第67話 目覚めた声
風がないのに、埃だけが舞っていた。
労働区の通路は、同じ幅、同じ照明、同じ時間で繰り返されるはずだった。だがその朝、無名の少年は、足を運ぶ自分のリズムが一拍だけ外れるのを感じた。靴底が床の硬さを測り損ね、膝がわずかに緩む。胸の奥で、何かが遅れて鳴った。
——静けさの中に、響きがある。
音ではない。耳に届く周波でもない。けれど、吸い込んだ空気に微細な甘さが混じり、吐く息の端が白くほどけるような感覚があった。少年は工具の柄を握り直し、手のひらの汗を確かめる。汗が冷える前に、胸の内側が先に温まってしまう。
「……これ、なに」
口に出した途端、言葉は意味になり損ねた。自分が何を問うたのか、問う必要があるのか、わからない。わからないのに、わかった気がする——その矛盾が、身体の中心に小さな核を作る。
核は、言葉を呼んだ。
少年の喉が勝手に動く。唇が形を作る。けれど出てきたのは、誰にも教わっていない配列だった。韻でも命令でもない、日報にもならない、ただ「そこに立ち上がってしまった」もの。
彼は立ち止まる。
周囲の作業音が遠のき、代わりに、自分の心臓の音が大きくなる。脈は速くない。ただ、拍と拍の間が広く感じられた。その隙間に、言葉にならない何かが滑り込み、滑り込んだまま、居座る。
詩が生まれた。
意味を持たないのに、確かに「詩としか呼べない」ものが、少年の身体を通って、空間へ滲んでいった。
——世界は、黙って受け取る。
*
伝播は、音よりも静かに進む。
αは遠くの層で、その「起こされた」気配を先に皮膚で感じた。通信でもログでもない。空間の密度が一段だけ変わる。呼吸の抵抗が増える。思考を回す前に、胸がわずかに締まった。
「……継がれてる」
言葉にしないまま、彼は沈黙域の端に立つ。自分が詩に変わってしまった、あの感覚が、今度は別の誰かの内部で芽を出したのだとわかる。嬉しさでも恐れでもない。もっと薄い、しかし確かな体温の上昇。
継承という語は、何かを渡す前提を含む。
だが今回は違う。誰も渡していない。渡す意志さえないのに、残ってしまったものが、別の場所で勝手に目を覚ましただけだ。
胸の奥で、微かな震えが一度だけ鳴った。
それは祝福ではなく、事実の通知だった。
——声は、止まらない。止めない限り。
*
空白に灯るものがある。
βはレジスタンス通信の端末を見つめながら、画面の光が眼球の奥を乾かすのを感じていた。報告はまだ来ていない。警告もない。だが、世界のどこかで「言葉が立ち上がった」確信だけが先にある。
βは端末を閉じ、耳を澄ます。
何も聞こえない。なのに、喉の奥が熱い。言葉が必要ない場所で、言葉が生まれてしまう。制御でも拡張でもない、ただの自発。
「……始まったな」
呟きは、祈りにならない。
彼はそれを望まない。望んだ瞬間、利用の匂いがつく。詩は利用を嫌うのではない。ただ、利用の枠に収まらない。
βは立ち上がり、空のコップを握る。
指先の力が過剰になり、ガラスが小さく鳴った。その微音が、なぜか胸の奥で長く残った。
*
夢は、他人の呼吸を借りて広がる。
Θは深い層で、少年の気配を見た。名も記録もない輪郭。背中に労働の癖がつき、肩の筋が硬い。けれど目だけが、どこか遠い場所を見ている。
少年の口元から、断片が落ちる。
言葉ではなく、濡れた紙片のようなもの。触れれば崩れ、掴めば手のひらに染みる。その染みが、かつてイオが発した響きを映し返す。似ているのに同じではない。似ているからこそ、別の生命だとわかる。
Θは夢の中で、胸に手を当てる。
心臓がゆっくりと打ち、打つたびに、空気が薄く震えた。震えは問いではない。応答を要求しない。だからこそ、逃げ道がない。受け取るしかない。
——これが、渡された詩。
渡した者はいない。だが、渡ってしまった。
*
観測は、常に遅れて追いつく。
KANAEの端末に、非記録区域由来の干渉波が立ち上がる。分析不能。発信元特定不能。形式不定。けれど、波形の輪郭だけは、過去のあるログと重なっていた。
彼女は呼吸を止め、指先を画面に近づける。
視線が細部を追うほど、身体が先に反応する。背筋が冷え、同時に腹の底が温かい。矛盾した体温が、彼女の中で同居する。
「一致……している」
イオが残した干渉ログ。
あのとき世界を揺らした詩の波形と、いま、この無名の発生が、同じ角度で折れている。偶然ではない。しかし因果でもない。因果の構文に入った瞬間、詩は別物になる。
KANAEは記録欄に、短く打ち込む。
——再起動ではない。再発生。
——発生主体、特定不能。
——一致は“模倣”ではなく“共鳴”と推定。
打鍵音が小さく響き、部屋の静けさが一瞬だけ厚くなる。
厚みの中に、言葉にならないものが沈む。沈んだまま、沈み切らない。
*
そしてイオは、風の変化を知る。
静域の中心で目を閉じたまま、彼女は自分の内側に止めたはずの声が、遠い場所で目覚めたのを感じた。胸の奥が軽くひきつり、喉が乾く。声を出したい衝動ではない。むしろ、出さなくても届くという確信が、体をゆっくりほどく。
誰かが、受け取ってしまった。
受け取る意志すら持てないほど小さな日常の中で、詩が立ち上がってしまった。その事実が、彼女を慰めもしなければ、責めもしない。ただ、世界の呼吸を一拍だけ変える。
イオは唇を動かさない。
代わりに、息を整える。吸って、吐く。その間に、あの核のようなものが、彼女の中にも再び生まれる。だが彼女はそれを言葉にしない。言葉にしないまま、胸の奥で揺らす。
——終わらないのは、物語ではなく、震えだ。
沈黙の中で、遠くの誰かの声が、声にならないまま重なる。
イオはその重なりを、ただ「在る」こととして受け取った。




