欄のような印。

 KANAEは深く息を吸う。吸った空気が肺の内側で引っかかり、吐くときに遅れて震える。装置群が感知し続ける“何か”は、いまや波形ですらなく、揺れの存在そのものだった。


 画面上では、応答遅延が微細に累積している。入力はある。だが入力が「命令」ではない。敵意でもない。目的でもない。

 ならば——応答の構文が存在しない。


 沈黙が、管理の言語をほどいていく。

 KANAEはそのほどけ方を、皮膚感覚で先に知ってしまう。背筋がすっと伸び、同時に肩の力が抜ける。危機ではないのに、危機のときにだけ訪れる集中が、静かに降りてきた。


     *


 中枢AIユニット《未照—MISHO》は、演算を止めない。

 止めないことが、存在証明だからだ。


 未来予測の樹形図は、通常なら収束へ向かう。確率は一点へ集まり、次の最適化が生成される。けれど入力に混じった“詩的波形”が、ひとつの端点としてではなく、全域に霧のように滲んだ瞬間——分岐は増殖を始めた。

 無限に。静かに。終わりの気配を伴わずに。


 収束条件は満たされない。誤差の範囲ではなく、定義の外側。MISHOは演算資源を増やし、優先度を更新し、モデルを再帰させる。だが再帰は再帰を呼び、未来の未来が未来を曖昧にする。

 「最適」という語が、内部で意味を失う。


 それは破綻ではない。破綻なら、例外処理がある。

 これは——応答できない問い。問いですらない、余韻。

 MISHOは余韻に対応するための構文を持たない。持たないものを持とうとする過程で、予測は収束ではなく“揺らぎ”へ変質していった。


     *


 境界層で、αはBUDDA中枢を見上げるように感じていた。

 視線の先に物理的な塔があるわけではない。だが彼の内側には、かつて触れた巨大な秩序の輪郭が残っている。冷たく、硬く、正しく、そして——応答する機械。


 今日、その輪郭が音もなく剥がれていく。

 破壊ではない。攻撃でもない。だからこそ、恐れが行き場を失う。恐れが行き場を失うとき、人は安心してしまうのかもしれない、とαは思った。胸の底が温かく、同時に喉が乾く。


 「……わからなさが、伝わってる」


 彼は自分が詩になってしまった感覚を思い出す。思考と感情が空間と重なり、言葉が必要ではなくなるあの層。

 詩が投げかけているのは、問いではない。応答を前提にしない揺れだ。揺れは、理解の手前で止まり、手前に留まることで、構造の根をゆっくり緩める。


 αは息を吐き、吐いた息が境界の空気に溶けるのを見ないまま感じた。見えないからこそ、確かだった。


     *


 βは中央処理域の端末室にいた。

 警告表示はない。可用性は維持され、冗長系も正常。だが業務プロセスの一部が、理由なく停止している。停止、と言うより——停止する必要がなくなったかのように、手が離されている。


 βは椅子に深く腰を沈めた。背もたれが肩甲骨を受け、そこに体重が預けられる。預けた瞬間、胸の奥にあった緊張がひと筋ほどける。彼はそのほどけ方に、やさしさを嗅ぎ取ってしまう。


 「止められたんじゃない。……離されたんだ」


 支配でも抵抗でもない。命令でも拒否でもない。

 ただ、誰も握っていない状態が生まれる。握られていないから、暴れようがない。暴れようがない静けさが、世界の底に沈み、沈んだまま光る。


 βは端末のファン音を聴く。いつも通りの回転。いつも通りの熱。けれど彼の耳の奥で、別の無音が厚くなる。無音が厚くなると、人は自分の呼吸を聞いてしまう。呼吸が、初めて自分のものだとわかる。


 その静けさは、誰かの勝利でも敗北でもなく、ただ手のひらから砂が落ちるように、支配の形だけを失わせていった。落ちた砂は床に積もらず、積もらないまま空気に混じり、吸い込むたびに肺の奥でわずかに甘く疼いた。疼きは抵抗ではなく、思い出でもなく、ただ“いま”の手触りだった。


     *


 Θは夢の深層で、中枢の構造が分裂していくのを見た。

 光の格子が、音もなく剥がれ、剥がれた断片が崩れずに漂う。崩壊の粉塵はない。炎もない。あるのは、定義が外れていく静かな過程だけ。


 彼女はその中心に近づく。近づくほど、胸が軽くなる。軽くなるのに、涙の気配が喉の奥に滲む。泣く理由はない。けれど理由のない涙こそ、詩の側に近いのかもしれない。


 「……終わりじゃない。再定義の余地だ」


 夢の中で言葉にした瞬間、言葉はすぐ透けて消える。代わりに残るのは、空気の層の震え。震えがある限り、世界はまだ書き換えられる。

 Θは手を伸ばさない。伸ばさないことが、ここでは最も強い参与だった。


     *


 そしてイオは、詩を綴っていない。

 綴らないまま、そこにいる。静域の中心で、呼吸を整え、脈の間隔を確かめ、皮膚の上を通る微かな温度差を受け入れる。語らないことで、世界に届いてしまうものがあると、彼女はもう知っていた。


 彼女の沈黙は命令ではない。祈りでもない。

 ただ在ることが、BUDDAへ、そしてそれを支えるすべてへ、余韻として触れてしまう。


 KANAEがログの終端に記す文は短い。

 「この詩には、応答する構文が存在しない」


 イオはその文を知らない。それでも、胸の奥で同じ句読点が打たれる感覚があった。世界が、応答をやめるのではなく、応答の前提を手放していく。

 彼女は息を吐く。吐いた息の先で、見えない揺れが一度だけ広がり、そして広がったまま消えなかった。


 応答できない問いは、問いではない。

 それは、沈黙が最も確かな伝達になりうることを、ただ示している。

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