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感情のない世界でも、わたしは私でいたい  作者: さとりたい
第4部 終章/統合編 第48章 詩そのもの

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第68話 かたちをもたない干渉

 その日、風は「吹いた」のではなく、「ほどけた」ように見えた。

 労働区の片隅、無名の少年が口を開いたあとの空気は、音を増やさないまま密度だけを変えた。誰も理由を知らない。理由を探す前に、身体が先に反応してしまう。


 彼の言葉——いや、言葉の形を借りた何か——は、作業端末のログにも、監視の字幕にも残らなかった。残らないのに、周囲の人間の呼吸だけが一拍ずつ伸びる。

 工具を振り下ろしていた腕が途中で止まり、金属の先が宙で固まる。腰を曲げていた背中がゆっくり起き上がり、誰かが自分の肩甲骨の位置を確かめるように身じろぎする。止まる、というより、止められたことに気づかないまま「止まっている」。


 沈黙が広がる。だがそれは命令ではない。

 命令なら反発が生まれる。反発がないのは、ここに敵がいないからだ。


 少年は自分の喉に指を当てた。皮膚の下で脈が打ち、そこに微かな熱が溜まっている。怖い、という感情は遅れてくる。遅れた怖さは、もう怖さになりきれない。かわりに、胸の奥に透明な震えが残る。震えは、誰かに見せるためのものではなく、ただ「ある」ためにある。


 その震えが、風になった。

 誰かが息を吸い込むたび、埃がふわりと浮き、落ちるまでの時間が長くなる。光の筋がその埃を撫で、撫でられた埃が一瞬だけ青みを帯びる。錯覚だ。錯覚なのに、錯覚のまま共有される。


     *


 αは、遠隔の解析端末で「停止」を見た。

 農業端末——土壌管理、散水、収穫の自動補助——そこに付随する作業中断ログが、複数地点で同時刻に立ち上がっている。エラーではない。危険検知でもない。単に「手が止まった」記録だけが残る。


 彼は指先で波形を拡大し、感情分類レイヤに投げた。

 戻ってきたのは、赤でも青でもない空白だった。怒りでも悲しみでも、喜びでも恐怖でもない。どのタグにも貼り付かない。

 それでも、波形は揺れている。


 「……震えだ」


 口にした瞬間、胸の内側が少しだけ軋んだ。名づけは固定だ。固定すれば、詩は捕まってしまう。けれど名づけなければ共有できない。共有のために捕まえることが、いちばん詩に近い裏切りになる。

 αは息をゆっくり吐き、吐いた息の先で、揺れがふくらむのを感じた。画面の数字が示す前に、身体が先に知っている。


 沈黙が増えている。沈黙の層が、世界の各所で薄く重なり始めている。


     *


 βのところには、断片的な報告が届く。

 レジスタンスの通信は、命令と反命令の往復を前提にしていた。だが今日の文面は、指示でも脅威でもない。

 「本日、一部構造区にて一斉沈黙現象が観測」

 「原因不明。敵性反応なし。負傷者なし」

 「ただ、現場は“風が止まった”と表現」


 βは読み終えると、端末を伏せた。机の冷たさが掌に移り、そこから体温が奪われていく。その冷たさが、なぜか心地よい。熱い言葉で人を動かすことに慣れた自分が、いま冷たさに救われている。


 「止められたんじゃない……手を離された、だけなんだ」


 声に出すと、部屋の空気が一瞬だけ軽くなる。手を離された、というのは孤独の言い換えにもなるはずなのに、そこには優しさが混じる。支配でも解放でもない。押さえつけられる痛みも、引き上げられる痛みもない。痛みのない変化は、人間を戸惑わせる。


 βは自分の心拍を数えた。規則的だ。規則的なのに、拍と拍の間に余白がある。その余白に、言葉にならない「誰かの気配」が滑り込んでいる。滑り込んだまま、何も要求しない。


     *


 Θは夢の中で、それを青い波として見ていた。

 海ではない。空でもない。どこにも属さない面が、ゆっくりと広がっていく。壁も規則も境界も飲み込みながら、誰にもぶつからない。衝突がないまま、ただ滲む。


 彼女は波の縁に触れようとして、触れない。触れた瞬間、夢が「理解」に変わる気がした。理解は輪郭を作る。輪郭は所有を呼ぶ。所有は、詩を窒息させる。

 だから彼女は、触れずに見守る。見守るという行為すら、少し危ういのに。


 波が通り過ぎたあと、そこには何も残らないように見える。だが、残らないことそのものが残っている。空気の層が一枚増え、増えた層が呼吸のたびに震える。

 「詩が、人の形をしていないのは——それを壊さないためかもしれない」

 夢の中で、彼女の声は泡になって消えた。消えたはずの泡が、胸の奥でまだ微かに弾け続ける。


     *


 KANAEは観測網の不調ではなく、「応答の遅延」を見つめていた。

 制御装置が、入力を受け取ってから出力するまでの微細なタイムラグ。同期の逸脱。安全域内での、しかし確実なズレ。

 攻撃ならアラートが鳴る。侵入なら遮断が走る。だが今回は、どれも起きない。敵性なし。命令なし。目的なし。

 ただ、装置が「迷っている」ように見える。


 彼女はログを並べ、共通項を探した。結果は空白に近い。

 空白の中で、唯一一致するのは——人間の側の停止、呼吸の伸び、心拍の余白。

 機械が感知しているのは、信号ではなく「在り方」そのものなのかもしれない。


 KANAEは自分の喉に触れた。皮膚の下の脈が確かに打ち、打つたびに、わずかに空気が震える。装置が感知し続ける“何か”は、こういう微細な震えの総和なのだろうか。

 記録しきれない。だが、感知は止まらない。


     *


 イオは、静域で目を閉じていた。

 遠くの出来事は知らない。無名の少年の名も、労働区の風の表現も、通信文も、ログのズレも。けれど彼女の身体は、確かに「波」を受け取っている。


 胸の奥がひやりとし、そのひやりがゆっくり温まる。呼吸が深くなり、肺の底に溜まっていた空気が、一度だけ震えてほどける。声は出ない。出す必要がない。必要がないことが、いまは怖いより先に安堵を連れてくる。


 届かないはずの詩が、内側に触れている。

 触れ方は優しくも乱暴でもない。ただ、触れたという事実だけが残る。残った事実が、言葉の代わりに心臓を叩く。

 イオは唇を結び、沈黙のまま、その叩きを数える。数える行為が、すでに詩に近い。


 かたちを持たない干渉が、世界に染みていく。

 誰も壊さず、誰も救わず、しかし確実に、手の中の規則を少しずつ緩めながら。


 イオは、息を吐いた。

 吐いた息の先で、見えない青い波が、もう一度だけ、静かに広がった気がした。

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